祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
これは日本人には特によく知られた
の冒頭部分である。このような
諸行無常・盛者必衰
といった思想や理念は、ある種の「警告」として私たちも何度も耳にしてきたものだと思う。
それにこのようなことは古今東西あらゆるひとが言っていることだが、その言葉が力を持つのは確かに私たちがその「実例」を何度も目にしてきたからでもあるだろう。たとえば、
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
と詠んだ藤原道長(と後の藤原氏)も失脚を避けられなかった。どんなに強固で絶対的に見える社会体制も変動を免れなかった。だから私たちは、
謙虚でいなさい。決して驕り高ぶってはいけないよ
と言われてきた。そしてそれは確かに、心に刻んでおく価値もあると思う。
ただ、そのような警告が本当に価値を持つのは、自分が「順境」にあるとき、「大成功」を収めていて、他者の苦しみに共感できなくなり、社会の綻びや矛盾に気づけなくなってしまっているときだろう。日本で言えば、「高度経済成長期」や「バブル期」には、そんな言葉に向き合うことに大きな意味があったと思う。
だが、時代は変わった。今や私たちは「傲慢」であることよりもむしろ「無気力」であることを恐れなければいけなくなっているとは思わないだろうか?今本気で
私こそが時代の覇者だ!私より強力な存在はいない!
と言い切れるひとなど本当にいるのだろうか?たとえどこかにはいるのだとしても、私の眼に映るのはそれよりもはるかに多くのひとが、
私より不幸なひとはいない!私の存在になど価値はない!なんて惨めで、希望のない人生なんだ!
と言っている姿である。そしてそれはまさに、私の師がずっと
この世はもう9割5分のひとたちが病んでしまっているけど、その流れに屈してはいけないよ
と言っていたことでもある。だから私は、今こそ今の時代に合った考えかたが必要なのだと思っているのだ。それは、「視点を変える」ということだ。
今まで私たちは、
頂点を極めたと思ったら、その瞬間から失脚が始まっているんだよ。だから、調子に乗りすぎるのはやめなさい
と言われてきた。でも今の病みきってしまった時代には、これはむしろ「恐怖」と「躊躇」の元になってしまっている。
いずれすべてを失うなら、最初からなにも欲しくない
プラスのできごとがあったぶんだけ、いずれマイナスのできごとが起きて清算されるんだ
などと言っているのはあなただけではない。だからこそ、今の私たちの世界には「諦め」と「無気力」が満ちている。
だがそれは、結局は「負の念に支配されている」ということでしかない。まずはそれを認識し、いつまでもその「隷属状態」にいることを望まないなら、私たちはまず視点を変えてみるところから始めてみればいいのだ。
頂点を極めたらあとは堕ちるだけ
というのは確かに正しいのかもしれない。だがそれならば私はそれを「逆の視点」から見る。そうすると浮かび上がってくるのは「警告」ではなく「福音」である。それは、
どん底に落ちたらあとは上がるだけ
ということだからだ。
これは、
陰極まれば陽に転じ 陽極まれば陰に転ず
と言われているとおりでもある。これは確かに両面性を保った言い回しだが、大切なのは
どちらが今の自分にとって必要な思考か?
ということなのである。そしてそのうえで、この教えを私たちの力に換えるために、もうひとつ重要な問いに向き合わなくてはならない。それは、
いつ陰が極まるのか?
というものだ。私たちは、「どこまで堕ちるのか」がわからないから苦しい。そんなときにちょっといいことがあっても、
楽あれば苦あり
などと言われたことを思い出してしまう。それにそんな心で
「今が最悪の状態」と言える間は、 まだ最悪の状態ではない
などという言葉に出会っても、却って苦しくなるだけかもしれない。
だからそんなときは、自分の「意志」を保って、
今がどん底だ!陰が極まったのは今だ!これからは少しずつでも、好い方向に変わっていく!
と決めてしまえばいい。それで信じられなくても、何度でも何度でも、そう言い聴かせればいい。そしてその「決意」を持つことができたら、今度はそれを「行動」で表現していけばいい。ちいさなことでもいい。できることでいい。無理をすることではない。ただ、自分にある「力」を自覚し、それを活かすことだ。
そしてそのためには、少しずつでも自分を知り、「自分の活用法」を習得していくことが必要になる。いつも言っているようにこれは「鍛錬」であるから、最初は成果が出ているとは思えないかもしれない。しかしそこで諦めてはいけない。そうすればそれは確実に、積み重なっていく。そしてそれがある段階を超えたとき、そこには「調子」が生まれる。そうなったらあなたの力は、もう何倍にもなっていくだろう。
だがそう言われても、
でもそれで結局「頂点」に達したら、また落ちるんだろう?
と思ってしまうかもしれない。だがそれは「認識」の問題なのだ。そうとわかれば、対処のしようはある。まず極められないと思うところを、頂点に設定すればいいのだ。それを決めるのはあなた自身だ。そしてそれが高ければ高いほど、あなたは謙虚になれるだろう。なぜならそれはすべて「通過点」でしかないからだ。そしてそれは別に、「今生」だけのたかが数十年の範囲で考える必要はない。そう考えればあなたは決して慢心することなく、淡々と道を進むことができるだろう。たとえ苦しみがあったとしても、あなたの気力は決して尽きることはない。なぜならそれもまたひとつの「通過点」だからである。
それに実際、真の喜びには際限がないのである。喜びは永遠に深まっていく。なぜならこの世界で最も強いものは喜びであり、世界には「終わり」がないからである。だからもし
頂点に達した!
などと思うときが来たら、それは「無知」だということだ。そしてその無知を改め、もういちど自分自身と向き合い、より想いを深めさせるために、「変化」が与えられたというだけなのだ。
だから、喜びには本来「頂点」などというものはない。それなのに
ここが頂点だ!私こそが至高の存在だ!
などと決めてしまうから落ちるしかなくなるのである。それだけ「認識」と「決意」の力は大きいのだ。だから私はそういった先人の経験を踏まえて、それを「逆方向」に活かそうと思う。おそらく私たちが最も苦しむのは今後数十年の間だと思う。それは
「激動によって試される」
ということでもある。実際私も文字通り、激動によって試され続けている。そしてそれは確かに、苦しいことでもある。だがだからこそ私も、
今がいちばん苦しいからこそ、これからは少しずつでも好くなっていく
という「認識」を保ち、そのための行動を考え、表現し続ける「決意」を、保ち続けようと思う。

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