「ほとんど奪い尽くされ、さらに搾り取られようとしているもの」を、意識的に取り戻してほしい

西洋哲学を考えるうえで、「古代ギリシア哲学」を避けて通ることはできないだろう。そのなかでも特に有名な哲学者のひとりアリストテレスは、『政治論』における

完全な家は奴隷と自由人から出来ている。

という言葉にも表れているように、「奴隷制度」に対して肯定的な態度を示していたと考えられている。

ただ、近年の研究で、たとえば古代エジプトのピラミッドの建設に関わった「奴隷」には、ある程度の「報酬」と「福利厚生」が与えられていたとする説が唱えられているように、古代における「奴隷」が今の私たちが思い描いているものとは異なる性質のものであった可能性はあるとも思う。

とはいえ、こうした点を差し引いても、現代にも多くの影響を及ぼしている「偉大な哲学者」の存在の背景には、それを支える多くの「奴隷」たちの存在があったことは言えると思う。逆に言えば、もし全員が「奴隷的労働」にほぼすべての時間を割かなければいけないとしたら、そこに「哲学」が生まれ、熟成され、後世に残されるような素地は、ほとんどないだろうということだ。これは、現代英語の”school”(学校)の語源がギリシア語の”schole”(余暇)にあることにも表れていると思う。

暇がなければ、学問はできない

というわけだ。

しかしもちろん、私は古代の歴史の専門家ではないし、ここで思想史を語りたいわけでもない。私がここで考えてみたいのは、こうしたことが提起している問題が、今の私たちにとって、他人事と言えるようなものなのか? ということなのである。

いくらアメリカの「奴隷解放宣言」を学んだところで、いくら世界における「人身売買」や「奴隷的労働」の実情を知ったところで、「現代の日本」に生きる私たちにとって、「奴隷」などというのはほとんど縁のないものだし、そんなものが復活するようになるなどとは考えてもいないかもしれない。少なくとも、「考えていなかった」とは言えるかもしれない。

だが、いつの頃からか私たちは、

今日も会社と家の往復だけで終わった……

私は社畜ですよ。まぁ、自分をそう思っているうちは、真の「社畜」ではないんですけどね

うちのバイトもブラックなんだよ。普通にワンオペだし

などといった発言を耳にしたり、自分でも口にしたりするようになっている。そして、日本語の「過労死」という言葉は、そのまま”karoushi”(karoshi)として、海外に「輸出」されつつある。

これは、いったいどういうことなのだろうか?私たちは、知らず知らずのうちに自らを「奴隷」にさせられてしまっているのだろうか?

ただ、この問いはまだ不完全である。なぜなら、この「奴隷」という言葉が持つ意味が広すぎて曖昧だからだ。だから、ともかくここではこう言い換えてみよう。

私たちは、自分の行動を、自分で決められているだろうか?

私たちは「自分で考える時間」を、持つことができているだろうか?

ここでいったん立場を替えて考えてみるのもいい。もしあなたが「支配者」だったら、そして自分が支配する相手に、現状に疑問を抱かず、自分に従い続け、万が一にもその支配体制を転覆(変革)させられないようにするにはどうしたらいいだろう?

答えはそう難しくない。

なにも考えさせないようにすればいい

のである。そのためにはまず、相手を「とことん忙しく」してやればいい。忙しくしてやれば、相手は文字通り「心を亡くす」のだから。

それでも人間は、「考える葦」とまで自らを称する存在である。どんな状態に置かれても、少しはものを考える。それならば今度は「考える方向を誘導」すればいい。

問題を複雑化して見せればいい。そして、ささいな違いを煽り立てればいい。ときには、問題を「二極化」して、

賛成か反対か?

A案かB案か?

と迫ってみてもいい。あるいは逆に、途方もない数の「選択肢」を提示して、さんざん迷わせるのもいい。そのうえで最後に、

私のおすすめはこれかこれですね

などと言ってみるのもいいだろう。

まだまだ方法はいくらでもある。「流行」を使えばいい。「広告」を使えばいい。「音楽」を使い、「映像」を使えばいい。「権威」で飾り、「射幸心」と「劣等感」を煽り立てればいいのだ。そして最後に、少しは「報酬」と「福利厚生」を与えればいいのである。まさに、

百姓は財の余らぬように不足になきように治むる事、道なり。

というわけだ。これで、その社会は「安定」する。たとえそれが「現状(支配体制)の維持」にほかならないのだとしても。

さて、こうしたことは、私たちにとって他人事なのだろうか?私にはそう思えない。私たちは、「考える時間」をほとんど奪い尽くされている。そしてそのわずかな残りすら、「考える方向を誘導」されることで搾り取られようとしている。こんな私たちのどこに、現状を変革する力があるというのだろう?そして、私たちは知らず知らずのうちに、自らを「奴隷」にしてしまっているのである。

だから、もしあなたがこんな状況を変えたいなら、とことん「考えて」みてほしい。それは「自分と向き合う」ということでもある。「自問自答する」ということでもある。

自分は、なにがしたいのか?

なにが自分にとっての喜びなのか?

このまま死んでしまうとしても、後悔はないのか?

日々、問いかけてみてほしい。

考えるな、感じろ!

(Don’t think. Feel!)

というのは確かに「場合によっては」至言だが、今の私たちにとってはあまり意義のない態度かもしれない。なぜなら、今の世のなかでは、「なにを感じるか」さえ、巧妙に誘導されているからだ。99%のひとが病んでいるとさえ言える「雰囲気」のなかで「感じたままに流され」て、その結果が上手くいくと思えるほど、私は楽観的にはなれない。

だから私自身は、むしろ

「考えて、考えて、考える」ほうがいい

と思っている。こんなことを言うと、

考えてわかるんなら、ずっと考えてなさい!

などと言われることもあるが、私たちは古来から

守・破・離

の力を伝えられてきたではないか?私からすれば、これもその応用なのである。

「考えて、考えて、考える」

というのは、ひたすら反復する「守」の段階である。それはとてつもなく長いように思えるかもしれないが、それはやがて「破れる」ときが来る。そして、ついにそれが「思考を離れた」とき、私たちはそれを「身に付ける」。ここまで来れば、もう「考える」必要はない。むしろそれは不要な「澱み」を生み出してしまうかもしれない。だからそのときこそ、

考えるな、感じろ!

という言葉が、意味を持ってくる。これが、私の認識である。

私自身、そうやってずっと考えてきたのだ。考えて、考えて、考え抜いても、私にすべての「答え」がわかるわけではない。だが少なくとも

今の社会は、仕組みは、自分は、どこかがおかしい

ということには、気付くことができた。そして、それは自分だけで解決できるようなものではないとしても、

自分にも、「なにか」はできるはずだ

と思った。だからこそ、今ここにこうして『闇の向こう側』があり、私はこの文章を、書くことができているのである。

だから私はあなたにも、考えてみてほしいのである。自分と向き合ってほしいのだ。考えてもわからないことはたくさんある。だが考えればわかることもたくさんあるのだ。そして、ひとりで考えてもわからないことが、みんなで考えればわかることだって、数多くあるはずなのである。

だから、世界を変えたいなら、現状を打ち破りたいなら、とことん考えてみてほしい。そのときあなたは、「主体者」としての自分を見つけることになるだろう。あなたは今まで、「奴隷」だったことにすら、気付かないようにさせられていたのだ。だがそれは、あなただけではなかった。だがそれならばなおさら、その「奴隷」がすべて「解放」されたとき、世界が変わらないはずはない。これは夢物語だろうか?もしかしたらまだ多くのひとはそう「感じる」のかもしれないが、もし真剣に「考えて」さえもらえれば、あなたにもきっとわかってもらえると、私は確信しているのである。