あなたが「喜びへの道」を歩んでいるときに「苦しみ」が現れたなら、むしろそれはいい兆候かもしれない

楽しいかい?

私の師はいつも私にそう笑いかけ、

楽しくないのなら、なにかが間違っているんだよ

と言って、飄々と自分の道を歩んでいた。

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

私はそんな師を敬愛しているし、今でもその言葉と姿は、私の指針として自分のなかに、いつも息づかせようと思っている。

だが、たとえ自分が自分の心に正直に、楽しく生きているつもりでも、それでもなおときとして、私たちに「苦しみ」が訪れるときがある。そしてその「苦しみ」をどう捉えればいいのかで、私たちはまた思い悩まずにはいられなくもなる。

これは、自分がどこか間違っているという徴なのだろうか?

なにか、思い込みや思い違いをしているのだろうか?

これは私の本当の喜びでないということなのだろうか?

私も今まで、何度こんな自問自答をしてきたかは数え切れない。そしてその結果実際に、ある程度手を引いたり、多少の軌道修正をしたり、あるいは完全に辞めてしまったりしたこともある。

だが、少なくとも私が霊媒師としての道を歩むこと、そして『闇の向こう側』の活動を続けることに関しては、私は何度自問自答しても、止めようとは思わなかったし、止められなかった。たとえ諸事情で何か月かなにも書けないような状態になっても、またその度に復帰してきたし、復帰することができた。それはこれが私にとって、「喜び」であり、「喜びへの道」そのものだからである。そしてそれを確信しているからこそ、私はたとえ道中にどんな苦しみが現れようとも、それをむしろ「いい兆候」だと捉えることが、できているのである。

私たちひとりひとりに「守護霊」がいるのは確かだが、これは簡単に言えば、

「私たちが喜びとともに生きることを願い、支援する存在」

だと言える。だが一方で、そのまったく逆の「意志」を持ち、

「私たちが喜びとともに生きることを疎ましく、妬ましく思い、それを阻み、潰そうとする存在」

というのも確かにいるのだ。これを私は、負の霊団(「曇り」・「穢れ」・「邪」・「魔」)などと呼んでいるのだが、

「スピリチュアル」の世界でよく言われるのが、 (魂の)曇りを取りなさい 邪気を払いなさい 私たちは度重なる輪廻転生のなかで...

このことから言えるのは、

たとえ私たちが「喜びへの道」を歩んでいたとしても、それを全員が祝福してくれるとは限らない

ということである。そしてこれは

なぜ、「守護霊」というものが必要なのか?

という問いに対する、逆説的な答えでもあるのだ。それに、「世界には様々な意図を持った存在がいる」というのは、私たちが慣れ親しんでいるこの肉体世界を考えるだけでも明らかなことなのだから、それがそのまま霊界にもあてはまるというのは、言ってしまえばごく自然なことなのである。

だから、私が今こうしてこの文章を書いているだけでも、

ふざけるな!早く辞めてしまえ!

とか、

腕をへし折ってやる!

といったとりとめのないことを延々と言ってくる存在が数限りなくいるのだが、そんな言葉にいちいち従っているわけにはいかない。それは私の「意志」を曲げることであり、自ら喜びを手離すことでしかないからだ。もちろん、それは確かに気分の好いものではないのだが、逆に言うと「相手にされる」ということは、「箸にも棒にも掛からない」と思われて無視されていることから比べれば、

「放ってはおけないと思われている」

「相手に意識されるほどの影響をもたらしている」

ということなのだから、むしろいいことだとさえ言える。だから、自分と向き合い、自分が喜びへと歩んでいることを確信しているのにもかかわらず「邪魔」が入っているのだとしたら、むしろそれを「いい兆候」と捉え、さらに気持ちを深めながら歩んでいけばいいということなのである。

その日、私が朝起きたときから、異変は既に現れ始めていた。からだが異様に重く、気分も悪い。朝鏡に映った自分の顔は、眼は窪み、肌は荒れて、寝て起きたばかりだというのに、もう2日くらい休んでいないような表情をしていた。それで私は、

これは気をつけよう

と強く感じ、少なくとも今日1日は、家で静かに過ごそうと決めた。その日私は七号食の期間中だったから、前日に悪いものを食べたとか、自分のなかでとても気持ちの悪いことが起きたとか、そういう原因による不調でないことは、はっきりしていた。だがそのころから私は、ある霊媒が私に負の念を飛ばしてきていることや、ずっと私を快く思っていない霊団が、ますます私を敵対視するようになっていることなどを、さらに強く感じるようになってきていた。そして、そのことを思えば、このくらいの「不調」もまた、そう不思議なことではないのだから、いっそう気を引き締めていればいいと、そう思っていた。

すると午後になって、急な来客があった。訊けば今日これからおもしろい集いがあるから、私の都合がつくのなら、一緒に行こうと言う。それで私は一瞬考えたが、せっかく強く誘ってくれているのもあるし、家に籠っているよりも気分を変えたほうがいいのではないかと思い、その誘いに乗って、そのひとの車に同乗していくことにしたのである。

しかしその会場への道を行けば行くほど、私のからだはますます変調の度を深めるようになった。最初は、七号食中の多少の空腹と久しぶりの車の揺れなどの複合による軽い車酔いかという程度だったのが、だんだんと不快感が強くなり、周りの世界が回り始めたかと思うと、信じられないほど急激で強烈な吐き気が、私を見舞い始めたのである。

前の席に座っていたひとは最初、後部座席の私の異変に、気付いていなかった。それに私もなんとか、車中の会話に応じることができていた。だが次第にその会話も疎かになり始めていた。そして私はそのとき、ほとんど意識を失いかけていた。私はついに、

少し酔ったみたいだ

と言った。するとそれを聞いた周りの同行者が、私の顔を見て、

おいおい、唇も顔も真っ白じゃないか!ほとんど死人みたいな顔してるぞ!

などと言っていたのだが、その声はほとんど、まともに聞こえなかった。ただ私は、守護霊に向かって、

意識だけは失わないように、それから、この車を嘔吐物で汚すことはないように、力を貸してください

と、ずっと願い続けていた。すると私に、もう疑いようもないほどの「異変」が訪れた。脂汗をかく私の額をハンカチで拭ってくれているひとの顔や、車窓から見える景色、そんなものから一切の「色彩」が失われ、ただすべてが「脱色」されて、真っ白になっていったのである。終いには、私の周りのすべてのものは、その「境界」を失い、ひとつの「全体」として、私の眼の前に立ち現われようとしていた。そして私は、そのとき確実に、「死」を意識した。あとで言われたことだが、そのとき周りのひととたちは本気で、救急車を呼ぶ準備をしつつあったそうだ。そしてそのとき私の心にあったのは、

だから、後悔のないように生きるしかないんだ……

という一念だった。

だが幸か不幸か、そのころ車はもう、会場に着こうとしていた。そして私は車から抱えて降ろされ、いすに座って少し様子を見られていた。すると、驚くべきことに、あれだけ具合の悪かった私の体調は、それからほどなくして、みるみる回復したのである。それには周りのひとたちもひと安心して、結局救急車も呼ばれることなく、予定通り、私はその集いに参加したのだった。

そして結論を言えば、その集いは私にとって、とても有意義なものだった。まだそれがどう花開くかはわからないが、少なくともそこには多くの「喜びの種」があった。だから私はその日その集いに誘われて参加できて、とてもよかったと思ったのである。

もう少し話すと、そのあとの帰り道で、私はまた少し体調を崩しかけたのだが、それはほどなくして収まり、まったく気にならなくなった。そして、一瞬死を意識したのが嘘のように、私はまた自宅で眠り、次の日の朝を迎えられたのである。

そしてあくる日から、またいくつかの「出会い」が与えられた。そしてそれは確かにお互いの喜びを深めるものだった。だから私はその日を生き延びられたことを改めて心底、感謝したのである。そして同時に、

こんなに面白いことがあるなら、相手が邪魔したくなるのも、向こうの立場からすれば当然だよなぁ……

と、深く納得させられもしたのである。

実のところこの話は、ほんの数週間前のことだ。そしてあの日から、私の周りはまた確実に、変化してきている。そしてそれを乗り越えられたから、今私はこれを、ここに書けてもいる。そしてもうひとつ言えば、あの日の少し前から私に執拗に絡みついていた霊媒とそれを支援する霊団は、今でもまだ私にいろいろな攻撃をしてきている。それは「精神」の世界に留まらず、「肉体」や「物質」にも、影響を及ぼす。それは私の「想い」を阻み、潰したいからだ。そしてそんな霊団は、彼らだけでなく他にも数え切れないほどいるし、これまでだって多かれ少なかれ、そんなことはあった。

にもかかわらず私が珍しく少し踏み込んで書いたのは、まず今回の体験がそのなかでも特に強烈であったからというのもある。だがそれだけでなく、私は今回のように私を妨害してくる存在たちにも、

たとえ「目に見えない世界」だと言っても、そしてどんなに狡猾な手段を執拗に遣ったとしても、あなたたちのやっていることは、すべて記録されているんだよ

ということを、今いちどはっきりと認識してほしかったからだ。そしてそれは、たとえ私が死のうが関係はない。それに、私がこの文章を書くことを今さらどんなに止めようとしたところでそれはもう遅いし、ほとんど無意味なのだ。なぜなら、

あなたがなにをしたのかは、あなた自身がいちばん知っている」

のだから。

そしてそれは、私自身にも言えることだ。だからこそ私は、この人生を少しでも喜び多く、悔いの少ないものにしていこうと、改めて強く思っている。そしてその想いは、もちろんこの『闇の向こう側』にも、反映させていくつもりだ。だから私はあなたにも、本当の「喜びへの道」を見つけたなら、その道中の苦しみに、<彼ら>の思惑に、屈しないでほしいと思う。私はあの日、確かに苦しかった。そして、これまでも今もこれからも、苦しみはあるだろう。だが、それをいずれ私は、

あれは、産みの苦しみだった。あの苦しみのおかげで私はさらなる喜びへと歩めたのだから

と、振り返られるようになりたいと思う。そしてそれはもちろん、私のこれからの生きかた次第だ。だがだからこそ、私はこれからもこの道を行く。そしてただひとつ、はっきりしているのは、

「どんなに多様な意図や想いを持つ存在がいるとしても、最後にそれを通すことができるのは、最も強く深い想いを持ち続けた存在である」

という、これ以上なく素朴で強力な、真実なのである。

コメント

  1. リヨン より:

    人間関係においても言えると思いますが、自分の置かれてる状況や環境、またどんな人といるかその時に現れる苦しみ。この苦しみの正体が全て自分の心の投影であったと最近解ってきました。相手に嫉妬している自分。妬み嫉みを抱いてる自分。びっくりしました。申し訳ない。と。その自分の心を気づかせて頂き頭を下げました。それから、この感情は必要ないから、今すぐ私の心から出て行ってもらうように申しました。

    人生を楽しめるように。

    • Dilettante より:

      リヨンさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      「頭を下げる」というのは誰にとってもそう簡単にできることではないと思いますが、それを自分自身の気づきと意志によって実践なさったリヨンさんは、とても素晴らしいと思います。

      ただもしそれが逆方向に行き過ぎてしまうと、「卑屈」とか「自虐」のようなものになって別の問題を生んでしまうことにもなるのですが、あなたの根底に、

      人生を楽しめるように。

      という想い(意図)があるなら、だいじょうぶだと思います。

      どうかこれからもご自分のからだと心をいたわりながら、たくさんの喜びや楽しみを、見出していってください。

      そしてなにより私自身も、そうありたいしそうなっていきたいと、心から思っています。