「中庸こそが大切」という意見もあるが、気になることがあれば、納得するまでとことんやってみるのもいい

「中庸」という言葉や概念を耳にすることがある。これは古代中国の孔子が『論語』のなかで、

中庸の徳たる 其れ到れるかな。民鮮きこと久し。

と言っているのが始まりともされているが、古代ギリシアのアリストテレスも『ニコマコス倫理学』において、

節制も勇敢も「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。

と述べていると伝えられている。もちろんアリストテレスの「メソテース」という概念に「中庸」という訳を当てたのは本人ではないが、少なからず共通する部分があるのは確かだろう。

さらには実のところ、この「中庸」という概念は仏教における「中道」という概念とも混ざり合っている。そしてその結果、この言葉はその素となったそれぞれの概念から多少離れて、一般にはたとえば『大辞林』第3版にあるように、

考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。過不足がなく,極端に走らないこと。また,そのさま。

などというようなものとして捉えられている。あるいはもっと単純に、

「どちらの立場にも与しない、冷静で、観察者的な、第3者の客観的な立場を保つ」

といった意味で用いられることも多いかもしれない。そして、特に精神的なことを説くひとたちのなかでは、こうした現代的な意味合いでの「中庸」を、最も大切な態度として考えるひとも少なからず見受けられる。しかし率直に言えば、私自身はこうした立場にはいない。なぜなら私はむしろ、

なにか気になることがあれば、納得するまでとことんやってみるのもいい

と思っているからなのである。

私は「思想研究家」ではないので、孔子やアリストテレスやゴータマ・シッダルタの言おうとしていた意味における「中庸」(中道)とはなんなのかについてはここで深く追求しない。それにそれが私の目的でもない。ただ私は、先に書いたように現代における「中庸」が、

「どちらの立場にも与しない、冷静で、観察者的な、第3者の客観的な立場を保つ」

といったような意味で理解されているとして、それこそが大切だと考えているひとたちがいるとしても、私は少し違った考えかたをしているということを言っておきたいと思うのである。

まず私の考えの根本にあるのは、

私たちは、この世界に存在している時点で、既に第3者的ではあり得ず、客観的にもなれない。なぜなら、私たちは「当事者」であり、「責任者」であり、「行動する(せざるを得ない)存在」だからである

という認識だと言える。だからこれさえわかってもらえれば話はほとんど終わりなのだが、せっかくの機会なので多少補足してみたい。

そもそも、私たちがもしこの世界(ここでは特に肉体世界)に対して完全に「客観的」でありたかったのなら、ここに生まれてこなければよかったのである。それでも既に「存在」してしまっている限りどこかでなんらかの影響は与えているわけなのだが、それでも少なくとも「霊存在」として霊界にいて、特になんらかの想いを送るでもなく淡々と生きていれば、いくらでも「観察者」の立場を保っていられた。厳密に言えばあなたが「観察」しているというだけでも相手には影響を与えているとはいえ、そんなものは肉体人として直接この世に生まれてくる影響力から見ればほとんど比べものにもならないようなものだ。そんなことは、生まれる前の私たちならみんなわかっていたことである。

それでも、私たちは生まれてきた。それは、この世界を直に「体験する」ためだ。なにかを「実践する」ためだ。そしてこの世界をより深く理解し、必要ならそのなにかを「変える」ためだ。さらに言えば、私たちはそれぞれ多少なりともなにかを「変えたい」と思ったからこそ、わざわざこの世界に生まれてきたのである。

そして実際に生まれてきて、この世界を体験している私たちは、この世界には変える必要のあるところがたくさんあることを再認識しているはずだ。それは自分が「生きづらさ」や「苦しみ」を抱えるときならより深くわかると思う。そして、周りを見渡せば、そんなひとはあなただけではなく、そこらじゅうにいるのだ。ここまで来ればもはや、この世界で変えなくてもいいところなどどこにもないかのように、この世界は今や深い病みを抱え、満身創痍と言ってもいい状態にある。

だが、実は、こんな今のどうしようもないような状態こそ、現時点におけるある種の「中庸」なのである。なぜ、今の世界がこのように在るのかといえば、それは

この現状を変えたい!

と思っているのと同じくらい、

このままでいい

とか、そこまでは思っていなくても

もうどうしようもない

私だけではなにもできない。どうせ無駄なんだ

などと諦めているひとがいるからなのだ。だからその意味では、この世界も常に様々な想いや行動の影響を受けながら、その都度その

「落としどころに収まっている」

ということなのである。もちろんその「落としどころ」は日々刻々と移り変わっているのだが、ともかく今この瞬間において、私たちに総合的な意味で最も「ふさわしい」、「中庸な」、「バランスのとれた」状態がまさに私たちがいるこの世界なのである。

しかし、それは「私たちの総体」にとって最も「ふさわしい結果」であって、「あなた自身」にとって居心地がいいかどうかは別問題である。言い換えるとこの世界ではいつも「綱引き」が行われているようなものだ。それは霊界においても同じである。そして、皮肉なことに現時点において最も活動的な集団というのは、私たちに

喜びを見失わせ、弱め、混乱させて支配しよう

としているひとたち(とそこにつながる負の霊団)なのである。彼らは、決して無力感を持っていない。むしろますます自分の「道」を究めようとしている。それなのに私たちが諦めてしまっているのだとしたら、この結果はむしろ自然だと言えるだろう。だからこそ、今の状態が「中庸」なのである。

だが、こんな「中庸」が、あなたの望んでいるものだろうか?私はまったくそう思わない。そして、

「なにかを変える」

とは、

「均衡を壊す」

ということなのだ。それに、あなたも、私も、日々実際に均衡を壊しながら生きている。それは生きている限り、この世に存在し始めた瞬間から、どのみち避けられないことなのだ。そのことを認識したなら、やりたいことをやらずにいる理由はもはやないではないか?余計な心配は要らない。私たちはみんな異なる存在なのだから、あなたが画家になったからといってみんなが絵を描き始めて電気が供給されなくなることもない。あなたがやらないことは誰かがやってくれるし、もし後世のひとから見て「間違った」ことをしてしまったとしてもそれはまた誰かが修正してくれて、そのときにとっての「中庸」に落ち着かせてくれるはずだ。

だから、あなたも「安心して」中庸を壊してほしい。好きなことを、気になることを、自分が納得するまで、とことんやってみてほしい。もちろんそれは日々変わるかもしれない。でもそれはそれでいいではないか?どちらにしても、私たちの一生は限られている。だったら、好きなことをして、笑顔でいる時間が増えたほうがいい。それがしあわせというものだ。私も、もっと自分をしあわせにしたいと思う。それにもちろんあなたにも、しあわせになってほしい。そのためには今の「中庸」を壊すことをためらっている場合ではない。この先にはもっと素晴らしい世界が私たちを待っている。その「可能性」に力を与えられるのは、当事者である私たちしか、いないのである。

コメント

  1. 細胞 より:

    天秤座のさがなのかもしれません、バランスをとろうとしてしまうところが。こわしちゃっていいのかもしれませんね。中庸にいること自体も観念かもしれないですね。真に行きたい方向へ進む方が、どっちつかずでバランス取っているより自由で自分の意志のような気もしますね。中庸って結局板挟みですもんね。

    • Dilettante より:

      細胞さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      なにごともほどほどくらいがちょうどいいよ

      などという意見にも確かに一理あるにせよ、それが

      絶対に「ほどほど」でなければいけないんだ!

      となるとそれはそれ自体が「行き過ぎ」であり、もはや「抑圧」以外のなにものでもなくなってしまうのではないかと思います。

      自分でもそれが

      板挟み

      だと感じられているなら、なおさらです。

      ただ「突き抜ける」のには覚悟とエネルギーが必要でもあり、だからこそ難しいのだとも思います。しかしその葛藤を乗り越え、突き抜けたからこそ見える景色もあると思っています。だから私はやはりそれを見てみたいと、そう思っているのです。