なぜ私たちは決断を恐れ、そして後悔してしまうのか?

私たちは日々なにかを選びながら生きている。そしてそれは、生きていくうえで避けては通れないことでもある。その種類は様々だが、それが自分の人生を大きく左右するものである場合は、そこに大きなためらいや葛藤を感じてしまう。それはもちろん、私も同じだ。

ではなぜ私たちは、決断を恐れてしまうのだろうか?この問題は心理学や行動経済学などでも研究されている課題であり、たとえば「現状維持バイアス」とか「プロスペクト理論」などと呼ばれるものとしてもその理由が議論されている。

だがそれも踏まえて考えてみれば、

私たちは1つの人生しか同時に体験できないから

というのが今の私なりの答えである。

ときに人生のなかでは、まったく違った結果を生み出すとわかっている選択肢から、ひとつを選ばなければいけないことがある。たとえば仕事を選ぶ際に

農家になるか、それとも銀行員になるか?

というような選択をしなければならないとしよう。そしてこのどちらになるかは、あとは自分の意志だけで決められるという状況を想定してみる。しかしこの「農家」と「銀行員」というのはあまりにもかけ離れた存在である。たとえどんなに情報を集めてみたところで、

「農家になった場合のいいところと悪いところ」

「銀行員になった場合のいいところと悪いところ」

は、単純に比較できるようなものではない。それにもしこれがもっと軽いことなら、

よし、今日はこの店の蕎麦を食べて、明日はうどんを食べて、よりおいしかったほうを、あさって食べてみよう

などといったことができるかもしれないが、これはそういった類の選択とは違う。

明日は農家をやって、あさっては銀行員をやってみて、それで気に入ったほうをやればいい

というわけにもいかない。なぜかと言うと、それは「食べものの味」のように、すぐには「結果」として現れないからだ。それには「時間」がかかる。そしてその時間を経たあとには、「あのときの自分」はもういない。私たちの人生は1度きりで、自分と同じひとは1人しかいないのだから、

「すべての結果を見比べてから考える」

ということはできない。そして、人生には必ず「うまく行かないとき」がある。そんなときに、

あぁ、もし銀行員をやっていれば、今はもっと高い給料をもらって、安定した生活をできていたのかもなぁ……

と思えてしまう。それが「後悔」の始まりだ。

だが一方で、もしあなたが銀行員の道を選んでいたとしても、

あぁ、もし農家をやっていれば、こんなに心を病むこともなく、土に触れ合いながら楽しく暮らせていたのかもしれないなぁ……

などと考えていた可能性はあるということだ。もしこれがゲームなら、農家と銀行員の分岐点の前に「セーブポイント」を作り、そこから「ファイル1」で農家の人生を10年、「ファイル2」で銀行員の人生を10年過ごし、それぞれの「結果」を見定めることもできるだろう。そしたら改めて10年前の「セーブポイント」に戻り、どちらか好ましい結果が出たほうを選んで、それを「本編」として生きればいい。それなら、「事実」と<事実>を見比べたうえで、判断することもできる。

だがもちろん、人生に「セーブポイント」はない。それに、「ファイル2」は存在しない。だから、自分が選ばなかった道を行った場合の結果というのは、「想像」することしかできない。しかし、特に人生が苦しみのなかにあるときは、「想像」は甘美であり、対する「現実」は暗く淀んだものでしかない。それが、私たちをさらに苦しめる。そしてそれが「違う選択をしていたら手に入っていたはずの未来」であることが、どうしようもないほどの後悔を生み出すのである。

だから、私たちは決断に恐れを感じる。結果が見えていないなかで、「可能性を棄てる」ということができないのだ。だから、なんとかして「結果」を早く、わかりやすいかたちで提示してほしいと思った私たちは、「カネ」や「スペック」といったものさしに、すがりつこうとするようになった。それが今や、モノや自分に関することだけに留まらず、「ひと」や「他者」に関することにまで、拡がってしまったのである。

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だがこれで、私たちはより「しあわせ」になったのだろうか?いや、そんなことは決してないだろう。私たちは、

自分がこの人生を選んだ

という気持ちがなければ、しあわせになれないからだ。もちろん、独りだけでそれを選ばなくてもいい。ときには誰かに頼って、そのひとの意見を採用してもいい。だがせめて、

自分が誰に頼るかは、自分が選んだ

という実感がなければ、私たちがしあわせを感じることは難しい。だがそもそも「誰かの意見」を聴いたとき、それは本当は「誰の意見」なのだろうか?親が言ったことは本当に親の意見なのだろうか?医者の言ったことは本当にそのひとが自信を持って導き出した答えなのだろうか?では、あなた自身の意見はどこから来ているのだろう?それは本当は「メディア」の、または「世間」の、もしくはもっと「得体の知れない誰か」の意見に、流されているだけではないのか?

こう考えると、私たちは「自分が選んだ」という実感どころか、「誰に頼るかは、自分が選んだ」という実感すら、まともに感じられなくなってきているということが見えてくる。まして「なにかを選ぶ」ということは「他の可能性を棄てる」ということに他ならず、

「その『結果』をすべて机上に置いて、見比べる」

ということができないのなら、私たちが決断を恐れ、日々「手に入ったはずの結果」を想像して後悔してしまうのも、まったく当然のことだと思えてくる。

それでは、私たちがしあわせになる方法は、様々な選択肢からひとつを選び取り、自分の人生をかたち作り、後悔のない(少ない)しあわせな人生を送ることは、まったく無理なのだろうか?

確かに私も、それは簡単ではないと思う。だが絶対に無理だとも思わない。では今の私が考えるその方法は、

「今あるこの人生を、精いっぱいいいものにする」

ということしかないのではないかと思う。

私自身、今まで生きてくる課程のなかで、様々な「可能性」を棄ててきた。そしてここで最も身近な例を挙げれば、この「『闇の向こう側』を開設する」ということも、ひとつの大きな決断だった。それは「自分の意見をひた隠しにし、静かに生きる」という「可能性」を棄てたということである。それにこの『闇の向こう側』を始めた当初から、それまで以上の霊的妨害や罵倒を受けるようにもなった。だがそれにもかかわらず、何カ月もの間このサイトはほとんど誰にも読まれることはなかった。そのとき、私がこの「決断」をまったく後悔しなかったと言えば嘘になる。

しかし私が、

こんなことなら、こんなものは始めなければよかった……

という後悔の念に苛まれたくないなら、私にできることは、

「あのときの選択の先にある『闇の向こう側』を、精いっぱいいいものにする」

ということしかなかった。だから、私は紆余曲折を経ながらも、ここまで続けることを選んだ。そして今、私はあのときの「決断」を、心の底から肯定できるのだ。

これは、仕事についても、住む場所についても、他者との関係についても同じことである。私は、今とは別の仕事をして、今とは違う場所に住み、今とは違う他者との関係性のなかで生きるという「可能性」があったことをよく知っている。もし、あのとき選べたはずの別の仕事をしていたら、もし、あの場所で生き続けることを選んでいたら、そしてもし、あのとき出会ったあのひとと関わり続けるという選択をしなかったら、今の私はまったく違うものになっていただろう。もちろんこれはどれか「たったひとつ」の選択が違っていただけでもだ。

そしてもし私が違う選択をしていたとしたら、ある面では「そのひと」は今の「私」よりも<しあわせ>だったかもしれない。私が感じてきた痛みや苦しみを、感じなくて済んだのかもしれない。これは確かにそう思うのだ。だがそれでも、私はあのときの決断を、そして今までのどの決断も、後悔していない。それは今の私が確かに「しあわせ」を感じているからだ。そしてそれはどの選択が少し違っただけでも得られなかったことを、私は知っているからだ。

あるパラレルワールド(平行世界)の理論では、

私たちがある「選択」をする度に、世界は分岐し、その選ばれなかった選択肢は、「別の世界の<あなた>」が体験する

というものがあるのだという。

つまり、今この世界ではあなたは農家かもしれないが、別のパラレルワールドにおいては、<あなた>は銀行員であり、また別の世界では、【あなた】はミュージシャンかもしれないというのである。

だとしたら、ある世界においては<私>は『闇の向こう側』を始めずに、ここではないどこかで、他の誰かと一緒に、なにか違うことをしているのかもしれない。もし本当にそうなのだとしたら、私は【私たち】に訊いてみたい。

あなたは今、しあわせですか?

そうですか、それはよかった。まさかそんなことが起こるとは、思いもよらなかった。でもそれがしあわせならそれでいいと思うし、つらくなったなら、変えてしまえばいいと思う。きっとあなたにも、それができるはずだから。

今の私が「最善の結果」なのかどうかは、なんとも言えない。だが私もそれなりに満足している。あなたを見て羨ましく思うところもなくはないが、あなただって私のどこかを羨んでいるのなら、それはお互い様ということだ。ならば私は今回は、この道を進んでいこうと思う。もちろん途中で軌道を変えることもあるだろうけど、それでも私は後悔しないだろう。なぜなら今同じ世界に生きるあなたの存在を、確かに感じられているのだから。