詩と文章。受け止めて、察して、読み込んで、あなた自身の心とも向き合ってみてほしい

先日あるひとと話していたとき、そのひとは私にこんなことを言った。

私の書いていることや、話していること、伝えようとしていることは、相手から「あなたは、なにを言いたいんだかよくわからない。話のつながりもよくわからないし、なんとも言いようがない」なんて言われてしまうんですよ。どうしたらいいのか、伝わらないものはしかたがないと割り切ればいいのか、それとも自分のなかだけでしまいこんでおけばいいのかなどと考えているんですけど、いまひとつピンとこない。あなたは、どう思いますか?

私たちはみんな、あるときは情報の「受信者」であると同時に、またあるときは情報の「発信者」でもある。つまりこれは私達ひとりひとりが「表現者」だということである。たとえ本人が自覚していなくても、どこかに発表しているつもりがなくても、私たちの言動や行動、生き様や選択、そしてその結果かたち作られていく「人生」は、まぎれもなく私たちの「作品」である。

だから、私たちは誰もが表現とは無縁ではないのだが、そのときにはこのような想いというのは、多かれ少なかれいちどは感じるものだし、私もここで文章を書き綴っている存在として、日々考え続けていることでもある。だから私は、この問いかけに対して、私なりに考えて、このように返した。

「そうですね、あなたは自分が表現しているものを「詩」だと思っていますか、それとも「文章」だと思っているのですか?」。

そして、私はもう少し続けた。

今の時代、特に日本のような社会で生きている大多数のひとびとは「説明されること」に慣れすぎているし、「誰にでもわかるように説明されること」が当然だと思っているので、「詩」を読むことに慣れていません。でももし、あなたが書いているもの、表現のしかたが詩に近いというなら、それは「説明される」ものではありません。だから、自分が書いているもの、自然に表現できているものが詩なのに、それを「文章」に近づけようとしたら、却ってご自分の想いから外れるものになりかねません。だからあなたは今後、「私は、詩人なんですよ」と言えばいいんじゃないですか?

するとそのひとも、

そうか、詩人かぁ。私は詩人だったんですね。なんだか自分でも、すっきりしました。これでまた、表現を続けられる気がします

と納得してくれた。

詩というものは、「文章」に比べて短い。そして、言葉と言葉の「間」も大きい。それを埋めるのは、相手の「想像力」であり、書き手と読み手の間にある「共通理解」あるいは「土壌」である。だから、それがなければ詩というのはまったく相手に伝わらない。逆に、

古池や 蛙飛こむ 水のおと

というたった「17音(字)」で多くの受け手がほぼ同じ情景を思い描けるとしたら、それは少なくともその受け手の間に「共通の土壌」(共通理解)があるということを示している。だが、もしかしたらその受け手が思い描いた情景は、最初に詠み手(表現者)が意図したものとは異なっている可能性もある。

その可能性は、たとえば以下のような研究でも示唆されているので、孫引きになるが引用する。

古池の句の誕生のいきさつを門弟の支考(しこう)が書き残しています(『葛(くず)の松原』)。それによると、ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいました。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考えていましたが、やがて「古池や」と決めました。

つまりこの句は、何となく思われているように「古池や」「蛙飛こむ水のおと」の順番にできたのではありません。最初に「蛙飛こむ水のおと」ができて、あとから「古池や」をかぶせた。このうち最初にできた「蛙飛こむ水のおと」は、じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったものです。

(中略)

では「古池」はどこから来たのか。そこでもう一度、言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いて古池を思い浮べたということになります。「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。

つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水のおと)をきっかけにして心の世界(古池)が開けたという句なのです。つまり現実と心の世界という次元の異なるものの合わさった<現実+心>の句であるということになります。この異次元のものが一句に同居していることが、芭蕉の句に躍動感をもたらすことになります。

100分de名著 松尾芭蕉『おくのほそ道』2013年10月号より孫引き。直接の出典は

古池や蛙飛(かわずとび)こむ水のおと

これを端的に言い換えている表現者のひとりに、ミヒャエル・エンデがいるが、彼は関係書籍、『闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る』のなかで次のように語っている。今私の手元に原典がないのでまた孫引きになるが、以下に引用する。

===============================
絵は見る人の中で、物語は読む人の中ではじめて完成する。
===============================
読者は、その本を通って自分の一部を運んでくることができるはずです。
===============================
父の絵を見る人が絵の中に入り込むには、父が準備した小さな障害物を克服しなくてはなりません。
ところが、障害を克服すると、絵の中に本当に入り込んで体験する力が生まれてくるのです。
===============================

メールヘンをほんとうに追体験するなら、そのとき自分の中でなにかが動きだすのに気がつくでしょう。
ある特定のプロセスが動き始めたのです。イメージのプロセス。個人的なものをすべて遥かに超えたプロセスなのです。

そこでは語り手と読み手の経験が、個人の経験よりはずっと本質的で重要な「共同」によって、いわば追い越されるわけです。

「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」岩波書店 (1988/9/14) を読みました。 「モモ」を読んで大感動した勢いで(エンデ「モモ」(2012-11-18))、この本も続けて読了。 この本は、「モモ」を描いたミヒャエル・エンデが、父親である画家エドガー・エンデの神話...

(文中の区切りスタイルも引用元のまま)

つまり、詩や物語、あるいは文章というものも含めて、あらゆる「表現」というのは「発信者」と「受信者」の「共同作業」(相互作用)の結果完成するということだ。ただし、その表現が「素朴」であり、「行間」が大きければ大きいほど、「それがどう受け取られるか」には、変化の余地が大きくなるとは言える。だから、特に現代の日本人のように、

わかりやすく、要点を言ってくれ!

とか、

時間がないんだ!結論から言ってくれ!

それで結局、どういう意味なんだ!

という思考に馴染みすぎたひとびとには、だんだん「詩を味わう」といったことが難しくなっていく。それに、お互いに「共通理解」がない状態でなにかを伝えようとしても、そこには誤解が生まれてしまい、極端な場合には表現者の意図とは真逆の受け取られかたをすることすらあり得る。

だから、私はここで「文章」を書いているのだ。それは、私とあなたとの間に共通理解がないということを前提に、それをなんとか伝えようとしているということである。たとえば私が、

私たちは望んで生まれてきたのだから、自殺なんてしたら後悔しますよね?

などと一行だけ書いて、それでみんなが納得し、自殺者がゼロになるなら、そんな簡単な話はない。だがそんなことをしても、

望んで生まれてきてなんかない!

なにを根拠に言ってるんだ?

適当なことを言うな!

などと言われるだけだから、実際にそう言われてきたから、私はできる限り、それを文章で「説明」しようと試みているのだ。それでも、

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

と、これ以上なく「わかりやすく」説明しても、そしてそれをどんなに補足したつもりでも、それでもまだ全員には伝わらないのだ。そして現代のほとんどのひとは、

短い詩からはなにも察せないし、長い文章は最後まで読み込めない

という2重の迷宮に嵌ってしまい、結局は、

「声の大きいほうを信じる」

という選択をしてしまっている。だから、詩人も、文筆家も、画家も、陶芸家も、あらゆる「表現者」を巡る状況は、あまりにも深刻で、どうしようもないようにすら思える。

その想いは私自身も感じているものだし、冒頭の発言者のひともそうだと思う。だが、それでも諦めたくないのなら、「自分にできること」をやってみるしかない。だから私もまだ、これを書き続けている。

そしてそれがなんであれ、それを受け止め、たとえば詩から想いを察し、文章を読み込んで想いを汲み取ることは、最終的には受け手である「あなた自身の心」と向き合うことを意味する。それなしでは、あらゆる表現はあなたにとって空虚なままである。だがその体験は、そしてそれに必要とされる力は、黙っていれば日に日に、私たちから失われていく。

だから、私はあなたにも、「察する力」、そして「読み込む力」を取り戻してほしい。それは他者の「作品」に心を向けることでも取り戻せるだろう。あるいはあなた自身も、自分の想いを「発信」する「表現者」になってほしい。想いを伝えることを、諦めないでほしい。あなたが自分の望む世界に生きていたいなら、現状を変えたいなら、それを「表現」するしかないのだ。

だから私は、これからもここで表現し続ける。そしてそこに乗せた「想い」が、「希望」があなたにも共有されたとき、私の文章はより大きな「力」を持つようになるだろう。それは私の願いだ。私は、私だけでは完成させることができない作品を、そして実はどこまで行っても永遠に完成することがない作品を作っているとも言える。そして私は、あなたがその「共同作業」に力を貸してくれるその日をずっと、待っているのである。