どうせやるならナンバーワンになれ!
99点で満足するな、100点、120点を目指せ!
などというようなことを言われたり、耳にしたことは誰でもあると思う。そして、そのような「強烈な向上心」は、確かにひとを成長させることもある。
だが、一方でそれは明確な「目標・頂点・理想」を持っている場合には有効であるとしても、そうでない場合、つまり、
この方向性は、そもそも本当に正しいのだろうか?
という迷いを持たずには生きていられないような状況下では、ほとんど無意味であるばかりか、却って気力を失わせる「重荷」にもなりかねないようなものだ。さらに言えば、「ナンバーワン」という「ひとりの勝者」の陰には、「膨大な敗者」がいて、ほとんどのひとはその「99%の敗者」として、生きていかなければならないという事実を認識したとき、それは簡単に「絶望」につながってしまう。
そしてまさに、そういったひとつの「神話」が崩れ去り、進むべき方向性そのものが見えなくなってしまったとき、私たちは「オンリーワン」という思想に希望を見出すようになった。これは率直に、
No. 1にならなくてもいい もともと特別なOnly one
という歌詞にもなり、この曲は多くのひとに共有されるものともなった。
だが、その思想でもまだ私たちは、自分の生を肯定しきれずにいる。そのひとつの理由は、
自分が「かけがえのない存在」だとは、どうしても思えないから
だとも言える。そしてそれは、日々周囲から、
お前の代わりはいくらでもいるんだぞ!
などと言われ続けてしまう今の社会のなかに生きていれば、自然なことだとも言える。だから、いくら「自分探しの旅」などに出てみたとしても、いくら
自分と同じ人生を歩んでいるひとはいないんだよね
と言い聴かせてみたとしても、
自分はかけがえのない存在である
という確信は、私たちの掌から簡単にこぼれ落ちてしまう。そしてその「不安」は、
「周りを見渡したときに見える他者の姿が、いかに自分と変わらないか」
ということを見れば、さらに深まらずにはいられなくなる。だから、私たちはあまりにも簡単に病んでしまい、そこから容易に抜け出せずに、日々苦しんでしまっている。
だがここで、先にいったん私なりの「答え」をひとつ言ってしまうことにする。それは、
なぜ本当はかけがえのないはずの自分が、まるでかけがえのある(いくらでも代用がある)存在であるかのように見えてしまうのか?
という問いに対する、私なりの答えだ。そしてそれは、
誰も、「あなたの一部」しか、見ていないから
というものだ。
たとえばあなたが「事務職員」だとしよう。するとあなたの職場には、無数の「事務職員」がいる。そしてあなたも、「そのなかのひとり」にすぎない。だがあなたは、本当はそれ以外にも無数の「顔」を持っている。休みの日には山に登り、またあるときには海に潜り、ときには詩を書いたり、曲を作ったりもする。サラダの盛り付けは美しく、さらに自分で絵を描くこともある。合唱コンクールに出たこともあるし、書道だって華道だって楽しんでいるのだ。そしてこういった無数の「顔」をすべて持っているのが、本当の「あなた」なのだ。
だからもし、こういったことをすべてわかったうえで、あなたを
「休みの日には山に登り、またあるときには海に潜り、ときには詩を書いたり、曲を作ったりもする。サラダの盛り付けは美しく、さらに自分で絵を描くこともある。合唱コンクールに出たこともあるし、書道だって華道だって楽しんでいる事務職員」
として見たとしたら、あなたはまぎれもなく、「かけがえのないひと」なのだ。
だが、ほとんどのひとはそのなかから、ひとつの「職業」を選択する。そしてあなたがその「職業」(役割)に就いている間、周囲はあなたの「その職業に関連する部分」しか見ていない。そして、それ以外は、「関係ない」として切り棄てられる。周りが見ているのは、「それが業務の役に立つか」ということだけだ。だからうまく伝えられれば、
合唱に出られるくらいの声があるなら、それを電話応対に活かしなさい!
くらいは言ってくれるかもしれないが、それであなたの給与に「いい声手当」がつくわけではない。そしてこの社会が「資本主義社会」であるという意味において、
あなたの「価値」はすべて「あなたに支払われる対価」によって表現される
というのが、ひとつの現実である。だからこれが意味するところは、
あなたの声がいいかどうかは、「事務職員」としてのあなたには関係がないことであるから、私たちは別に「評価」しません
ということだ。こうして結局、あなたのすべての「かけがえのなさ」は切り棄てられ、
「なんの変哲もない事務職員」
としてのあなたが出来上がってしまう。そしてそれをあなた自身が受け入れてしまったら、あなたは自分が「かけがえのない存在」であるという事実を、完全に見失ってしまうだろう。
そしてそれは、実のところ私にも言えることだ。今この世界において「霊媒師」を名乗る存在など、星の数ほどいると言っていい。そして「ネット上でサイトを立ち上げて自分の意見を言っている霊媒師」として見る限り、私は決して「オンリーワン」ではない。また、私は「ナンバーワン」でもない。おそらく、私の知らないところで、私の知らない方法で、私よりもずっとうまく他者を導いているひとは、いると思う。だから仮に、「世界最高の霊媒師」というものがいるとしたら、それが私でないことは、私自身がいちばんよくわかっている。だから私は、少なくともその意味においては間違いなく、
「ナンバーワンでもオンリーワンでもない、代用の利く存在」
であるということだ。
だが私は、それでも自分の「かけがえのなさ」をよく知っている。それはあなたが本当は、「休みの日には山に登り、またあるときには海に潜り、ときには詩を書いたり、曲を作ったりもする。サラダの盛り付けは美しく、さらに自分で絵を描くこともある。合唱コンクールに出たこともあるし、書道だって華道だって楽しんでいる事務職員」であるように、私もまた、
「他者に知られていようがいまいが、もっともっと多様な側面を持つ霊媒師」
だからだ。そしてさらに言えば、「霊媒師」であることもまた、私の「顔」のひとつにすぎないということでもある。だから、そのすべてを併せ持った存在が私しかいないことは、私がいちばんよく知っている。やはり私は、間違いなく「かけがえのない存在」なのである。
しかし一方で、私たちに与えられている「体力」にも「時間」にも限りがある。そして、私たちのからだはたったひとつしかない。だから私たちは、やはりそのときそのときの自分のなかから「なにか」を選び、生きていかなければならない。そしてその選択は、自分のなかにある「顔」が多様であることを知っていればいるほど、より悩ましくも思えてくるだろう。もちろん、私自身もそうだ。
だがそれでも、このような場合に私が参考にしている要素が3つあるとは言える。それは、
- やりたいこと
- 自分なりのやりかたが見出だせること
- 他者の喜びにもなる(と思える)こと
の3つだ。もちろんいつもこの要素をすべて同時に満たす選択ができるとは限らない。だが、もしこの3つともを満たすことを見つけたなら、たとえあなたが「ナンバーワン」(最高の存在)でも「オンリーワン」(唯一の存在)でないとしても、それをやらずにおく手はない。どんどんやればいいのだ。そしてそれを私なりに考え、表現した結果が、この『闇の向こう側』なのである。それは私の「喜び」である。そしてたとえ私が「オンリーワン」でないとしても、それをやることに、私は一片の引け目もない。それがいちばん、自分にとって「悔いのない生きかた」でもあるからだ。

だから私はあなたにも、そんな生きかたをしてみてほしい。どこまで続けられるかはわからなくても、まずやってみればいい。想いが尽きたら、それはそれで終わるだけのことだ。それにそれも「体験」として生きるのだから、また違う道を探せばいい。そしていつか、
「いつまで経っても想いが尽きないもの」
を見つけたなら、それはもう
「どうしてもやめられないもの」
になるだろう。

そしてそれは、あなたが気付いていなくても、必ずあるのだ。だからそれを、諦めずに探してみてほしい。そしてそれを見つけたら、周りにどう思われようと、それを手放さないでほしい。そうすればあなたもきっと、しあわせを感じられるようになるだろう。そしてそんなあなたを想像するだけで、私はもう込み上げる喜びを、止めることができないのである。

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dilettante様
はじめまして。
今、私は、ものすごく近い将来、不名誉な理由により自分の職業を失う恐怖の中にいます。
その仕事は、私のアイデンティティの全てと言っていいくらい、私の中で重要なものですし、自分にとって天職だとずっと信じていました。だから、私は、若いころに努力を重ねてこの仕事に就き、この仕事を通じて、「人に貢献して、自分を高めていく」日々を積み重ねてきました。そして、こんな日々を積み重ねて、そのまま人生を終えることができると漫然と思っていました。
初めは1人で仕事をしていたのですが、いつからか弟子入りしたいという人が集まり、組織となり、意に反して、大好きな現場での職人仕事から少しずつ離れ、組織を維持するための資金繰りが私を苦しめるようになりました。
そんな自分に嫌気が差し、少し前から、一職人のウェイトを増やして組織のマネジメントを半ば放棄していたら、組織の存続が危ぶまれる状態になり、「誰にもわからないから」と、やってはいけないことに手をつけてまで、組織の維持にしがみつきました。
誰に言うこともできず、毎日ストレスを押しつぶして「きっと乗り越えられる」と言い聞かせ、何とか現状を打破しようともがいていたのですが、全く予想していなかったところから、急に全ての終わりを突きつけられました。
私は今の仕事を天職だと思って熱中し、その仕事でスキルを磨き、多くの人に喜ばれる実績を積み重ね、それなりの名声も得るようになっていました。
今回の不祥事のため、私はおそらくもうこの仕事を続けることはできないと思います。今は、この仕事を失った後、どうやって生きがいを得るか全く思い浮かばず、「恥をさらして、人目を忍び、隠れるようにして、ただ命を伸ばすためだけに1日を食いつなぐことだけ考えて生きていくなら、いっそ死のう」という考えが私を支配してきて、「自殺」をネット検索していて、このサイトにたどり着きました。
そして、少し前から、誰もいなくなった職場で片っ端からこのサイトの記事を読みあさっています。
この瞬間も、「死のう」「だめだ」が交互の頭の中に浮かんでいますが、死ぬ前に1人だけ会っておきたい人がいるので、今週中は生きているはずです。
ここ3日間、「悲劇の主人公」を装うつもりなどないのですが、お腹がグウグウなっているのに、固形物を目にしても、口にする気が起こりません。
多くの記事を読ませていただいたのですが、なぜか自殺ほど重くないこの記事が気になり、コメントを書き連ねました。
何を伝えたいのかよくわからないコメントで申し訳ないのですが、このサイトがあったおかげで、「死のう」から、「死ぬしかないか、いやダメだ、でも・・・」が交互に浮かぶようになり、「死ぬ前に、あの人に今までのお礼を言ってから、誰にも見つからないようにコッソリ死のう。だから、もうちょっと待とう。」まで来たような気がします。
こんな感じで少し気持ちの変化はあるのですが、ただ、「死んじゃダメだ」と思っている最中でも、先の生きがいが見つけられないことは変わらないので、希望はないです。だから、ここ数日、今までとは人が変わったように何事にも覇気がなくなっているのを感じています。
支離滅裂なコメントで申し訳ありませんが、とにかく、
このサイトを作っていただいて、ありがとうございました。
エディさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
まずなにより、あなたがそうしたつらい状況のなかでもこのサイトを見つけ、それにこうしてコメントまでくださったことを、とても嬉しく思います。
そのうえで、私なりの立場から率直な感想を申し上げますと、あなたは
ということですから、その意味であなたのアイデンティティの核心は今所属している組織や状況にあるのではなく、あなたが培った技術と感性、あるいは経験にあるのではないかと思います。
そしてもしそこに納得していただけるのであれば、今あなたがいる組織がどうなろうと、あなたの核心が奪われるわけでも壊れるわけでもないということもご理解いただけるのではないかと思います。
もちろん私は現時点で、あなたが
たというそのものの内容も程度もわかりませんので、あなたはもしかしたらそれによって、なんらかの法的あるいは金銭的処罰などを受けることになるのかもしれません。
だとしたらそれはつらいことですし、もしそれが私欲のためではなく自分のなかで精いっぱいもがいたにもかかわらずそうなってしまったというなら、それはとても哀しいことでもあると思います。
ですがそうであるならなおさら、そこから得た体験を糧に反省してこれからに活かすことは必要だとしても、あなたが死ぬに値するようなことではまったくないというか、むしろ生きてこそその体験が活かされるのではないかと、私は思います。
とはいえ、いちど得たものを失うというのは、単に得る前に戻るよりもはるかに苦しいことなのも、私なりにではありますが理解できます。
それにたとえば、今の私で言えば
「ある日突然この『闇の向こう側』が(サイバー攻撃などで)強制閉鎖された」
などということが起きたら、あなたと同じようにひどく落ち込むだろうとも思います。
ただそれでも、私が今までの積んできた体験や想い出がすべて消えるわけではありませんので、私はまたなんらかのかたちで、それを表現することを画策すると思います。
また、あなたとどっちが多くそんな目に遭っているかを比べることはできませんし、そもそもそんなことをしてもしかたがないのですが、ともかく私も今まで
「不名誉な評価」
だったり
「思いもよらない哀しい結末」
だったりを体験したことはたくさんあります。
ですがだからこそ、
という気持ちで、なんとか今日まで生きてきました。
この先私がどうなってどのように死ぬのかはわかりませんが、少なくとも私自身は、今まで生きることを選んできたこと自体には、後悔していません。
ですから私としては、ともかくそんな私のようなひとも生きているんだということをお伝えしたうえで、あなたにもなんとか生きていていただけたらと、心から願っています。
そして今のあなたがなにも食べる気になれないとしても、野菜などでできたスープの、具を食べられなくてもいいですから、ともかくそういったもので、少しからだをあたためてみてください。
どうぞよろしくお願いします。