本日8月15日は第2次世界大戦の終戦記念日である。だがこれはあくまでも、現在の日本における記念日でしかない。別の見かたをすれば、日本が連合国および世界に対してポツダム宣言を受諾することを通知したのは8月14日夜だとされているし、その後実際に「降伏文書」に調印したのは9月2日である。だから、現在のアメリカやイギリスではこの「9月2日」を終戦記念日(戦勝記念日)としている。
では、なぜ日本では8月14日でも、9月2日でもない、この8月15日が「終戦記念日」とされているのか?その理由として言えるのはやはり、天皇により「玉音放送」が為され、日本国民が終戦を実感として受け取ったのがこの日であるからだろう。それだけ、この「実感」の力は大きかったのだ。
だからこそ、ポツダム宣言を受諾することなく戦争の継続、あるいはもっと違う選択肢を採ることで、より善い未来が拓かれるはずだと信じた一部の陸軍将校は、この「玉音放送」を実力で阻止しようと決起した。これが「宮城事件」である。結果的にこのクーデターは失敗に終わったが、このことから言えるのは、
もしなにか重大な変化が起きていても、そのことを「実感」していない間は、それは起きていないことと同じだ
ということである。これは、この玉音放送を耳にする機会がなかったことで終戦を実感できず、結果として「終戦」を迎えるまでにさらに多くの時間を要した、小野田寛郎や横井庄一といったひとの実例を見ればさらに明らかなことである。彼らにとって、戦争は1945年8月15日などには終わっていなかったのだ。
つまり、
私たちはある「事実」ではなく、実のところ「認識」と「実感」によってしか世界を把握していない
ということが言えるのである。ということは、その認識と実感を共有しない相手とは、たとえ隣に座っていても、まったく違う世界を見ているということになる。
では、今の世界はどうなっているのだろうか?日本では今日で「戦後71年」だと言う。しかし私は、以前から一貫して

という認識を保ち続けている。そしてこれは実は、世界観そのものを争う「思想戦争」でもあるのだ。なぜなら、私たちは今まったく、「同じ世界」などには住んでいないのだから。

しかし、この戦争もいずれは終結することになる。そしてその未来へと導く「放送」は、実はもう既に流されている。だがここでなにより重要なことは、
その放送が流れていることに気づいているひとがあまりにも少ない
ということと同時に、
その放送は、1つだけではない
ということなのである。
71年前の今日、日本に生きたひとたちはみんな、一心に天皇からの玉音放送を聴き、そして「終戦」を受け入れ、その先の「未来」へと歩み始めたのだ。しかしもし「宮城事件」が部分的にでも成功し、彼らがまた違う<放送>を行っていたら?私たちの心が終戦を選ぶまでには、まだいくつかの紆余曲折があったかもしれない。
そして今、私たちはその<放送>の波のなかに生きている。これはあまりの大音響のなかで、あらゆる放送が等しく耳に届かなくなっている状態とも言える。あるいは逆に、あまりの混乱のなかで、すべての放送から等しく耳を塞いでいる状態とも言える。
だが、放送は現実に、私たちのもとへ届けられようとしているのだ。だがそもそもそれに耳を傾けるかどうか、どの放送を聴くのか、そしてそれをどのように行動に活かし、未来の糧としていくのか、これらすべては、私たちひとりひとりに委ねられているのだ。
ある放送局は言う。
未来など存在しない!生きる意味も価値もない!もはやすべては手遅れである!だからせめて、自らの存在を護るため、他者を蹴落とせ!すべてを破壊しろ!そして最後に、自らをも破壊してしまえ!どうせこの世は進めど退けど、等しく地獄のなかにある!
しかし別の放送局はこう言う。
未来の計画は私の掌にある!これ以外の方法はない!だからわかったら、私の手足となって、私に従え!
あるいはまた別の放送局はこう言う。
未来の可能性は無限にある。生きる意味も価値もあなたが決めればいい。それにそれがあることは、あなたがこの世界に生まれてきたことそのものが証明しているんですよ?遅すぎるなんてことはない。でもなにもしなければ流れは変わらない。今の流れは、本当にあなたの望んでいるものですか?この流れがどこに向かっているのか、ちゃんと見ていますか?今のあなたたちの現状を、ちゃんと眼を見開いて見ていますか?望まない流れなら変えなさい。苦しみから学んだものは未来に活かしなさい。そしてそこに浸り続けることなく、喜びへと変わっていきなさい。まずはなにより、「変わりたい」という意識を持ちなさい。それを強く思ってさえくれれば、私以外にもたくさんの方々が、力添えしますからね。ともに、喜びを深めていきましょうね
この現状こそが、私が「思想戦争」と呼ぶものの核心なのである。そしてこれを見る際にもうひとつ大切なことは、
それぞれの放送局の「音量」は、決して同等ではない
ということを知ることだ。長年に亘って整備され、たくさんの「支援者」や「地盤」によって固められた放送局は、大音量で放送を流すことができる。一方で誰にも顧みられず、その電波を受信できる機材自体が少なくなってしまったような放送局は、どうしても不利になる。だがそれは、
受信者がそれを選んだんだ!
という理屈によって正当化されるものでもある。
そしてそれは、現代の社会システムにおける「選挙」の在りかたにも通じている。すべての候補者が平等に扱われることは決してない。すべての候補者の意見を同じ時間聴ける態勢は整備されていない。私たちは、既にこの時点で、ある「流れ」に乗せられているのだ。そのなかでは決して、すべての選択肢を考慮することなどできない。
それに、私たちはどこかで、
誰かにわかりやすく決めてほしい!
という想いを持っている。そして結局のところ「声が大きいほうにつられる」という癖も持っている。だからこのままでは決して、ありのままに世界を見ているとは言えない。
ではどうしたらいいのだろうか?耳を澄ますことだ。自分の声も他者の声も、もっとよく聴いてみることだ。そして声が大きいだけで粗暴な相手には、
そんなに大きい声を出さなくても、あなたの言いたいことはよくわかった!だから今度は、違うひとの意見も聴かせてくれ!あなたはいったん、黙っていてくれ!
私たちは主体的な最終決定権を持つ「有権者」なのである。だからこのくらいのことを言うのはなにひとつ間違ってはいない。そして真摯に、いろんな声に耳を傾ければいいのである。
ただそうすると今度は、あまりにも多くの声があることに驚くかもしれない。だが結局は、
自分の後悔を少なくし、喜びを深める
という原則に立ち返ればいいのだ。そのうえでもしどこにも気に入る放送がないのなら、自分で放送を始めればいいのだ。誰もしてくれないことは、あなたがやればいいのだ。そのあなたの放送が、世界を変えるかもしれない。いや、あなたがその意志を持ったその瞬間に、もうあなたのなかから、重大な変化が起き始めているのである。

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