真実を述べても嘘をついても疑われるのだから、ここで私がわざわざ嘘をつくことはない

私たちはいつもなんらかのかたちで「本音」と「建前」を遣い分けていると言われている。それは周囲との過剰な摩擦を避けるためでもあるだろう。その「建前」をより色濃くしたものを「嘘」だと言ってもいいかもしれないが、いずれにせよ嘘をつき続けるというのはとても疲れる行為であるし、それが積もり積もればなおさら、自分にも他者にも苦しみをもたらすことになる。

ただ、私たちにとって嘘をつくこと以上に苦しいこともある。それは、

「真実を伝えてもそれを信じて(受け入れて)もらえなかったとき」

だ。ここで言う「真実」というのは「自分の本当の想い」あるいは「実体験」と言い換えてもいいかもしれないが、自分の本当の想いを伝えるということは、自分の奥底をさらけ出す行為であり、そう簡単にできることではない。特に今のような競争主義や比較評価主義がはびこっている社会のなかならなおさらだ。だが、その信頼関係を積み重ねていくなかで、

このひとになら本当の想いを伝えてもいいかもしれない

と思ったからこそ伝えたのに、それを信じてもらえなかったり、受け入れてもらえなかったり、あるいは第3者に悪意や侮蔑の念を込めて広められたりすると、そのときの苦しみは計り知れない。それは、建前を遣い、本当の自分を護るために嘘をつき続ける苦しみよりも、さらに大きなものになる。これは、私自身も体験してきたものだから、よくわかる。

そうするとここから導き出されるのは、

嘘をつくのは確かに苦しいけれど、本当の想いを伝えて受け入れられない危険を冒すくらいだったら、まだ嘘をついていたほうがましだ

という価値観である。実際、私たちの多くはその思考に深く入り込まれているように見える。

さらに、嘘をつくのは本当の自分を護るためとは限らない。場合によっては

他者を自分の利益のために誘導しよう

という目的で嘘をつくこともある。しかも、現代社会にはそれが蔓延している。

また、たとえあるひとの言っていることを信じたいと思っても、少し調べてみただけで多くの相反する情報が見つかるのが現代である。まして自分が共感する意見が少数派だったり、周りからまったく相手にされていないような場合には、それを信じていいかどうか迷いが生じるのも無理はない。それに、結局はどんな意見や情報にしろ、それと相反するものを見つけることができるということを思い知ることにもなるだろう。するとどうなるか?私たちは

「多数派や、権威あるひとの意見を正しいものとして受け入れる」

ということになるのである。

そんななかで、私はこの『闇の向こう側』でずっと私なりの「真実」を書き続けてきた。その最も原始的な動機は、

なにもかも言わずにいることが、あまりにもつらくなったから

だ。そしてそれは、今でも私の根底にある想いだ。ただ、私は自分がここで書いているようなことが今の社会ではいかに奇異であるか、よく自覚している。だから実際今でも

これは本当のことなんですか?

とよく言われることがある。だが、ここで少し考えてみてほしい。私が仮にここでも自分を偽って、社会の「多数派の常識」に合わせるために嘘をついたとしよう。たとえば

霊などというものは存在しません

でもいいし、もう少し柔らかいもので、

守護霊は特別なひとにしかついていません

生まれ変わりなどというものは存在しません

などでもいい。それが見たひとの価値観に沿うものであれば、そのひとは納得して喜ぶかもしれない。だが、それでもやはり誰かが他のひとが、私の言葉を疑うことになるだろう。だからここからはっきり言えることは、

「真実を述べても嘘をついても、いずれにせよ誰かには疑われる」

ということだ。そしてそこから私が出した答えは、

だったら、わざわざ嘘をつく意味はない

ということだ。だから、私はここで真実しか書いていない。そしてそのためにこそ、この『闇の向こう側』を用意したのである。

ただ、これはまだまだ多くのひとにとっては受け入れがたいものだろうと思う。それに、私が今「真実」と見なしているもののなかに、私の理解の浅さから来る誤りが含まれている可能性もある。だから、私は基本的に今の自分が相当の確信を持っていることしか書いていないし、そのうえであなたの「検証」を、いつも仰いでいる。ただそれでも「切り取り」という手法を遣ったりすれば、「真実」だけで嘘をついたり、真実を歪めることもできるだろう。

なにが「本当」でなにが「間違っている」のかわけが分からなくて混乱したひとは、なにより誰かから「真実」を教えてほしいと願うことも多い。そしてた...

だから私はできるだけ真摯に、私がこれを真実だと見なすに至った理由をいろいろな角度から説明しようと試みているつもりだ。それが私たちが協働し合いながら真実を見出す、唯一の道だと思っているからである。

だが、それでもこの道は険しい。その最たる一例が、この『闇の向こう側』のなかで最も読まれている、

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

という文章である。私はここで、

自殺して後悔しなかったひとに出会ったことはない

という真実を、これ以上ないほどはっきりと伝えている。それに私が対話してきた多くのひとたちとの経験や、「魂の墓場」で見てきた多くの存在のことも踏まえて、できる限りの説明を尽くしているつもりだ。それでも、私のこの文章はひと握りのひとにしか信じてもらえない(受け入れられない)のである。

もしこれを読んだひとが全員これを「真実」だと認めてくれているなら、それはひとからひとへ伝わり、もうこの世界から自殺者はいなくなっているはずだ。いきなりそうはならないにしても、せめてこの文章がもっともっと多くのひとに読まれても不思議ではない。だが、現実には未だに世界から自殺者はいなくなっていない。そして今この瞬間にも、自殺して、後悔しているひとは生み出され続けている。これが、私の文章が信じられていないという、最も端的な証拠である。

何度でも言うが、これは私にとってはまぎれもない「真実」なのである。だが、多くのひとはまだ、これを真実だと認めてはいない。しかしだからと言って私は、自分の体験を、そこから生まれた最も強い想いを、偽るつもりはない。私にできることは、私にとっての「真実」を伝え続けることだけだ。私には、嘘をついている時間も、そこに割ける余力もないのである。

しかし、真実を伝えるのには勇気が要る。特に社会的にほとんど信用されないようなことの場合はなおさらだ。だが、私はそれを伝えるためにこの場所を作った。そして私は、できるならここをあなたにも、活用してほしいのである。

先日私は、

4月も半ばに近づきました。もしかしたら年度替わりで新しい環境のなかにいるひとも多いかもしれませんね。いかがお過ごしでしょうか? 先日、...

と言って、実際にいくつかの言葉をあなたとも共有している。しかし私は別に、この「仲間」を「霊存在だけ」に限っているわけではない。だからもし、あなたがなにかの「真実」を誰にも言えずに抱えていて、それを言える場を持たずに苦しんでいるのなら、そして本当はそれを誰かと共有したいと思っているのなら、私に連絡してきてほしい。もちろん私との間だけで収めることもできるが、もしあなたが望むならそれを「仲間たちの言葉」としてこの『闇の向こう側』で公開し、共有することもできる。

これは逆に私のサイトがあまり受け入れられていないからこそ、安心してできることでもある。私がどんなに真実を述べても未だにわずかなひとにしか受け入れられていないということは、見かたを変えると

ここではなにを書いてもいい

ということでもある。肉体世界に生きるひとたちは、まだ真実を見極めることに慣れていない。だから逆に私がどんなことを書いても、まったく意に介さないのである。私は霊存在からはいつも妨害を受けている。それは彼らが私の言葉に少なからず脅威や苦々しさを感じているからでもあるだろう。だが私は一方で、肉体人から罵倒や攻撃を受けたことはずっと少ない。これが、すべてを凝縮して物語っているのである。

だから、もしあなたがここになにかを寄稿したとしても、そこからあなたの身元を特定したり、嘲って精神異常者だと書き立てるようなひとが現れることはないだろう。もちろん、私だってそうならないようにできる限りのことはしようと思う。ただ、あまりにも細々としか広まらないから、数多くのひとに読まれたいなら、その効率はそんなによくないかもしれない。

だがたとえそんな場所でも、

「誰かに真実を伝えられる、本当の思いを伝えられる」

というのは意味があることだ。それはしないよりははるかにいい。それは私自身が実感していることでもある。だからもしよかったら、あなたもここをそんなふうに活用してみてほしい。もちろん今までどおり、私個人宛てのメールでもコメントでもいい。私はそれをいつも、励みにしている。

だから私はこれからも、ここで私にとっての「真実」を伝え続けていく。そして私はあなたの想いを聴かせてほしいとも思っている。その地道な拡がりは、確実にこの世界を変えていくだろう。私はそれを心から楽しみにしている。最後に、いつもこの『闇の向こう側』を訪れてくださるあなたに心からの感謝を伝えて、今日は筆を置きたいと思う。こんな私を見つけ出してくれて、受け入れてくれて、関わってくれて、本当にありがとうございます。私はあなたが思う以上に、あなたのことを大切に思っています。これからもどうぞ、よろしくお願いします。