あの夏目漱石が英語教師をしていたとき、
”I love you”をどう訳すか?
と生徒に訊ね、
我君を愛す
との答えに対して、
日本人はそんなふうには言わない。「月が綺麗ですね」くらいにしておきなさい
と言ったとか、あるいは二葉亭四迷が、”I love you”を
死んでもいいわ
と訳したとかいう話は、真偽のほどは別にして、広く知られた伝説である。
このことを掘り下げたければ、たとえば

などを読んでみてください。
そして、特に精神世界を探求しているひとたちの教えでも、この「愛」というのはたとえば「感謝」と並ぶほどに賞賛される価値のあるものとされることが多い。しかし、かつてその「感謝」を持っている自分の内面に違和感を覚えたように、

私にとってこの「愛」という想いもまた、とても厄介で、扱いの難しいものである。だから私はあなたにも決して安易に「愛」を持つことを勧めることはできない。なぜならそれはときに、あなた自身をも引き裂こうとするほど、強烈な力を保つものなのだから。
ここで私がいつも遣っている「霊」とか「守護霊」、あるいは「生まれ変わり」といった言葉には、実はまだ万人が共通して認める共通の定義や認識がない。それにそれは「政治」とか「経済」あるいは「世界」といったものについても同じなのである。

そしてもちろん、「愛」についてもまったく同じことが言える。
愛してるならもっとなにか買ってくれたっていいのに!
大切に想ってるって言うけどあなたは私の傍にいないでしょ!
そんなの、結局はただの同情でしょ!
などといった言葉は、私たちの世界を日常的に飛び交っているし、実際に私自身も言われたことがあるくらいありふれたものになっている。だがこれは端的に言えば、
「『愛』という言葉に期待しているものがひとによっていかに違うか」
ということを如実に表しているとも言えるだろう。また、この
「愛」という言葉(想い)は実際のところ「性愛、もっと言えば刹那的な快楽を求める性欲以外のなにものでもないのではないか?
というような問いは、誰もがいちどは向き合うことになるものだとしても、これ自体があまりに混迷を極めていて、考えれば考えるほど、袋小路に嵌りそうになるようなものにも思える。あるいは、
私は愛されているから愛しているのか?
私は愛されたいから愛しているふりをしているのか?
私は私を愛してくれるこのひとを愛することで、結局は私自身を愛しているのか?
などといった問いもあるが、これはほとんど「毒薬」のようなもので、これを飲んでしまったら、それはいずれ自分自身をも破壊してしまうかもしれない。愛というものは、それだけ恐ろしいものでもある。だから、
恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである
恋愛とは、より多く愛した側が敗北する男女の性的葛藤である
というような言葉で自分を納得させて、愛を「利用するもの」と割り切ったり、あるいは愛そのものから離れようとしてしまったりもする。
しかし、私たちはやはりどこかで愛されることを切望している。それはその愛がどれだけ素晴らしいものを生み出してくれるかを知っているからだ。だが同時に、それが簡単に私たちのすべてを破壊するほど凄絶なものを生み出すかも、私たちは知っている。そしてなにより、「自分の愛が相手に理解されず拒絶されたとき」に自分の身に跳ね返ってくる絶望の深さを、私たちは知っている。だから私たちは
愛されたい
と思うほどに
愛したい
と思うことがなかなかできない。そしていつしか愛をなにか他の「まがいもの」で置き換えることでしか、それを理解できなくなっていく。そしてそのひとの心から、世界から、愛が少しずつ、消え去っていく。
明治から昭和を生きた女流歌人、与謝野晶子の作品に
やは肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや 道を説く君
という歌があるのはあまりにも有名だ。しかしそれに現代の歌人、笹公人が付けた返歌に、
やわ肌にふれて地獄を見しわれが
過去の己を説得する夜
というものがあるのだという。これは知人から又聞きしたものであり、ネット上などでは確認できなかったので、もし間違いがあれば指摘してほしいのだが、ただいずれにしてもこの返歌は、私の心に深く刻まれた。
こうしたことを考えながら、私が感じるのは、やはりこの「愛」という想いは最も複雑なものであり、もしかしたらこの世のあらゆるものをそのなかにすべて秘めているのではないかということである。ただそのうえで、今の私にとっての「愛」とはなにかと自問するなら、それに私は
痛み(哀しみ・苦しみ)に共感し、分かちあうことだ
と答える。そしてだからこそ、私はあなたに簡単に愛を持つことを勧めることはできないのである。
もしあなたがあなた自身だけを愛することで済むのなら、あなたにとっての「痛み」はあなたに与えられるものだけであり、そのひとつの究極点にある「死」は1度限りである。
だがもしあなたがこの地球上の人類すべてを愛してしまったら、あなたにとっての「死」は70億回訪れることになる。それどころか、もしあなたがその愛を人類以外にまで拡げてしまったら、その数は1兆でも足りないだろう。しかしあなたの愛が本物であればあるほど、深ければ深いほど、それはすべてあなた自身にも降りかかることになる。それはまさしく、身を引き裂くような苦しみだ。そしてそれこそが、
善人ほど早く死ぬ
と言われる最大の理由なのだと、私は思う。
だから、もしあなたがあまり他者を愛せないなら、それはもしかしたらしあわせなことなのかもしれない。だから決して、無理に誰かを愛そうと思わなくてもいいと思う。これは心底そう思う。
だがもしあなたに大切なひとがいて、そのひとを愛さずにはいられないなら、あなたはその気持ちと真正面から向き合って、その扱いを学んでいくしかない。あなたはもう、それに出会ってしまったのだから。
あなたがいなければ、この世界は凍りついてしまう。すべてのひとが自分を見失い、感情を押し殺し、鎧に身を包んでしまったら、この世はいずれ朽ち果ててしまうだろう。そんな世界でも、宴会の席に加わってくれるひとはいるだろう。
「喜びに共感し、わかちあう」
というのはそう難しくないのだから。だが、誰も見ず知らずのひとの葬儀には参列してくれない。遺されたひとにとって、本当に誰かにそばにいてほしいのが、そのときであったとしてもだ。
「痛みに共感し、わかちあう」
というのは、本当に難しいし、そもそも割に合わない。そしてみんなが自分自身の痛みに耐えるので精いっぱいになっているなかで、誤解され、傷つけられる危険を冒してまでそれをすることができないのも、まったく無理のないことだ。そしてそれが、現代の「当たり前」になっているのである。
だがそのどうしようもなく凝り固まってしまった世界の「鎧」を貫き通すことができるのは、やはりあなたの愛だけだ。だがそれは、いつも「諸刃の剣」なのだ。だから誰もがどこかで、その剣を持つことをやめてしまう。そして私は、そんなひとを責める気にも、とてもなれない。
だが、私は自分の気持ちを偽ることはやはりできないのだ。愛することにどれだけ傷つけられ、苦しめられたとしても、それで地獄を見たひとに、どれほど説得されたとしても、
歎きつつひとり寝る夜の明くる間は
いかに久しきものとかは知る
という歌が、このうえないほどに私の胸を打つからだ。そしてこれが私自身の想いであることも、私は気付いている。だから、私はやはり、この道を行くしかないのだ。しかし私はまだ愛を恐れずにはいられない。だから、あなたに愛を持ってほしいなどとは思わないし、あなたに愛などという言葉を向けることもできない。あなたが望んでいる「愛」が私のなかにないのなら、それは却ってあなたを傷つけることになるから。
だが、それでも私はただ、あなたにも一緒に生きていてほしいと願っている。たとえあなたになにひとつ買ってあげられなくても、あなたのそばにいられなくても、あなたに同情だと怒られても、この想いだけは、どうしても変えられないのだ。だから、もしあなたが私から離れていくとしても、私はずっとあなたに生きていてほしいと願い続ける。けれどもしお互いの人生がいつかまた重なったとき、あなたが私をそばにいさせてくれるなら、私もあなたと一緒に、きれいな月を眺めていたいと、そう思っているのである。

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