VR(拡張現実)の技術を応用すれば、私に見えている世界も共有しやすくなるかもしれない

近年注目を集めつつある「VR」という技術がある。これは英語のVirtual Reality(バーチャル・リアリティ)の頭文字を取ったもので、日本語では「拡張現実(技術)」などと訳されるものだが、ひと言でまとめるなら、

「いまここに(見えてい)ない世界を体験させる技術」

と言ってもいいだろう。

これはときにはまったくの架空の世界を描き出すこともあるが、

「確かに存在しているのだが、自分にとっては縁遠い世界」

を臨場感とともに体験させることができる技術でもある。だから今はこのVRは娯楽(エンターテインメント)の世界から応用が始まっているが、いずれは教育現場に力をもたらすことが期待されてもいて、それはすでに実践が模索されていることでもある。その一例は、

An intimate portrait of a mother coping with the loss of her two children, victims of a shelling attack on her children's school in Gaza.

という作品にも表れている。

『My Mothers Wing』は、イスラエル軍の空爆による国連学校への爆撃により、二人の子どもを失ったパレスチナ人家族の母の悲しみ、そしてガザ地区の現状を描いた作品です。国連はVRSEと提携してVRドキュメンタリーを制作することで、より直接的に人々の心に訴えかける試みを行っています。

VRプロダクション会社「Vrse.works」が国際連合と提携を組み、イスラエル人による抵抗と、パレスティナ人の暴力というパレスチナ自治区ガザにおける2つの顔を描くために、360度フィルム『My Mothers Wing』を制作しました。 『My Mothers Wing』は、イスラエル軍の空爆による国連学校への爆撃...

「VRSEと国連が提携し、ガザ地区を舞台とするVRドキュメンタリーを制作」

となるとここで、私にもひとつの考えが浮かんでくる。それは、

この技術を応用すれば、私の眼から見た世界の在りようも、共有できるようになるのではないか?

というものである。

またこれは、VRと並んで注目されつつあるAR(Augmented Reality=オーグメンテッド・リアリティ=拡張現実)の技術の応用だとも言える。この「AR」という技術は、「現実の世界(今見えている世界)に追加情報を重ね合わせる」というもので、翻訳や観光情報といった部分での応用が期待されているものでもある。ならばこれを応用することによって、「道行くひとたちそれぞれに想念の状態が見える」とか、「守護霊や負の霊団がひとりひとりに影響している」という状態がどのようなものなのかというのを、より具体的なかたちで想像してもらうことができるのではないかと思うのである。

そしてこれは以前から私が、

先日あるひとから、 自分の守護霊と自分の力で対話できるようになりたいのですが、どうすればいいのでしょうか? という相談のメールを...

と言っているように、

「多くのひとびとにとっての非日常を日常的に体験する」

ということがどういうことなのかを知ってもらうことにもつながるし、霊媒体質のひとたちがお互いの感覚を共有し、ともに学び合うことにもつながるのではないかと思うのである。

今までにも、アニメや小説、それに映画などの作品において霊能力者が取り扱われることはあったし、それは今でもそうだ。しかし、それはやはり「非日常の世界のできごと」であり、「誰か他のひとに起きていること」として捉えられてしまうことがほとんどなのではないかと思う。しかし現実には、現実/非現実の境界はもっと曖昧であり、その世界はいつも重なり合って存在している。そしてもちろん、それは自覚的には

私に霊感なんてものはない

と思っているひとたちや、

霊などというものは存在しない

と考えているひとたちにも、同じように影響しているものなのである。

先日私は、

一般的に私たちの感覚は「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の五感があるものとして把握されている。そしてときには、たとえば視覚的情報が音楽的記憶を...

と書いた。しかし共感覚ほど未解明なものでない、たとえば「色覚」が一般的なひとたちと異なるひとがどのように世界を見ているかについてなら、既に

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といったアプリでも簡単に共有することができるようになっているし、それを基にさらに理解が進められるようにもなってきている。そしてこうした事例を見ることで改めて思うのは、

私たちの見ている「現実」そのものが、一定の「枠」に押し込められたものにすぎない

ということである。

これはある意味では、ひとつの「防衛反応」であるとも言える。世界はあまりにも広大で、多くの情報にあふれている。そして私たちは、そのすべてを受け入れ、咀嚼し、判断し、選択することは難しい。だから、本来の世界のうちのある一部分を切り取って「世界」と定義し、その世界のなかで認識と生活を完結させるようになった。そう考えると、そのすべてが非合理的だとも言い切れない。なぜなら、私たちが限りある力を遣い、自分たちの喜びを実現するためには、ある程度の「選択と集中」が必要であることも確かだからである。

しかしそのときこそ大切なのは、

「自分の見ている『世界』が世界のすべてではない」

ということを忘れないことだ。それを忘れてしまえば、世界はまさに切り取られた一部分しか見えなくなってしまうのである。その意味では、現代の多くのひとたちが見ているのは、「もし今の私が肉眼で見ている世界が世界のすべてだったとしたら?」という過程に基づいた「仮想現実」なのである。だから、私たちはその現実を「拡張」するというのは正しくない。なぜならそれは単に

「切り取られたものを、もういちど取り戻す」

ということなのだから。白黒だけで見ていた世界ですべてを知り尽くしたようになっていても、まだまだ先はある。もし私たちがもういちど「色」を取り戻したら、世界は再び、あなたに尽きることのない感動と探求を与えてくれることになるだろう。そして私はただ、それをほんの少しだけ早く体験しているにすぎないのである。私はそのことをあなたと分かち合える日が1日でも早く来ることを、心から願っている。