「魂を取り替えて」。そう心から叫んだひとに起きたこと

以前

4月も半ばに近づきました。もしかしたら年度替わりで新しい環境のなかにいるひとも多いかもしれませんね。いかがお過ごしでしょうか? 先日、...

と言ってから、今まで何度か私の「仲間たちの言葉」をここに書いてきた。そのほとんどは私に関与してきた霊存在からの言葉(伝えたいこと)ではあったが、最初に

もし、これをお読みになっている読者の方々のなかに、

「自分の体験や想いを、多くの方々と共有したい」

というようなことがありましたら、それをメールなどでお知らせいただければ、適宜相談のうえ、ここに公開します。

(中略)

つまり、ここで言う「仲間」とは、別に「霊存在」に限ってはいないということを、もういちどはっきりと確認しておきたいと思います。

と書いたとおり、私はこれを読んでいるあなたの想いや体験も、共有できるときが来ればいいと思っている。それは、お互いが孤独ではないということを確かめ合い、力を生み出すことにもつながると思うからである。

そして今から書くことは、まさにこの趣旨に賛同してくださったあるひとの体験を、ご本人の視点から共有するものである。私もこの話を聴いて、とてもいろいろなことを考えさせられたし、同時に励みにもなった。あなたにもなにかを感じてもらえたら、私もとても嬉しく思う。

 

その当時の私は、どうしようもなく病んで、とても疲れていました。その理由は人間関係だったり、金銭的な不安だったり、もっと漠然とした将来への不安、自己否定の感情、そんなごくありふれたものの集合だったと思います。ですが私はそこから長いこと抜け出すことができず、少し好転したかと思うとすぐまた頭を打たれて沈み込んでしまうような、そんな堂々巡りの繰り返しでした。そして私は、

「生きることをやめたい、もう消えてしまいたい」

というような想いに陥っていきました。

でも私は、自殺することはできませんでした。ありとあらゆる方法が脳裏をかすめるのですが、いざ実行しようとすると恐怖が勝ります。私には、自分で自分を痛めつけることはできませんでした。

「いっそのこと、誰かが私を殺してくれればいいのに……」

と思ってみても、通り魔や凄惨な事件で殺されるのも、不慮の事故に遭うのも、いつも私ではない、他の誰かでした。

そんな日々を過ごすなかで、私はある日、自分の思う「神様」に向かって、こんな想いをぶつけました。

「神様、世界には今この瞬間も、亡くなっていくひとたちがたくさんいるはずです。病気で、事故で、戦争で、飢餓で、亡くなっているひとたちが。そのひとたちはきっと、

「まだ死にたくない。私には夢がある。愛する家族や場所がある。せめてあと1日でも、1時間でも、1秒でも長く生きていたい」

と思っていたはずです。それなのに、そのひとたちは死んでしまう。

そしてその一方で、そんな夢も希望もなく、生きていたいという意志すらない私が、こうしてまだ生きています。これは理不尽だとは思いませんか?だから神様、もしあなたがいるのなら、私の魂を、そんなひとたちの魂と取り換えてください。病床で、まだ幼いこどものことを想いながら、末期がんで死んでいく母親。そんなひとに、私のいのちをあげてください。私はもう生きていたいと思っていないのですから。どうか私の魂を、彼女と取り換えてください!」。

私は泣きながら懇願して、いつしか眠りに落ちていました。するとその夜、普段ほとんど夢を覚えていない私が、とても印象的で、現実感に満ちた夢を見ました。それは私が、末期がんで余命宣告を受けている夢でした。夢のなかの私は、泣いていました。喜びからではなく、哀しみからです。そして絶望し、無気力になり、なにをする気も感じる気も起きず、家に帰ってただ呆然とする、そんな夢でした。

しかしそれで終わりではありませんでした。翌朝目が覚めると、今まで経験したことのないほどの倦怠感、吐き気、頭痛が私を包んでいました。からだを動かすことさえできないかと思うほどでした。それは時間が経っても治まることはなく、私はやっとの思いで着替え、出勤しましたが、その日は終始、自分のからだがどこにあるかもわからないほどの具合悪さと集中力の欠乏、そして微熱に苛まれているような状態でした。とてもとても、苦しい1日でした。

夜になってもその症状は治まらず、このままでは明日もまたこのからだで生きなければいけないのか、いやあさっても、来年も……そもそも私はこのままで、生きていかれるのだろうか?そう思ったとき私は、深く深く、後悔しました。そして私は心から嗚咽を漏らしながら、神様に向かって懺悔しました。

「すみませんでした。私はなにもわかっていませんでした。軽はずみな言動と行動、そして浅はかな考えに基づいてできもしないことを願ってしまったこと、心から反省します。どうか許してください!私は最期まで、自分に与えられた人生を生き抜いていきます。ですからどうか、許してください!」。

私は恥も外聞もないほどに取り乱し、ずっと謝り続け、そして気づくとまた眠っていました。

そして次の日目が覚めると、私は自分の体調の変化を実感しました。すぐにすべてが元通りというわけではありませんでしたが、その後数日かけて体調は嘘のように回復し、私はその週を乗り切りました。そして私は、この世界には眼に見えない存在がいるということを確信するようになりました。もちろん、2度と愚かな願いを訴えることはしませんでした。

それから何年も経ち、私は今も生きています。私は今でも、完全に変わったとは言えないと思います。世界のことも、人間のことも、そして私自身のことも、決して心から好きだとは言えません。未だに、消えてなくなりたいという想いに駆られることもあります。ですが今の私はそんなとき、守護霊さんや自分の心の奥底に、呼びかけることができるようになりました。

「どうか、私を見守っていてください。私が浅はかな想いに囚われないように。すべてを壊さなくてすむように。そして少しでも、なにかを愛せるように。どうか私に、力を貸してください」。

ただ私はいつもこうした想いを持てるような澄んだ心を保てているわけではありません。いつも私の心には波があり、押し合い引き合いが為されているのを感じています。そのなかでやっと少しずつ、自分の意志を確かめられるようになってきているにすぎません。まだまだ、後悔するような言動・行動はなくなっていません。数日経って

「あの日の私は、いったい何者だったんだろう?」

と思うことも多々あります。だから私は今でも、あがいているだけなのです。

ですが私は、「意志の力」を確信しています。それをどの方向に遣うかで、未来は変わります。それは絶望や無気力を膨らませることもできます。「死にたい」と毎日毎分言い続ければ、どんな笑顔のひとも死にたくなるでしょう。ですがそれを生き抜くという方向に向ければきっと、生き抜くこともできるのです。

私は10年前、5年前、半年前ですら、未来のことを思い描けなくなっていたことがあります。そんなことはこれからもあるでしょう。その度に、未来はまるで重石に閉ざされて開くことのない扉のように見えます。でも実際には、私は今も生きています。そしてあの日から生き続けてきたからこそ感じることができた多くの喜びやしあわせがあったことも事実なのです。

だから私はこれからも、生きていこうと思います。結局私が言いたいことは、「想いの力」というのは確かに実在するということです。その扱いはとても難しいものではありますが、私も自分と向き合いながら、それを見つめ続け、少しでも活かしていけたらと思います。どうかみなさんも、ご自分を大切になさってください。私は今やっと、「人生はそう悪くもない」と思えてきたところです。そしてそんな私ではありますが、私もあなたが少しでもたくさんのしあわせを見つけられることを、心から願っています。