苦しいときは自分を護る。「生き抜くための逃げ」ならば、それも立派な選択だ

あなたは今しあわせですか?

もしこんな問いに自信を持って

はい!

と答えられるなら、それは尊敬に値する。なぜなら現代の多くのひとびとは、しあわせではないからだ。それを他者に指摘されれば反発するかもしれないが、実際のところ自分自身がいちばんよく、自分がしあわせでないことを知っているはずだ。

誰に言われるまでもなく、自分を変えるのは難しい。思考は知らず知らずのうちに「枠」を作り、新しいことをすることへの恐れからどうしても現状維持を...

こんなとき、私たちが赤ちゃん(こども)の頃ならどうしただろう?つらいとき、哀しいとき、気に食わないとき、驚いたとき、寂しいとき、痛いとき、気持ちが悪いとき、お腹が空いたときなど、自分に「不満があり、しあわせでないとき」には、声を上げて泣いた。先日もそんな赤ちゃんの泣き声を聴いて、

見事なものだ

と思った。あれだけ張り裂けんばかりに泣いていれば、周りも自分の苦しみに気付いてくれる。そして、助けてくれる。それに、「泣くこと」そのものがストレス(苦痛)を和らげてくれる。これはすべてにおいてほぼ理想的な結果だと言っていいだろう。

もちろん、自分の苦しみが無くなったとき、その子はちゃんと泣き止み、また笑顔になるだろう。あるいは疲れてぐっすりと眠ってしまうかもしれない。どちらにしても、その子は決して「意味もなく泣いた」わけではないし、「ただ注目を集めたいから泣いた」わけでもない。

「苦しみを解決し、またしあわせな状態に戻り、日々を生き抜くため」

に、全力で泣いたのだ。それはまさしく、見事な選択である。

しかしある時期を過ぎると、私たちは、

泣くんじゃない!

我慢しなさい!

泣いている暇があったらなにか対策を考えなさい!

などと言われるようになる。それでも「正当な理由」があれば私たちは泣くことが許される。だが、それが「正当な理由」になるかどうかを決める権利はあなたではなく、「社会」(世間・周囲の眼)に委ねられてしまい、「泣くためのハードル」は年を重ねるごとにますます上がっていく。そして、周囲に「大人」と見なされるためには、私たちは「どんなときにも泣いてはいけない」という原則を遵守することを求められる。さらに言うと、「哀しみ」だけでなく「怒り」や「嘆き」(愚痴)「喜び」(笑顔)といった「すべての感情」を抑えこむことが必要だ。それを破ると、

なにを笑ってるんだ!

そんなことで泣くんじゃない!

こどもじゃないんだぞ!

などと言われるか、あるいはもっと単純に「呆れ返られる」かもしれない。いずれにしても、そんなひとはこの激烈な競争社会のなかでは「戦力外」の烙印を押されてしまうことになる。

だから、私たちは生まれてからほんの十数年ほどの間に、泣くことができなくなり、笑うこともできなくなり、感情を表に出すことも、ほとんどできなくなる。そんてみんなしかめっつらでこの世の終わりのような顔をしながら、病みを抱えて生きるようになる。

そう、言い忘れるところだったが、この

「しかめっつらでこの世の終わりのような顔」

だけは、多くの場所で例外的に許される「大人の顔」である。それはこの表情が、

私はこんなにも苦しいんだけれど、それでも組織(あなた)のために奮闘しています

という「社会への従順さ」と「反抗心のなさ」、そして

私も「あなたと同じように」苦しんでいますよ

という「同調」を示すのに、最も効果的な方法だからである。

では、私たちはそういった「処世術」を身に付ける過程で、哀しみや苦しみを感じなくなったのだろうか?私たちは本当に、この世界に「適応」したのだろうか?

いや、そんなはずはない。私たちは哀しんでいる。苦しんでいる。そして、疑問を感じてもいる。けれど、「大人の作法」として、それを抑えこんでいるだけだ。ただそれがあまりにも長く続き、ある段階を超えると、今度は自分自身すら、自分が抱える苦しみや悲しみに気付かなくなる。厳重に蓋をして、心の奥底に封印してしまう。そして、その「吐き出しかた」そのものを、忘れ去ってしまうのである。

だが、そうやって積もり積もった病みがいずれ「爆発」したときにはどうなるだろう? 「ゆとり」と「柔らかさ」を失い、ガチガチに凝り固まった鎧のなかに、その圧力を分散させる方法は残されていない。そして私たちの心は、文字通り「根本からボキリと折れて」しまう。

本当はそのときこそ、私たちは泣かなければいけない。生まれたての赤ちゃんのように、全力を挙げて自らの苦境を訴え、助けを求め、自分を開放して、泣かなければいけないのだ。だが、私たちはそれができない。もう「大人」になってしまったからだ。自分だけが助けを求めようだなんて、そんな甘えは許されないからだ。そしてあらゆる選択肢を塞がれ、自信を追い詰め、最後に行き着くところはどこか?それが自殺である。

しかし、自殺によって得られるのは、ただ単に「肉体の喪失」だけだ。

死んだら無になる

というのは誤りだ。

生前の記憶は無くなる

というのも誤りだ。ただ、

「からだが失われ、2度と同じ人生に復帰することができなくなる」

というだけなのだ。もちろん、苦しみは消えない。哀しみも消えない。そして、想像していたよりもはるかに多くのひとびとが、あなたがいないことを嘆くのがまざまざと見える。それでいったい、なにが解決したというのだろう?なにから逃げおおせたというのだろう?だから、自殺者は遅かれ早かれ確実に、後悔することになるのである。

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

だから、「自殺」という選択は、現状を変える方法としても、現状から逃げる方法としても、「最悪の選択」だと言える。だが、本当につらいときには、私たちは逃げなければいけないのだ。しかも、「正しい方向」に向かって。

赤ちゃんが泣くのは、ある意味「現実からの逃避」である。自分自身で問題を解決しようとしているわけではない。現実に真正面から立ち向かい、闘いを挑んでいるわけでもない。あくまでも具体的な解決は、周囲の手に委ねているのだ。

しかし、赤ちゃんやこどものすごいところは、そこに無用な「躊躇」や「プライド」がないところだ。全力で不満や苦しみを表現し、嫌な「現実」から逃げ、それを変化させてしまう。もちろんそれは、「生きるため」である。赤ちゃんは「逃げの達人」なのである。

だから、私たち大人はもういちどその「技術」(知恵)を思い出すべきなのだ。本当にどうしようもなくつらいなら、

ダメだ……もう終わりだ……でももう他に手はない……死ぬしかないんだ……

などと言ってダラダラと少しずつ「最悪の選択」に誘導されるのではなく、

もう嫌だ!こんな人生はまっぴらだ!自分はこんなことのために、生きているわけじゃない!

と言って、全力で逃げればいい。一気に「爆発」させたエネルギーを、自分を殺すためでなく、

「しがらみから逃げ切り、『古い自分』を終わらせる」

ために遣えばいい。そのときあなたは

「からだを持ったまま、一瞬で生まれ変わる」

ことができるのだ。「古い自分」は死に、「新しい自分」が、ここに生まれたのである。

こんなことを言うと、

口ではなんとでも言えるんですよ。自分でやってから言ってくれますか?

とでも言いたくなるひとがいると思う。私は実際にこう言われたこともある。だが、その反論はもはやあまり意味を為さない。なぜなら、

私は実際に、そうやって逃げたから

だ。

私は以前、心身ともにどうしようもないところにまで追い詰められたことがある。自分が霊媒師であるとか、自殺者の後悔の念を飽きるほど見せつけられてきたとか、そんなことはもう、なんの意味もないかのように思えていた。朝目が覚めたとたんに咳き込み、口をすすぐ水すら吐き出し、食事も喉を通らず、守護霊の声も聴こえず、鏡を見ると背筋が凍った。死人の顔がそこにあったからである。

だがそこまでの状況にまで落ち込んだからこそ、土壇場にまで追い詰められ、このままでは自分は死ぬことになることを確信したからこそ、私はついに逃げることができた。もういちど生まれ変わるために、そして自分の人生を最期まで生き抜くために、全力で逃げることを、やっと決意できたのである。

一応断っておくと、私はなんの前触れもなく「蒸発した」わけではない。ちゃんと逃げるにあたっての引き継ぎや、手続きはした。正直に言えばそれは完璧ではなかったかもしれないし、迷惑だって少なからずかけたと思う。だが、私はそのときの自分に残された力の限り、できることをしたとは自負している。

そして、私は逃げた。それは確かに葛藤も生んだ。100%喜びだけを持って、

やってやった!せいせいした!

と心から笑えるわけでもなかった。だが、ひとつだけ確かなことは、私はあのままあの環境にいたら、もう死んでいただろうということだ。たとえ「生存」はしていたとしても、「死んだように生きている」だけなら、それはもはや死者と変わりがないのだから。

私は逃げたから、今ここにこうして生きている。そして、あのとき自分を護ったから、今誰かを助ける気力だってあるのだ。それが「最善の選択」だったのかはわからない。だが、私は確かに「最悪の選択」を回避した。「社会人」としては褒められないことかもしれないが、「いのち」としての最大の責任を果たすことはできたと思う。そしてそれは、赤ちゃんやこどもにとっては、きっと「当たり前のこと」なのだ。

もしあなたがつらいなら、まずは自分を護ってほしい。繰り返すが自殺はなんの解決にもならない。そもそも「逃げ」ですらない。だが「生き抜くための逃げ」ならば、それは立派な選択である。自殺することを考えるくらい追い込まれたあなたが、単なる「甘え」で逃げを選択しようとしていることでないことくらい、私にもわかる。それに、「逃げる」というのは決して簡単なことではない。エネルギーも必要だし、覚悟も要る。だが、悪いことではない。なぜなら、

「『苦しみから逃げる』(マイナスを減らす)ということは『喜びに近づく』(プラスを増やす)ということと同じ」

だからだ。このことを決して、忘れないでほしい。

陸に上げられた魚は海を目指し、海に落とされた虎は陸を目指す。鳥は空で生きようとし、モグラは土と生きる。それがそれぞれの「居場所」(喜びの場)だからだ。ならば、あなたも自分の居場所を見つけてほしい。「自分が生きられる場所」だ。それがたとえどこであれ、あなたが笑って生きられるなら、私もとても嬉しい。そしてそれぞれの場所で、これからも最期まで、生き抜いていきたいと思う。

コメント

  1. 江藤敬介 より:

    同感です逃げることは最終的に正解です。

    私も逃げた。モノも社会的なシステムもそのまま置いて逃げた。

    それは良い結果を産んで今がある。

    迷惑を掛けた人もいるけど誰も文句を言わない。知っているからだろう。

    数キロの位置にいるけど私をそっとしている。

    死ねば志し半ばで役目を引退しなければいけない。

    その先の大事な仕事が出来なくなる。

    生きて生き抜くことこそ大事な仕事(役目)なのだろう。

    あなたのネットで発言する勇気に感謝します。

    今を生きている者より

    • Dilettante より:

      江藤さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ここ最近特に、いろいろな読者の方々からのメールが一気に寄せられてきていたのですが、そのなかには、

      もう毎日自殺を考えています

      というような切実なものもいくつもあり、

      そのひとたちに対して改めてなにが言えるだろう?

      と自問してまとめたのがこの文章です。

      というよりも、私がここで書いているものというのは、そのほぼすべてが

      「苦しみのなかでもがき続けているひとたち」

      に向けて書かれていると言ってもいいでしょう。人生がうまく行っているときには、「霊」や「死」の話など興味も湧かないでしょうから。

      ですが私ひとりの力には限界があります。今回こうして江藤さんがご自身の体験を記してくださったことは、多くのひとにさらなる力ときっかけを与えるものになると思います。

      ありがとうございます。

      そしてみんなで一緒に、これからを生き抜いていければと思います。

  2. enokawa より:

    Dilettanteさん、お久しぶりです。

    元旦の記事にもコメントした者です。

    相変わらず素晴らしい文章を書かれていて、胸を打たれました。

    私は以前、心身ともにどうしようもないところにまで追い詰められたことがある。…ついに逃げることができた。

    私もまったく同じでした。

    長年の不可解な心身の不調により身動きのとれない状態に追いつめられ、毎日が不安で生きていく自信もなく、すべてを諦める気持ちで(半ば健康状態に強制される形で)“逃げる”ことを決めました。

    可能な限り、自分の喜びだけを選ぼうと。

    実際にはまだ駆け出したばかりのような状況で、今後の生活が成り立っていくのかも不透明ですが、以前より随分生きることが楽に、そして以前よりも強く幸せを感じていて、不思議と不安もなく、逃げが「正しい選択」だったことを実感しています。

    現代に生きる人々に幸せが増えることを、私も心から祈っています。

    いつもDilettanteさんの美しい心に寄り添い、応援している気持ちでいます。

    • Dilettante より:

      enokawaさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      元旦の文章へのコメントも憶えていますよ。
      こちらこそ相変わらず読んでくださってありがとうございます。

      結局のところ、逃げた先でもいろいろなことはあるでしょう。
      私もそうです。
      けれども、少しでも苦しみを減らし、喜びを増やすためなら、そのような自分へ「変わる」ためなら、それはやはり「正しい選択」なのだと思います。

      私も日々悪戦苦闘している最中ではありますが、enokawaさんが応援してくださっていることは、いつも心に留めていたいと思います。
      そして、私もenokawaさんを心から応援しています。
      これからも一緒に、生き抜きましょうね。

  3. れっ より:

    苦しみから逃れる為に、たくさんのことを諦めて後悔し続ける生は意味がありますか?

    どんな人生でも生きてさえいれば死んでから、よく頑張ったと思えるでしょうか?

    • Dilettante より:

      れっさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      まず最低限

      「自殺せずに生き抜く」

      ことができれば、それだけでも素晴らしいことです。生きているときも死んでからでも、自分を褒めてあげていいことです。

      ただそのうえで、できれば後悔は少ないほうがいいですよね。

      「後悔し続けること」そのものが、ひとつの「苦しみ」なのですから。