リンダ・クリアット・ウェイマン。彼女は、そしてあなたは、次世代にどんな「思想」を遺すだろうか?

あなたは、「学校」が好きだろうか?あるいは、好きだっただろうか?私は、あまり好きではなかった。しかし、

「一定期間教育を受けられることが保証されている」

というのはとても恵まれたことでもある。そして、それが困難なことであればあるほど、こどもたちは学校に行くことを楽しみにし、全身で情報を吸収し、それが夢の実現につながることを信じて邁進しているようにも思える。

もし私なりに「教育」を受けることを前向きに捉えられるかどうかの要因をひとつ挙げるとしたら、

それが自分の望む未来につながっていると思えるか?

がカギだと言いたい。もし、そのこどもが、今学校に通い、教育を受けることが、自分の未来をより好くし、家族の安らぎや喜びにつながり、他者や世界のためにもなると確信しているのなら、その子はきっと毎日喜んで学校に行くだろう。だが、自分が今学校に通い、教育を受けたとしても、自分の喜びある未来につながっていると思えず、家族を経済的に追い詰め、他者と競い、結局は自然環境を破壊することになるだけだと思っているのなら、そのこどもがそんな学校にいることに喜びを感じることは決してないだろう。

本来、「教育」というものは

「落ち着いた環境のなかで、こどもに『考える力』をつけさせ、より素晴らしい未来を創るようにするため」

のものである。そのためにはまず、世界の情報を処理し、

自分は今どこでなにをしているのか?

をきちんと把握しなければいけない。だから、「読み書き計算」を身に付けて、「社会」の仕組みも知り、「科学」によって身の回りの世界を探求する手がかりを手にしてもらう。そして、「今までの歴史」と「その結果としての現状」を把握し、自分なりに「考え」を巡らせたうえで、「未来」を構想し、実現していく。これは、「現状」や「勢い」に流されない、「主体を持った自分」を確立していうえで、最も重要な過程だと言ってもいいだろう。これなしでは、現状を変えられない。逆にこれがあれば、現状を打破し、未来をより好いものにすることができる。だから、それが為されていないのなら、まずなにをおいてもその「教育の権利」を、獲得しようとする。それは決して私たちが最初から持っていたものではなく、「長い道のりを経て獲得したもの」なのである。

それは、まだ全世界にあるものではない。だが少なくとも現代の日本人なら、人生におけるある程度の期間「教育を受ける権利」が保証されている。それを「こどもに受けさせる」のは、保護者の、そして社会の「義務」である。

そして、教育を受けている間のこどもは、それに気兼ねなく集中できなければいけない。だから、家庭や保護者の経済力に左右されないよう、義務教育は「無償」で行われることになっているし、家柄やその他の事情によって「差別」されることなく、どんなこどもも同じように教育を受けられるということになっている。もちろん、「食事」だって満足にできるようになっている。そう、「教育の機会」というものはどんなこどもにも与えられなければいけないのだ。そしてこどもたちは、そこでお互いを支え合いながら、とことん考える時間を持ち、未来を変えていける力を、育んでいくのである。

これは教育のひとつの「理想」である。そしてこの「理想」が本当に実現しているのなら、こどもたちはみんな楽しく、希望を持って学校に行き、学ぶだろう。だが、今のこどもたちの実情を見ると、実際にそうなっているようには見えない。そして私も、学校が好きではなかった。それはなぜだろう?こどもたちも、そして私も、そんな「理想」はどこにもなく、それを実現する意志があるのかどうかさえ疑わしい、ただの「建前」に過ぎないことに、否応なしに気付かされるからである。

本来の「学校」の主眼が、「考えさせる力を付けさせること」なのだとしても、多くの<学校>は今や、「考えを誘導する場」になってしまっている。そこではただ、「正しいとされる答え」(知識)が与えられ、こどもに蓄積されるだけだ。「いつ、誰に、なにを教えるか」というのは「学習指導要領」によって定められ、その意味における「教員の資質」というのは

「いかに早く、正しいとされる答えにたどり着けるか、そのためのテクニックを教える」

ことに他ならなくなってしまう。さらに言えば、「独創性」などというものは「数値化」できないのだから、「比較」するのに都合が悪い。ならば、

「『正しいとされる答え』にたどり着けるかどうか」

という「到達度」を測定したほうがいい。こうして、

「『独創性を奪われた教員』から、『独創性を奪われたこども』が生まれる」

という、本来の「学校」とはかけ離れた結果が生み出されるのだ。

しかし、これはある種の「意図」を持つ存在にとってはむしろ喜ぶべき結果である。それは「考えないでほしい」という意図を持った存在である。それは「国家」かもしれない。「企業」かもしれない。あるいは「資本主義」という仕組みそのものかもしれない。よく、

学校に行くのは「1人前の社会人」になるためだ

というひとがいるが、この「社会人」というのは、「産業社会人」であり、「資本主義社会人」であり、「消費社会人」なのである。だからなんのことはない、「学校」がその理想から離れて<学校>になってしまった理由は、

「学校も資本主義社会(競争社会)に呑み込まれた一機関になってしまったから」

なのである。言い換えれば、<学校>は「資本主義社会(競争社会)の縮図」なのである。ならば、こどもたちにとっての「師」とは、「教員」でないことは明らかだ。それは「企業」であり、「資本主義社会」であり、「グローバリズム」なのである。そしてそこでは、大人が体験するものすべてがあり得るのだから、大人がそうであるのと同じように、こどもたちの多くが病んでしまうのも自然の帰結である。むしろ、こどもたちはより幼いぶん、その影響が大人以上に強く反映されても不思議ではない。だから、今「学校」が危機に瀕しているとしてもそれは驚くことではない。言ってしまえば、もうずっと前から、そこに「学校」などなかったのである。

だが、これはあくまでも「現状」を私なりに見たうえでの答えであって、「未来」についてはまたまったく別の話である。そして、もし私たちが現状を打破し、未来をより好いものにしたいと思うのなら、私たちはまず、「教育」を、本来の「学校」を、作らなければいけないのだろう。これは、「思想」の問題でもある。なぜなら、私たちが次世代のこどもたちに向けて遺すことができ、実際に多大な影響を与える最も強力なものは、「カネ」でも「権力」でもなく、「思想」だからである。

ときどき、読者のかたに、

あなたは、よく”TED”のプレゼンテーション動画を載せていますね

と言われることがあるのだが、”TED”には

Ideas worth spreading

(広める価値のある思想)

という副題が付いている。すべては、「思想」から始まるのだ。そしてその「思想」は、いずれかたちを持った「実践」となり、それが「未来」を変えていく。

最後にまたひとつのプレゼンテーションを紹介してみたい。話者は、リンダ・クリアット・ウェイマンという女性だ。彼女は「教育者」として、次世代にどんな「思想」を遺そうとしているのだろうか?そしてあなたは、私は、どんな「思想」を遺したいだろう? じっくりと考えてもらえたら嬉しく思うし、私もこれからもここで、考え続けていきたいと思う。なぜなら言うまでもなくここで書いているものこそ、私の「思想」そのものであるからだ。私はそれが多くのひとに「共有」され、「検証」され、ときには適宜「修正」されながら、素晴らしい未来を創るのにわずかでも役立つことを、そして未来を生きるあなたを少しでも元気づけるものになることを、心から願っているのである。