「他者を助けると学びの機会を奪う」という意見に一理あるとしても、私は後悔のない道を行く

今まで読者の方々や実際の顔見知りにも、私は何度かこんなことを言われたことがある。

この世で起こることはすべて「本人の学び」として与えられているんだし、本人もある程度「なにを学ぶか」を事前に決めたうえで生まれてきているのだから、あまり他者を助けようとしないほうがいいと思います。それは相手の「学びの機会」を奪うことにもなるから。それにたとえ本人が守護霊から離れ、負の念に苛まれて苦しんでいたとしていたとしても、それだって本人の「選択の誤りによる自己責任」じゃないですか?それにあなたにはあなたの人生があるのだから、自分の喜びを最優先にすればいいんだし、他者のことにはそんなに入れ込まないで、もっとドライになったほうがラクなんじゃないですか?

このような意見を、最も単純に「自己責任論」と呼ぶことにするが、そのような意見はひとつの考えかたとしてはよく見られるものである。あるいはかつて、数少ない霊媒の友人はもっと率直に、

そんなヤツらほっとけばいいんだって!どうせなにを言われても「いい話聴いたな〜。面白かった」って思うだけで、数週間もすればもう忘れる。守護霊の話を伝えようが、ちょっと苦しくなったらすぐ悪態を吐く。テレビの情報は信じるくせに、俺たちの話はハナから警戒してかかる。対価を取れば「カネに魂を売った」って言う。こんな「救えないヤツら」に消耗して、信じて裏切られて消耗するより、ただ「自分の心を穏やかに保つこと」に専念したほうがいいよ!どっちみち俺たちはもう、自分のこと以外はどうしようもないんだからさ!

彼と私の見てきたものや、体得している「真実」は、途中まではほとんど同じである。しかし私たちの間にあるほぼ唯一にして最大の違いは、このような発言に表れていると言えるだろう。だから彼は自分の「真実」をひとに伝えようとはしないし、もし霊存在が妨害でもしようものならただ粛々と「追い払う」だけだ。もちろん、『闇の向こう側』なんてサイトを始めたりはしないし、こんな私を冷ややかに見ていたばかりか、今や私とは連絡すらほとんど取らなくなっている。

そして私も確かに、彼の意見や選択、それに冒頭のような意見に「一理あること」はわかっているのだ。だが、それでも私は、そのような意見を自分の生きかたに反映させようとは思わない。そしてその理由は、実はそれほど、複雑ではないのである。

これが「霊的なこと」だとか、自分が「霊媒師」であるとか、そんなことはいったん無視して、もっと単純な例で考えてみればいい。たとえばあなたは、道路で他のことに気を取られているうちに車に轢かれそうになっているこどもを見たとき、

あぁ、これは安全を確認しないでボールを追いかけたこの子の責任だ。生き残るか後遺症を遺すか死ぬかはわからないけど、放っておこう

などと言うだろうか?

あるいはあなたは、生まれてきたこどもに対して、

自分で望んでうちに生まれてきたんだよね?私たちの性格も、全部知ってるんだよね?じゃあお前は自分で自分の世話をして、勝手に大きくなればいい

などと言うのだろうか?

それとも、南極で衣服も持たず、「原因不明の寒さ」に震えているひとを見て、

このひとたちにも「生きる力」はあるはずだ。私たちの先人は自ら火を起こし、衣服を作り、環境に適応してきたんだ。だから、ここで助けるのはお門違いだ。放っておこう

と言って立ち去るのだろうか?少なくとも、私なら絶対にそんなことはできない。

それに私は、トイレでの排泄のしかたもスプーンの持ちかたも、パソコンの使いかたもCDの聴きかたもすべて、「自分で発見した」わけではない。それに、家にある炊飯器も冷蔵庫も携帯電話も歯ブラシも、「自分で作った」わけではない。さらには電気も水も自分で引いてきたわけではないし、食糧を自給しているわけでも、し尿処理を自ら行えるわけでもない。これらはすべて

「できるひとが教えてくれたから、できるように導いてくれたから、そしてどうしてもできないことは、代わりにやってくれたから」

私が今手にできているのだ。それに、

もしすべてを「自己責任」で放置されていたなら、私はここまで育つ前に簡単に死んでいただろうなぁ……

ということに、一片の疑いの余地もないのである。

だから私は、周りのひとびと(存在)が私にそうしてくれたように、ただ

「自分にできることをして、それを相手にも教え、自分でもそれができるようになるように導く」

ということをしているし、これからもそうしていきたいと言っているにすぎないのである。そして、

「相手が自分でできないことは、できるひとが代わりにやる」

というのも自然なことだ。なぜなら、

「できることはみんなそれぞれ違うから」

だ。ただそれが「霊媒行為」であるか「大工仕事」であるか「プログラミング」であるかというだけなのだ。

あるいは私に、

他者を助け、他者の「苦しみ」を取り除いたとしても、それはいずれ必ず別のかたちでそのひとに与えられます。それに、霊的なことは特にそうですが、誰かに関与する「悪霊」を取り除いたとしたら、それは必ず「血縁者」に取り憑くことになるでしょう。なぜなら「運命の正負の天秤」は、最終的に必ず水平になるように創られているからです

と言ってきたひともいたが、私はこのように返した。

そうですね、霊的なことは特にそうですが、確かに「取り除いた」ならそうなるかもしれないですね。でもそういった「除霊」ではなく、相手の想いを受け止め、言い分を聴いたうえで、違う見かたを提示し、反省すべき点は促したうえで、真の喜びに気付き、そこに向かう手助けをする「浄霊」(導霊)ならそうはなりません。あなたが知らないのだとしても、あるいは割に合わないからやらないのだとしても、私はそれをやりたいし、私ならそれは、できるのです

それでも、

本当に?

と迫られたので、

私は嘘をついているつもりはないです。それに、もし「運命の正負の天秤が、最終的に必ず水平になるように創られている」というなら、今の世界はどちらに、傾いていると思うのですか?

と答えた。そして彼がなにも言ってくれなかったので、そこで話は終わった。

私は、自分の力だけですべてのひとを救えるなどと思ったことはない。どんなにそれを望んでも、それはできない。だがだからと言って、

「手の届く範囲のひとを放っておく」

などということができるはずもない。たとえその結果、

「どんなに力を尽くしても助けられなかった」

という現実に直面することになったとしてもだ。

つい最近も、

もう死のうと思います

という趣旨のメールが届き、私もご本人の合意のもと守護霊さんのメッセージを伝えたり、ここには書いていない自分の個人的な体験なども話したりしながら、いかに私が自殺してほしくないと、一緒に生き抜いてほしいと思っているかを精いっぱい伝えた。そしてその結果、相手もいったんは生きる希望を持ってくれたように思えた。だが、その後何日かして、

またとてもつらいことがありました。やはりもう生きていられません。ごめんなさい

というようなメールが届き、それ以降私がメールしても、一切返信が返ってくることはなくなってしまった。今、あの読者さんがどうしているのかはわからない。「死んだように生きている」のかもしれないし、あるいはもう本当に「自殺してしまった」のかもしれない。ただどちらにしても、私がそのひとを「助けられなかった」のは事実だ。そしてそんなひとは、1人や2人ではない。

だから、私は決して万能ではない。それは当たり前だし、しかたのないことでもあるとはいえ、それがもたらす「結果」は私に哀しみももたらしてきた。だが、それでも、だからこそ私は、

たとえ結果がどうなるとしても、私は自分にできる限り力を尽くす

という道を選ぶ。

私に助けられなかったひとは大勢いる。しかしその哀しみや苦しみからなんとか私が立ち直れるのは、

それでも、やれる限りのことはした

という自負があるからだ。だが、もしそれがなかったら?もし相手のことを、

こいつはもうダメだ

と最初から諦めていたら?その「後悔」は遅かれ早かれ私の心を押し潰すだろう。だから私は、

相手のためにも、そして自分自身のためにも、悔いのない生きかたをしたい

という、ただそれだけのことなのである。

死ぬ運命を変えるなんて、そんなことをしたら大変な歪みが起きますよ!

そうではない、

相手は「私によって助けられる運命」にあった

のだ。もしそうでないなら、私には助けられなかった。

運命の正負の天秤は、最終的に必ず水平になるように創られているんですよ!

いや違う、

喜びはどこまでも深められるもの

だ。それに、仮にその説が正しいとしても、今の世界の天秤は、負に傾きすぎている。それにそれを言うなら、私がもし

「助けられたかもしれないひとを見棄てる」

という行為をしたら、その「反動」は

「どうしても助けたいひとを、どうしても助けられない」

というかたちで与えられるということではないのか?

そんなことは、私はまっぴらである。

もし私があなたと同じ「真実」を見たとしても、そこから導き出す、それぞれの「答え」は違うかもしれない。それはそれでどうしようもないことだし、これは「どちらが正しい」ということではないのだから、あなたが私に追従する必要はない。あなたはあなたの「答え」に基づいて生きればいい。逆に言えば、私は私の「答え」に従って生きることに、なんの引け目もない。だから、引き続き自分に悔いのない生きかたをする。そしてそれが、この道なのだ。

コメント

  1. kei より:

    はじめまして。
    昨日、こちらのサイトにたどり着き、なんて自分と同じ悩みの方なのだろうと驚きました。そしてこちらのエントリーには、自分が何年も答えが出せずにいたために自分の能力を他人に使うのを封印してきたことは、もう止めようと決心させる何かを感じました。
    「学び」は心身にある程度余裕が無いとできない行為であって、パニックに陥っている人に対して苦しみから学べとか自己責任だというなら、まずは危機的状況を抜けて冷静に分析などができるようになってからでも十分間に合う。学びの機会は奪われない、自分にできることをして助けてもいいのだという結論に至りました。
    これは個人的な感想に過ぎず間違っているかもしれませんが、心が決まり晴れ晴れとしています。ブログのタイトルどおり「闇の向こう側に」抜けられたように感じます。
    そしてまた闇が訪れても、闇の向こうを信じて進んでいけることと思います。
    このブログを作成していただき本当にありがとうございます。今後の更新も楽しみにしております。
    いきなりの長々としたコメントで失礼いたしました。
    季節の変わり目、ご自愛ください。

    • Dilettante より:

      keiさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      私はあくまでも私自身の体験から私が感じたことを書いているだけですが、それがあなたの気持ちを晴れ晴れとさせる手助けになれたなら、とてもありがたく、嬉しく思います。

      率直に言って、世界は未だあまりにも病んでいるので、ふとした瞬間にそれに流されれば、誰でも簡単に病んでしまうとも言えると思います。

      もちろん、私自身もそうです。

      ですがだからこそ、私たちは

      「できるときにできることで、助け合う」

      ということしか、ないのだと思っています。

      ですからどうか、あなたの力を分けてください。

      そして必要なときには、あなたを助けさせてください。

      よろしくお願いします。

      暖かい励ましを、ありがとうございます。

      あなたもどうか無理はせず、ご自身のからだと心を、いたわっていてくださいね。