生と死を同時に感じながら、私たちは永遠に変化し続けていく

主に精神分析の世界で用いられる言葉に、「エロス」と「タナトス」というものがある。これは対になる概念であり、エロスは「生存本能」などと訳されるのに対し、タナトスは「死へ向かう本能」などと訳される。

なお、この「エロス」がもっと日常的な意味で用いられるときには、これは特にその「性愛」にまつわる部分が強調されることも多いが、これもそれほどおかしなことではない。なぜなら、精神分析の世界でもこのエロスは、エス(生へ向かう衝動)に変わり、それがリビドー(性衝動)に向かうと考えられているからだ。つまり単純に言えば、生存本能とは「他者と結びつこうとする欲求」なのである。そして突き詰めていけば、これは表面的な性差などを超えた、より根源的な欲求なのだと思う。

しかし一方で、私たちの精神にはこのようなエロスと対を成すタナトスというものがあると考えられている。これは先ほども言ったように「死へ向かう本能」などと言われるものだが、これは言い換えると、「死に魅きつけられる想い」ということだ。ではそれが私のなかにあるかと自問すれば、確かにあるのだとも思う。

そしてこの「エロスとタナトスが常に私たちのなかで相克し合っている」というのが精神分析のひとつの見かたなのだが、これは精神の領域だけでなく、肉体的視点から言ってもその通りだと感じる。普段私たちは、自分の意識が肉体のなかにある状態を「生きている」と言い、その精神が肉体から離れることを「死ぬ」と感じていることが多いかもしれない(さらに言うと、「精神が肉体の外にある」という状態を信じられないひとびとが多くいるのも確かだが、そのことはいったん措いておく)。しかしより細やかな視点で見てみると、私たちのからだは常に

「ある部分で『死』が発生していて、それを『新たな生』が塗り替える」

というシステムのなかにいることがわかる。これを「新陳代謝」と言い換えてもいい。つまり私たちは、いつも

「生と死を同時に体験している」

のである。

これはまた、「個人」の枠を超えたところでも当てはまる。実際、地球のあらゆる場所で、生と死は同時に起きている。もちろん、宇宙の星々の単位で考えても、生と死は同時に起きている。その最も身近なかたちが、「肉体」というもののなかでも起きているというだけだ。だから、

肉体が神(いのちのシステム)の雛形である

というのはまったく正しいのである。すべてのことは、根本的にはひとつのシステムの表れでしかないのだから。

ここまでを鑑みて言えることは、「生も死も自分のなかで同居している」という事実である。だからあとは、どちらに強く意識を向けるのか」ということに尽きる。つまり私たちは、「生きようと強く思えば生きていたくなるし、死のうと強く思えば死にたくもなる」ということなのだ。そしていつも言っているようにそこにはそれぞれの意志を誘導しようとしている多くの存在の影響があるのも確かだが、最終的には私たちひとりひとりの主体的な意志に委ねられている。だから私たちは、どちらの方向にも自分を向けることができるのだ。

しかしもちろん私たちが肉体に宿っている以上いつまでも同じ肉体とともに生きていられるわけではない。だからその「一生」には、必ず「死」が訪れるときが来る。しかしその「死」もまた、さらなる循環の一部なのだ。だから言ってみれば、「私たちは永遠に生きることもできない代わりに、ずっと死に続けることもできない」ということだ。これを「変化」と言う。だからあなたが今どんなに絶望しているとしても、あなたは死に留まっているわけにはいかないのだ。いのちの本質は「永遠の変化」にあるからだ。

私たちは常に流動している。しかしそれは極めて不安定なことでもある。だから私たちの「生存本能」(エロス)は切実に他者と結びつくことを求める。しかしそれはもちろん、いつもうまく行くとは限らない。というより、うまく行かないことのほうがずっと多い。そこで起こる「他者からの拒絶」というのは、決定的な「生存欲求の否定」だとも言える。だからそこに、「死への欲求」がやってくる。これはつまり、「私たちは他者とつながれないときに、死にたくなる」ということだ。だが死んでも、自分をどんなに殺したつもりでも死にきれないのだ!なぜなら私たちは生きているのだから。

このサイトの最初期に、私は

「心」という言葉の語源は「ころころ」変わるというところにあるという。なるほど、と思う。そしてまた、からだの調子も、日々変化する。「変化する」...

と書いた。

今もそうだが、自分のからだが痛みや様々な不調を訴えているときというのは、自分がまるで死に引き寄せられているような、魂ごと削り落とされていくような気持ちになることがある。それに先ほども書いたように、

他者とつながれないときに、死にたくなる

というのは私自身も実感的によくわかることだ。生存本能はあくまでも本能であって、生存そのものの素晴らしさを保証してくれるものではない。ましてや今のような社会のなかでは、生きる希望を見失ってしまうのもはるかに簡単だし、ある意味では合理的なようにすら思える。だから、私はあなたが今死にたくなっているとしても、それが特別におかしなことだとは思わない。

だが、「特別におかしなことだとは思わない」ということは、別にそれを勧めているわけではない。

そうなることがあるのもよく理解できる

と言っているだけで、「そうなってほしい」と言っているわけではない。先日言ったとおり、

このサイトの最初期の文章、 でも書いたように、闇は本質的に「全体性」(均質性)を持っている。そこではすべてが一体であり、自他の...

というのが、私の率直な想いだ。そしてこれは、とても深く切実な想いである。

では、今私が

なぜ私はこれほど切実な想いを持っているのだろう?

と自問するとどうなるだろう?なんのことはない、

ずっと、死を身近に感じてきたから

なのだ。これは必ずしも、私がいつも「死にたい」と思っていたということを意味しない。そうではなくて、単純に私はずっと、死をとても近しいものとして感じているのだ。そしてだからこそ、私は生きていたいと思うし、あなたと一緒にいたいと強く想っているのである。

私たちが生と死を同時に実感していながらまだ生きていられるのは、自分が独りではないからだ。しかしこんなに素朴で重要な事実を、私たちはときとして簡単に忘れてしまう。だからもし、あなたがそのことを忘れそうになったら、私があなたを呼ぼう。そして、一緒に永遠に変わり続けよう。私がここに生きているのは、ただそれだけのためなのだから。