他者に近付くことにも離れることにも苦しみがあるが、私はあなたと一緒にいたい

このサイトの最初期の文章、

たとえあなたが自身の容貌にどれだけ引け目を感じていたとしても、完全な闇の前では、それはなんの意味も持たない。そこに1万の人間が列を成していた...

でも書いたように、闇は本質的に「全体性」(均質性)を持っている。そこではすべてが一体であり、自他の区別はない。それは単純に、それが見えないからでもある。

しかしそんな闇から光のもとに出ると、世界は一変する。そこでは「個性」が晒されることになるのだが、それは言い換えれば「違い」でもある。そしてそんな世界では、先ほどまで一体だと思っていた「私」と「あなた」は分離し、両者の間の違いはますますはっきりと浮かび上がっていくようになる。

これは、ある面では確かに苦しいことでもある。それは現代が、

違うということは面白い

という思想を選ぶよりもむしろ

違う相手はおかしい。自分とは合わない

という思考を選んでしまっているせいでもあるが、それならばなおのこと、「違いを見せる」というのは大きな葛藤を生むものでもある。

そして霊界が基本的には「似た者同士」の集まりであるのに対して、この肉体界ではあらゆる思想、エネルギー、姿かたちを持った存在が同居している。だからこの世界が「光の世界」であることに間違いはないのである。しかし同時に、私たちが初めて出会ったときには、私たちはお互いの姿をよく認識していない。確かに見かけ上の情報、たとえば容貌や服装、言葉やしぐさなどによって少なからず情報をやり取りしているとは言えるが、そんなものはある程度までならどのようにでも取り繕うことができる。それに、たとえ数メートルの範囲にいようが、私たちは自分の関心の外にある存在のことをそれほど詳しく観察することはないし、たいていのことは忘却の彼方に消し去っていく。これは、街なかの雑踏に出てみればすぐわかる。私たちは、

「たとえ相手を目に映していたとしても、それほどは見ていないし、知らない」

ということなのである。

だからこの世界がいかに光の世界だとしても、その強すぎる光は却って私たちの目を眩ませ、同時に曇らせてしまっているということが言える。それに、

これだけ煌々と光っているのだから、すべてのものは見えているだろう

という思い込みが、真摯な観察を阻むことも多々ある。私たちは、意識しないとなにも見えないという事実をすぐに忘れそうになる。

しかしだからと言って、自分を意識的にどこまでも開示し、光のもとに晒していけばしあわせになれるのかと言えば、話がそう簡単ではないところに難しさがある。よく見えないうちはぼんやりふんわりとお互いを受け止められていたものが、近づくにつれより具体的にはっきりとした「違い」が見えてくる。そしてそれは、ときとしてお互いを傷つけたり、困惑させる原因になる。さらには、そのことによって関係性の継続ができなくなる場合すらある。

そんなひとだとは思わなかった

と言われて去られるときの苦しみは、あまりにも巨大なものである。

こうした苦しみを見たり体験したりするにつれ、私たちは自分を無防備に開示する痛みに耐えられなくなる。私たちはもはや裸で泣くことができる赤子ではない。そして周りにいるのは、自分を無条件に受け入れてくれる保護者ではない。さらに言えば、一般的には「保護者」と見なされる家族や親類でさえ、自分を無条件に受け入れてくれるわけではない。近ければ近いほど、知らず知らずのうちに「期待」(こうであってほしいという願望)という先入観(フィルター)を掛けてしまうからである。

だから私たちは、再び闇に同化することを望むようになる。それは「個性を消す」ということだが、その気になればそれほど難しいことではない。「他者と同じような存在」になればいいのだ。そうすればたとえ光に晒されていようとも、誰もあなたを気に留めない。同じような服装をし、同じようなことを発言し、同じような行動を採れば、そこから「あなた」は消えてなくなる。そして誰からも「当たり障りのない距離」を保っていれば、自分が傷つくことはかなり避けられる。少なくとも、誰かに自分を無防備に晒す苦しみは、もう経験しなくて済むだろう。

だが実際には、これでも問題はすべて解決するわけではない。こうして「他者に近付く苦しみ」を避けようとすればするほど、今度は逆に「他者と離れる苦しみ」が湧き上がってくるからである。あなたが周りに見せている「あなた」の姿が本当の姿ではないとすれば、それは

「誰がどんなに近くにいても、相手はあなたを見ていない」

ということである。そしてそれは、また巨大な苦しみを生み出す。それは私たちが心のどこかで必ず、

自分を受け止めてほしい。理解してほしい

という願いを持っているからだ。だからその願いが叶う可能性を断ち切ってしまえば、自分のなかに解消し得ないほどの苦しみが生まれるのは自然なことである。そしてそれは、私たちがこの世界に生まれてきた大きな理由のひとつなのだから。

そうなるとついに、私たちの前に逃れようのない事実が突きつけられる。それは

「他者に近付くことにも離れることにもそれぞれの苦しみがある」

という事実である。ではどうするか?それは私たちひとりひとりが自分に真摯に問いかけ続けるしかない。その結果今の私が掴んでいる答えは、

どちらもとても大きな苦しみだとしても、私にとっては他者と離れる苦しみのほうが勝る

ということである。だから私は、こうしてここにいて、自分で作ったこの『闇の向こう側』という場所で、あなたに向かってこれを書いているのである。これはいつも書いているように、

「私が体験しているものを共有している」

ということなのだが、これはつまり

私があなたに近付いて、私を開示している

ということに他ならない。この文章のひとつひとつには、確実に「私の一部」が入っている。だからそれがたとえ「文章」というとても限られた情報のように見えても、それを積み重ねれば重ねるほど、それは私について多くを語ることになる。そして一方で、あなたはこれを読むことで私の一部を取り込んでいるのだとも言える。ならばなおさら、私はあなたと離れることで多くの苦しみを得ることになるだろう。だから私は、迷いなくあなたと一緒にいようとする想いを持ち続けるのである。

個性というのは食べもの飲みもの、あるいは端的に酒のようなものだと思うことがある。クセの強い食べものや酒は嫌われることも多い。だがすべてが水になれるわけでもないし、なればいいということでもない。そして私はここで、自分のなかでも最もクセの強い部分を初めから開示しているのだ。だから、その意味ではとても気がラクだとも言える。そして同時に、私はあなたを受け止めたいし、理解したいとも思っている。私たちが闇のなかにいたときでさえ、実はそこに個性はあったのだ。あなたは存在を始めたその瞬間から、あなたであることをやめられない。それに、なんでもかんでも混ぜればいいということではないにしても、どんな食べものや素材であれ、組み合わせ次第でよりお互いを引き立てることができる。逆に言えば、すべてに合わせる必要もないのだ。主食になれないからと言って、その価値がないわけではないのだから。

私がここで見せているものが万人受けするようなものではないことは最初からわかっている。だがもしあなたにとって喜びとなるのなら、私もとても嬉しく思う。ただ、だからといって食べ過ぎや飲み過ぎになるほど無理をする必要はない。今受け取れるものと量だけ採っていけばいいのだ。それに、最も大切で贅沢なことは、それをゆっくり味わうことなのだから。