「恒例行事」と言われるもののうちには、好いものもあるがそれだけではない。それは
「必ず来るとわかっているが避けられない危険」
というものが存在するということだ。ではその場合どう対応するのがいいのか?これは非常に重要な問題である。
もちろん危険というのは避けられるなら避けたいし、争っているより穏やかに過ごしているほうがいいというのは基本的に誰もが思っていることだと思う。それに、それが明らかに自分の不手際なのであれば、それを素直に認め、周りのひとたちに謝ったり、説明を加えて誤解を解くように努めたり、あるいは誰かに助言や協力を仰いだりすることも必要だし、重要なことだと思う。
ただそういった手を尽くしても、どうしても避けられない危険というものは存在する。特にそれが互いの「信念」にまつわることであり、相手が手段を選ばず、明確な敵意と計画を持って自分に向かってくるような場合がそうである。これは程度や種類に多少の違いがあるにせよ、誰でも経験することがあることなのではないかとも思う。なぜなら、世のなかのあらゆることには自分とは異なる「意志」や「理想」を保ったひとがいて、その「相手の想い」もまた、「自分の想い」と同じように、自分に影響をもたらすからである。
だから私も、この境遇に再び陥ったときにどのように対処すればいいのか、その度に真剣に考え続けてきた。そして前回は、少し趣向を変えてみた。それは「受け流す」という作戦である。これは
危険と悪意が迫っていることを充分に認識しながらも、それを意に介さずに生き、淡々と日々をこなしていこう
という作戦だった。だが結論から言えば、これはほぼ完全に失敗した。この原因は
両者の想いの深さの均衡を見誤った
ということにあったと思う。この「想いの深さ」とは、端的に言えば「力」である。そしてもしその両者の「力」に充分な差があったなら、たとえばこどもをあやすように、ぐずる赤子の気を逸らしながら自然に収まるのを待つように、相手の力を受け流すことができるだろう。
しかし自分と相手の力が拮抗しているなら、それはまた違う話になってくる。私は前回その認識が甘かった。そして「受け流す」という意識が強すぎたために、力が抜けすぎていたのである。これは言い換えると、
「意図的に正面ではなく側面を向けていた」
ようなものである。そして私は相手の力をいなすようなつもりでいたのだが、実際にはここに相手の全力をぶつけられた結果、踏ん張りもろくに利かないまま、ふっ飛ばされてしまったのである。
それでもそこからなんとか態勢を立て直し、からくも最終的に自分自身を護ることはできたものの、この体験はとても手痛いものだったし、あとわずかになにかが違っていただけでももっと深刻な結果を招いた可能性があり、私は心から反省した。そして今度は
私も本気でやっていることだが、相手も同じくらいの信念を保って本気でやっていることだ
という事実を改めて、もっと真剣に受け止めようと決意したのである。それが、去年のことだ。

だから今回は、私も最初から
受け流そう
本気で相手にするからつけあがるんじゃないか?
とか、そういう態度は一切採らずに、相手の全力を真正面から全力で受け止めようと思っている。そもそも、相手の信念が中途半端なものであるなら、相手との決着はもっと前についていたはずなのである。私が本気であるように、相手も本気なのだ。それはよくわかっているし、もう2度と見失いはしない。これはある意味では、「相手への最低限の敬意」でもある。
だが
「相手に最低限の敬意を保つ」
ということと、
「相手の要求を全面的に受け入れて従う」
ということとはまったく違う。まして、私は相手に潰される気はまったくない。ただ私と相手は違う「答え」を出しているのだ。別に私は今の私の答えに固執する気もないが、かといって腑に落ちない相手の<答え>に屈するつもりはない。私の答えは、私のいのちと魂を懸けて私が見出し、かけがえのない時間を遣って私なりに表現する。これが私の「答え」である。
私はあなたが前回からまた想いを深め、さらに力を蓄え、爪を研いできたのを知っている。だが、それは私も同じだ。私もあれからさらに体験を積み、想いを深め、あなたに潰されないだけの力を蓄えてきたつもりだ。それにあなたを受け止めるのは確かに私の役割であるとも思う。私はまだあなたが変われることを信じているし、あなたにもの言うこともできるからだ。私はあなたの部下ではないし、あなたを崇拝してもいない。ただ、あなたのことも大切に想っているからだ。
だから、かつてのあなたを否定したいあなたは、また必ず私に牙を向けてくるだろう。それは私にとって確かに脅威である。だが私はそれを予測している。そして油断なく準備したうえで、真正面から受け止める。それに、私の「予測」はそれで終わらない。あなたはきっと、いずれ変わることになるだろう。だから
「予測できるが避けられない危険」
とは、実は
「未来の喜びの種」
なのである。私はその変化と発芽を見届けるまでまだ死ぬ気はない。それに、過ぎ去らない嵐はないのだ。それがたとえあなたの心のなかに荒れ狂うものであったとしても、それが放っておけばあなた自身を呑み込むものだとしても、それを予測しているならなおさら、必ず対応できる。私はそれを信じている。私はあなた以上に、あなたを信じている。それが、私の答えである。

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