心に嵐が吹き荒れているときは、せめて未来に向けての記録を残す

今、私の心は乱れている。しかしそれでもなおこの文章を書き残しておくのは、未来の自分自身に対する記録を残すためである。ただ私は今少なくとも、

自分の心が乱れている

ということを自覚できるくらいの制御を保てているのは確かだ。だから今回の事態に陥った原因を、できるだけ丁寧に紐解いてみようと思う。この記録がどんなものになるかはまだわからないが、できるだけ真摯に向き合ってみようと思う。

まず、今思えばこの流れは数週間前から断続的に現れていた様々なできごとのなかにわずかずつ予兆があった。そしてそのいくつかは未だに解決していない。だがそれでも私はそのなかで今できる限りの解決策を試行錯誤して、その結果それほど悔いのないことはできたと思っていた。そして最も厄介だと思われた状況のひとつも脱し、いくつか未解決の課題はあるとしても、全体としてはいい方向に向かっているという確信があった。

そのなかで、この土日にかけてさらに様々な「波」を受けた。それは私の予測を完全に超えた展開を見せたものがいくつもあり、それがどんな着地点に達するかはまったく読めなかったものの、結果として私の想像を超えた喜びを感じることができた。そして、昨日の月曜日を迎えた。

昨日の午前中はその深い喜びが余韻のように残っていて、自分の周りの世界がより私に近しいものに感じられた。しかもそれは苦しみではなく、喜びに強く意識が向いたうえでのことだった。普段の私であれば、ひとつ気がかりや苦しみを感じることがあると、それと同じくらいの喜びやしあわせがあっても、それを心から喜ぶことができない。しかし昨日はそうではなく、世界からありとあらゆる色彩や情報が与えられているにもかかわらず、そしてそのいくつかは大きな葛藤を生むはずなのにもかかわらず、依然として大きな喜びが私の胸に根を張っているような感覚があった。だから私はそのとき、とてもしあわせだったと思う。

そんな私に、あるできごとが起きた。これはある観点から見ると葛藤を生むかもしれないようなものではあるが、他の観点から見るととても大きな喜びをもたらすものだった。そしてそれは、その前の波のなかで得ることができなくなってしまったものがまったく別のかたちで与えられたとも感じられるものだった。そのうえそのときの私は、先に書いたようにあまりにも私にとって珍しいほどの喜びの感覚にあったために、それを喜びとしてしか受け取らず、自然にそれを分かち合いたくなった。そしてそのことが、その喜びをより深めるためにも最善の方法だと思っていた。これは一種の「童心」だったと今は思う。

しかし、そのこどものような私が起こした無造作な行動は、相手にとっては苦しみをもたらしてしまうものだった。それは相手が本来的に望んでいた選択や思考ではないというのも事実だろうし、そこには当然相手に関与する負の霊団の影響もあっただろう。しかしそういったことも含めた相手の状況や可能性を踏まえたうえで、最も適切な届けかたと時機を見計らうことが必要で、それが今までの霊媒師としての体験も経てきた私なら当然採るべき思考と行動だったと思う。しかし、そのときの私はあまりにも単純だった。またそれは、その瞬間の相手も同じように深い喜びに満ちているように見えたことがさらに拍車をかけたことも確かだと思う。その結果、私は相手を傷つけてしまった。そして相手の哀しみや苦しみは、普段以上の感受性を持っていた私の心に、そのまま跳ね返ってきてしまった。

そうなればそこから先は悪循環の極みである。先ほどと逆に、あらゆる現実が悪いものとしてしか捉えられなくなる。世界はあまりにも悲惨で苦しいものだったのに、私はあまりにも短絡的で、自分の喜びが他者にとっての喜びでないこともあるなどという思考も完全に抜け落ちた愚か者だった。というよりそれはむしろ、傲慢でしかなかったと感じた。一方で私は、そんな世界の複雑さに耐え切れなくなっていた。そしてつい数分前にはあれほど近くにあった世界は、今やすべての温度と色彩を喪って、枯れ落ちたように感じた。そして私は、自分の存在の土台を見失っていた。

また、この状態をとても端的に表すできごともここに記録しておこうと思う。私は消え落ちそうな心のなかで、なんとか助けを求めようとした。しかしそのとき、「守護霊」という言葉が私のアタマから消えた。なんとか口に出そうとすると

死後霊

というような言葉に変換される。それも当然、暗く淀んだイメージとともにだ。それならと必死に呼びかけようと、

護ってください

と言おうとすると、それすら口をついて出るときには

迷ってください

になっていた。信じられないような話だが実際に起きたことである。それだけではなく、以前ここでも共有した

先日予告していたとおり、これからは私にいろいろな示唆を与えてくれた「仲間たちの言葉」を、より直接的なかたちであなたとも共有していこうと思う。...

に倣って

(回復)できるできるできる

と言おうとするとそれより前に

できないできないできない

という声が響き渡ってくる。このとき私の心には、過去のありとあらゆる苦しみや哀しみの光景が去来していた。私の精神は、このとき間違いなく壊滅的に崩れ落ちる瀬戸際にいたのだろうと思う。

しかしそんな状態の私を助けてくれたのは、私が苦しみを与えてしまったと思った、私が傷つけたと思った、その本人だった。私は相手に喜んでもらえると思っていたが、相手を苦しめてしまった。しかし相手は確かにそのとき苦しんだのだが、私はそんなことには思いも寄らず、ただ単純に喜びを共有したかったということを、そのひとは理解し、その想いに寄り添ってくれた。そしてそれによって私が傷ついていることを察知して、私を励ましてくれたのである。そのことが、私を自暴自棄の連鎖から辛うじて引き上げてくれた。

さらにそれとほぼ同じタイミングで、私の状態と心情を理解したひとが、私にいたわりの想いを送ってくれた。そして私の回復を辛抱強く願い続けてくれた。

このひとたちの存在と想いがあったから、私は再びこの世界に復帰することができた。そしていちどきっかけを掴めば、守護霊の存在も、世界の色彩も、少しずつ私のなかに取り戻されてきたのである。

もうひとつ、私は過去の私自身によっても助けられた。それはもちろん今言ったような「きっかけ」を与えてくれたひとがいたからだが、そのうえでここにも書いた

考えがまとまらない。イライラする。周囲の眼が自分に刺さってくる。音がやたらとうるさく感じられる。からだがだるい。こんな「症状」は、現代ではあ...
ここ1週間ほど、久しぶりに強烈な想念を受けている。それは決して好ましいものではない。たとえば 私なんて消えてしまったほうがいい ...

といった文章や記録が、大波にさらわれて呆然となりかけていた私自身の道標となってくれたのである。

数日前私は、あるひととの会話のなかで台風についての話題となり、

現実世界においての台風は、土地の浄化や水の供給といった現実的な必要性と同時に、ある種の「象徴性」を帯びているんですよね。だから実際の台風と向き合うときには、自分たちの心のなかに起きる「台風」にも、眼を向けていなければいけないんですよね

というような話をしていた。そのときの私は、

既にいくつかの台風を乗り切った

という想いのなかで自分の体験を振り返る意味で言っていたのだが、そのあとにそれ以上の台風が来て、まさかここまで追い込まれることになるとは、予測できていなかった。

だから、私はいつも思うのだが、私たちは自分のことが最も見えにくいのだ。だからこそ、お互いが相手を気にかけ、大切に想い合うことが必要なのだと思う。そして私たちは、そのひとつひとつの経験から、自分を成長させていくしかないと思う。そしてそれは、絶対に可能なことなのだ。しかし私たちは、苦しみの渦中にいるときには、それが終わるとはなかなか思えないものだ。だから、その「一過性の苦しみ」に呑まれて潰れていく。そして最後には、

「勝手に自滅させられる」

のである。

だからそれを防ぐために、私はここに記録を残しているのだ。これは、

こんなにひどい状況からでも、なんとか立ちなおれた

という体験を、未来の自分に残すためである。私は確かに霊媒師としての体験を持っているし、それ以外にも人生のなかでいろいろな体験を通じて、精神を育んできたとは思う。だから昔よりははるかに、生きていることを喜べるようになってきた。しかしそれでも、まだまだ未熟者であることは間違いない。だからこれからもきっと「立ち直れない」と思わせられるようなことも起きるだろう。今回のように、ひとつ乗り越えて浮かび上がったと思っては落ちたり、深い大きな喜びから一気に突き落とされるような衝撃を受けることもあるだろう。二番底や三番底、それに底が抜けたような打撃を喰らうこともあるだろう。だがそれでも、未来は消えてなくなったりしない。未来はその先にある。だからこそ、私はこうして今まで生きてこられたのである。

かといって私は、まだ回復しきったとは言えない状態にある。しかしこの文章を書き始めたそのときよりも、さらに回復している感はある。だから私はこうやって、少しずつ回復していこうと思う。それにふと振り返れば、私はたった4か月前にも死を実感するような事態に陥っている。しかしそれでもなお

楽しいかい? 私の師はいつも私にそう笑いかけ、 楽しくないのなら、なにかが間違っているんだよ と言って、飄々と自分の道を歩...

などと言っている。今の私からするとこれはとてもふてぶてしくも感じられるのだが、実際これは正しかったと今ならわかる。なぜならこの体験があったからこそ、そしてそのことをここに書いたからこそ、実際にとても大きな喜びを得られたからである。そして私は、全体としては確実に成長している。常に右肩上がりではないが、10年前、あるいは1年前と比べても、確実に喜びは深まっている。これは長い眼で見れば見るほど明らかなことなのだ。だから私は、この

生き延びられた結果、少しずつは好くなっている

という事実・実感を忘れずにいようと思う。

そして私は、私を支えてくれるあなたに心から感謝している。感謝というのは非常に複雑なものでもあるのは知っているし、

「感謝する」という行為ほど、ひとびとに賞賛されているものはない。感謝するということは、 それまで当たり前だと思っていたことの価値に気付...

そこには文字通り半分は「謝罪」の意味も含まれている。だが私は、だからこそこれからも少しずつでも成長していこうと思う。自分の想いはちゃんと伝えて、あなたの想いはちゃんと聴いて、望まない想いは毅然と断って、あなたと一緒に喜びを感じていたいと思う。私はあなたを大切に想っている。これは偽りのない私の本心だし、私はその想いを選び続けたいと思っている。私を大切にしてくれてありがとう。私はあなたに大切だと感じてもらえるように、これからも自分を育んでいきたいと思う。だからそれをずっと一緒に見ていてくれれば、とても嬉しい。これで私が今いちばん言いたいことは書けたと思うから、ひとまずこの記録はおしまいだ。油断する気はまったくないが、これならきっと、回復していけそうな気がする。そしたら未来の私はこの記録を微笑ましく読むだろう。私はそれを、心から楽しみにしている。

コメント

  1. だれか より:

    人を傷付けても「自分は悪くない」と、思う人が多い中で、

    Dilettanteさんは、自分を振り返る事の出来る、

    とてもお優しい方ですね。

    私は、そんな優しい人こそ

    幸せになって欲しいと思います。

    • Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      以前

      あなたは優しすぎる。もっと厳しさも身につけなきゃ。バランスが大切なんだから あなたはこんなふうに言われたことがあるだろうか? 私はかつ...

      と書いたように、私は別に優しい人間ではないのですが、この程度で優しいと言ってくださるあなたの優しさはよくわかります。ありがとうございます。だから私はもう既にしあわせだと思っています。

      だからこそその事実を忘れずに、私にもそのささやかなお返しができればとても嬉しく思います。どうかあなたも、ご自分を大切に、生き抜いていてください。

  2. だれか より:

    ありがとうございます。