またひとつ「身近な死」を経験した私の心に浮かんだ、様々な想いと決意

苦しいのは誰だって同じなんだよ。俺だって歯を食いしばって生きてるんだ!

こんなことを耳にすることも多いくらい、私たちは苦しみに慣れすぎている。同じように、私たちは「他者の死」にも慣れすぎている。こうしている間にも次々に自殺が行われているのだが、そんなことはいちいちニュースにならない。それにもう私たちは、単なる「殺人事件」が起きたくらいでは驚くこともない。私たちは、この世界の苦しみに、哀しみに、異常さに「適応」し、自分の心を護るために、「鈍感さ」を身に付けるしかなかった。しかしそれは、実は最も哀しいことである。

そして、究極の「鈍感さ」とは、それを「見ない」(無いものと見なす)ということである。だから「文明」が発達すると、「死」は「どこか遠く」にひっそりと隠される。そして、「霊存在」や「霊界」などというものは「迷信」だとされ、実際には無いものと見なされる。そして、それがある段階を超えたとき、私たちは霊と関わる能力そのものを封印し、自分の「世界観」から排除した。だが、どんなに遠ざけても、どんなに見ないように心がけても、どんなに鈍感になろうとしても、私たちの眼前に「身近な死」がやって来るときは必ずある。そのとき私たちは、自分の心と向き合うことを余儀なくされる。そしてそのことが大きな意味を持つのは、こうして毎日霊存在と対話している私にとっても、まったく同じことなのである。

そのひとが体調を崩して入院したということを知ったのは、つい先日のことだった。私は彼が既に高齢であることを知ってはいたのだが、そのときはそれがいのちに関わるようなものだとは、まったく思わなかった。それにそれは当の本人も同じだったようで、周りにも

心配かけてすまないね

などと気丈に振る舞っていて、特に深刻な様子は見せていないということだった。私は現在彼のいる場所からあまりにも離れているために、見舞いに行くことはできそうになかったが、私はひとづてに耳にする彼の様子に、安心していた。嫌な予感も胸騒ぎも、一切なかった。私はただ彼が早く元気になることを願っていた。

だが、それからたった数日で、彼は死んでしまった。訊けばもともとは私が知らされたとおり、ただ「ケガをした」程度だったのだが、そこから雑菌が入りこんだことなどが複合的に作用して、高齢のからだを死に至らしめたのだということだった。1か月前までは自宅で日常を送り、半日前まで周囲と会話をしていたひとが、もうこの世にいない。私が知らせを受けたのは、彼が息を引き取って間もなくのことだった。

なぜ、なんの予感もしなかったのだろう?

と私は自問した。

こんなときになにもわからないなら、なんのための力なんだ!

確かに霊存在と対話し、相手が変わってくれたときは、私も嬉しい。しかし、それと同じくらい苦しめられることもある。その挙句「身近な死」に対してなにもできないのであれば、誰が私を信じてくれるというのか? それにもしかしたら、私はただ自分で思い込んでいるだけで、本当はやはり「狂っている」のではないのか?私の「真実」とは、本当に正しいのだろうか? ましてや他者に伝えてもいいものなのだろうか?

率直に言って、私は落ち込んだのである。そこにいろいろな霊団の影響も相まって、疑心暗鬼や自己不信といった感情が一気に流れてきて、危うくそれに溺れてしまいそうにもなった。

しかしそうしているうちにふと、

わかっていたらどうした?なにができた?

という想いが湧いてきた。もしあと数日で彼が死んでしまうと知らされたとしたら、私は今よりしあわせだっただろうか?そんなことはない。むしろ今より苦しんだかもしれない。そもそも本人や親しいひとたちですら、彼が死ぬなどとは直前まで思ってもいなかったのだ。それを特別に仲のいい親友でも、古くからの付き合いがあるわけでもない私が、

彼のいのちはあと数日です。今のうちに悔いのないようにとことん話し合ってください

などと言ってみたところでなんになるだろう?相手からすればそれこそまさに、

お前は地獄に堕ちることになる!

もうすぐ世界は終わる!

などと言って不安や恐怖を煽るだけの質の悪い存在でしかないだろう。逆にもし元気になったら?

私が救ったのです

などと言えばいいのだろうか?そんなことをしたら、そこらじゅうにあふれる「宗教」や「霊感商法」などと、ほとんど変わらないことになる。それにそもそも、それが彼の寿命であるなら、私がそれをどうこうする力などあるはずもない。では彼が死んだとき、

ほら、私の言ったとおりでしょう?

などと言えばいいのだろうか? そんなことをしたらどれだけ相手を傷つけるか、それを想像できないのは哀れである。

それに、

知人が亡くなると虫の知らせを受けたので、急ではありますが1週間ほど出かけます

などと言って急いで見舞いに行ってみたからといって、どうなることでもないのだ。そもそもそんなことが周囲に理解されるとも思えない。

だから結局、私が彼の死を事前に知っていたとしても、できることはなにもないのだ。そして

「できることはなにもないのに事実だけを知らされている」

ということがどれほどの苦しみになることかを考えれば、守護霊や他の誰かが私に「予感」を与えないのは当然のことなのだ。それを責めるのはまったくの筋違いなのである。

ここまで思考と感情を整理できたところで、私は少し落ち着きを取り戻し、改めて冷静に、

自分になにができるか?

と考えた。そして私は、彼の様子を見に行くことにしたのである。

すると彼は、まだ「眠って」いた。彼の心臓の鼓動は止まり、肉体の機能は停止し、魂はからだを離れようとしている。だから彼はもう「肉体人」(霊留=ひと)ではなく「霊存在」になるときを迎えている。しかし本人にその「自覚」がない。彼は「自分は死んだ」と思っている。だから動かない。呼びかけにも反応しない。だが、彼はまだ「生きている」のだ。死んだのは彼の「肉体」であって彼の「魂」ではない。だから彼は、今度は「霊存在として生まれる」必要があるのだ。

だから私は彼に根気よく呼びかけ続けた。

あなたはまだ「生きている」んだよ。確かに「死んだ」んだけど、まだ「生きている」んだ。だから「終わり」じゃない。もういちど目を開けて、起き上がって、周りを見てみて。みんな、待ってるんだよ

するとしばらくして、彼はついに「起きた」。最初は戸惑っていたものの、

もう苦しくないでしょう? 周りも見えるでしょう?それにほら、また走ることだってできるんだよ

と私が言うと、

本当だな

と言って静かに笑った。

ここが「あの世」なんだな……

それから少しして、私たちのもとに続々と霊存在が集まり始めた。既に霊界で生きている彼の血縁者、友人、守護霊……。みんな彼に縁のある存在だ。そして、彼らは言う。

お疲れ様。よく生き抜いたね。おかえりなさい

みんな彼を「祝って」いる。それもそのはずだ。今日は彼の「誕生日」なのだから。

どんなに私たちが死に慣れきったように思ってみても、「身近な死」はいつも私たちを動揺させる。その「喪失感」は、相手が自分にとって大切なひとであるほど、とても大きなものになる。「自己の死」よりも、「大切な他者の死」のほうがずっとつらい。少なくとも私にとってはそうだ。だが、それがいつになるかは、誰にもわからない。わかるべきでもない。ただ、それは案外思っていたよりずっと早いかもしれない。あるいは、ずっと遅いかもしれない。だがいずれにしても、それはいずれ必ず、私たちの前にやってくる。

そして今回、その「身近な死」が、またひとつ私の前に現れた。そしてこの体験は、私にまた多くのことを教えてくれた。身近なひとが死ぬのはとても哀しい。しかし今回初めて、私は霊存在の「誕生会」を実際に見ることになった。そして思った。

「喪に服す」のではなく、精いっぱい楽しんで生きることこそが、私たちが故人にできる、最大の供養なんだ

逆に言えば、肉体人としての「誕生日」とは、霊存在としての「命日」なのだ。だとしたら親しい霊存在が「生まれ変わる」のは、彼らだって寂しいだろう。だが、彼らは「行ってらっしゃい。楽しんできてね」と私たちをこの世界に送り出してくれた。ならば今度は私たちが、彼らの「誕生日」を祝う番なのだ。

ゆっくり休んで、私たちを見守っていてね。精いっぱい生き抜くから。楽しむからね

それは、決して簡単なことではない。寂しいものは寂しいし、哀しいものは哀しい。だが、死はやはり自然なことなのだ。そしていずれは私自身も、大切なひとを遺して、死んでいくことになる。そのとききっと私は、相手がいずれまたたくさんの笑顔を見せてくれることを、心から願うだろう。

あなたはきっと、私のことをそれほど好きではなかったかもしれない。だが、私にとってあなたは確かに大切な存在だった。だからこそ、今の私にあるこの寂しさは、決して嘘ではないと言い切れる。けれど、私はあなたのためにも、またたくさん笑おうと思う。そして私と一緒にいてくれる大切な存在を、いつまでも大事にしたいと思う。そして、私も最期まで、精いっぱい生き抜こうと思う。だから、あなたもまずはゆっくり休んで、いずれ気が向いたら、またこっちに生まれ変わってきてほしい。そのときは、私もきっとあなたにこう言おう。

お疲れ様。よく来てくれたね。おかえりなさい

私はそのときを、ずっと楽しみに待っている。