愛と憎しみはよく似ている。これは多くのひとが指摘することである。どちらも相手に対する関心に基づき、相手にはたらきかけようとする点においても共通している。だが愛は間違いなく私たちの持ち得る最も素晴らしい想い(エネルギー)であるのに対し、憎しみは私たちの持ち得る最も強い負の念である。そしてどちらも、そこから派生して多くのものを生み出す。ではこの相反するように見える2つの念がとても共通しているのだとしたら、その分岐点はいったい、どこにあるのだろうか?
この問いに対する今の私の答えを最も端的に述べれば
相手に対する攻撃性があるかどうかだ
と言える。つまり相手に対する攻撃性があるものが憎しみであり、なければそれは愛である。これは言いかたを換えると、
相手に対するいたわり、慈しみの気持ちがあるかどうかだ
とも言える。つまり相手に対するいたわりや慈しみがあるものが愛であり、なければそれは憎しみである。こう考えると、もはや愛と憎しみの間にこれ以外の違いはないのではないかと思えてくる。だとしたらこの1点だけが、愛と憎しみとを分けるただひとつの分岐点なのである。
ただ愛と憎しみは確かに両極にあるように見えるほど異なるものだが、やはりとても近しいものである。だから今は「分岐点」という表現を用いたが、実際にはこの2つはどの瞬間にでもお互いに転化する可能性を持っている。愛に攻撃性が加えられれば憎しみとなり、憎しみを慈しみが包み込めばそれは愛となるということだ。
ではこの「攻撃性」という言葉をもう少し深く掘り下げてみよう。するとこれは
自分の思いどおりになってほしい
というように言い換えられる。相手が自分の思いどおりにならない場合、無理やりにでも相手を変化させようとすれば相手を殺すしかない。この場合の「殺す」というのは
「思いどおりにならない相手を殺す」
という意味だ。ではなぜ思いどおりになってほしいのか?それは相手を愛しているからだ。だからやはり、愛と憎しみはとても近いのである。
だがそれが愛ならばどうなるか?実は愛のなかにも
相手に変わってほしい
という想いは含まれている。愛しているからこそ、ときには相手本人以上に、あなたは相手の潜在能力や、美しく愛おしい性質をよく知っている。そして相手の笑顔の素晴らしさや、秘めた力の大きさを知っている。だからそんな相手が病みに堕ちているなら、あなたは相手になんとかして変わってほしいと思うだろう。ここまでは、実のところ憎しみとそれほどの大差はないとすら言えるかもしれない。
しかし、先ほど言ったように愛には憎しみにない重要な性質がある。それが
「相手に対するいたわり、慈しみの念」
である。これによって愛は最も静かで、しかし最も力強い態度を手にする。それが
「相手が思いどおりにならなくても、その在りかたを受け止め、相手が変われることを信じ、見守り、待つ」
という姿勢である。これが、憎しみとはまったく違う結果をもたらす愛の最大の特質である。
私は以前

と書いた。そこで負の霊団がどういう思考・経路から私たちに入り込み、影響を与えていこうとするのかを考えていったのだが、結局のところ私は彼らの戦術の「核心」は2点にまとめられるものだと考えた。
それは、
「孤独にし、疑心暗鬼で潰し合わせ、無力感で自滅させる」
というものと、
「目先の損得を考えさせ、今すぐ見える結果がないと言い、捉えどころのない不安を保たせようとする」
というものだ。そしてこれが先ほど挙げた愛の最大の特質、
「相手が思いどおりにならなくても、その在りかたを受け止め、相手が変われることを信じ、見守り、待つ」
という姿勢の対極にあるものであることは、もはや明らかだと思う。
ではここで、少し視点を換えてみよう。それは、負の霊団(=曇り・穢れ・邪・魔)とはどうやって生まれるものなのかということだ。私はかつてこの『闇の向こう側』の最初期に

と書いて彼らを定義した。それは端的に言えば「喜びを失った状態(の存在)」という定義である。だがこれを踏まえて、今度はもう少し考えを進めてみよう。そうすると、彼らは「喜びを失った」のであって、決して「喜びを持っていなかった」わけではないということが言える。そしてもうひとつ重要なことは、
彼らは私たちに関心を保っている
という事実なのである。
もし彼らが私たちのことを心底
どうでもいい
と思っているのなら、無気力と無関心のなかで私たちに関わらずに生きることを選ぶはずだとは思わないだろうか?だが実際には、彼らは私たちを
喜ばせたくない。潰し合っていてほしい。自滅すればいいんだ
などと思いながら日々負の念を送り続けている。つまり彼らは、意図的に私たちに関わっている。彼らの根源にあるのは無関心ではなく、憎しみなのである。
ではなぜ彼らは憎しみを保つようになってしまったのか?その答えを端的に言えば、
彼らは待てなかった
のである。「相手が思いどおりにならなくても、その在りかたを受け止め、相手が変われることを信じ、見守り、待つ」ということができなくなってしまった。最初からそうだったわけではない。だがあるとき、ある時点で、彼らは「諦めてしまった」のである。だから彼らがかつて持っていた愛は憎しみへと転化し、彼らは負の霊(団)へと変質してしまったのである。そして彼らは、その愛の反動の憎しみによって私たちを潰そうとする。そしていずれそれが「狂気」へと至り、彼ら自身を呑み込むことになるのである。

それはとても、哀しいことだ。
こうして見ると、憎しみとは「歪んだ愛」であり、その根底には「相手への関心」があることははっきりとわかるのではないかと思う。愛と憎しみから「相手への関心」を抜くとそこにはもうなにもない。関心のない相手には、愛も憎しみも湧くことはない。すべての存在に関心を持てなくなったとき、この世界は意味を失うことになる。
しかし、いったん相手に関心を持ってしまったら、私たちの心は愛と憎しみの間で常に揺れ動くことになる。なぜなら他者とは自分の思い通りにならず、自分の想いにも気づいてくれず、相手自身の素晴らしさにすら気づいていないからだ。だがそこで、相手に対する攻撃性を持ってはいけない。それは底なしの罠である。しかしそれは非常に厄介なものでもある。だからこそ、憎しみが湧きそうになったら、自分自身にこう問いかけてみてほしい。
私はこのひとに、苦しんでほしいのか?消えてなくなってほしいのか?
と。あなたは本当はそんなことを思ってなどいないはずだ。あなたはただ、相手に少しでも心地好く、少しでも多くの喜びとともに、生きていてほしかったはずだ。だからあなたが思い出すべきことは、そして相手に伝えるべきことは、その想いなのである。相手はそれをすぐには受け止めてくれないかもしれない。それでも伝え続けることだ。そして諦めず、相手を信じ、自分の想いを深めながら、待ち続けることだ。それができれば、いずれ必ず相手にわかってもらえるときが来る。それは来世かもしれないし、それよりもっと先かもしれない。それでも必ず、相手もあなたも一緒により大きくて深い喜びを味わえるときが来る。このことは確実に保証されている。だからこそ私たちも変わり続けることができるのだ。なぜならこの愛こそが、この世界の最も根源にある、最も強いエネルギーなのだから。

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愛を拒否されたら、憎しみに変わるのはよくある事でしょうね。
愛憎劇というくらい。
ストーカー殺人などまさにそれ。
親子関係にはなかなか少ないが、他人の男女関係にはよくある。
みちみんさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、私としては、愛し合って慈しみあっていた相手と、一転して傷つけ合い憎み合うということほど、哀しいことはないと思っています。
にもかかわらずそんな事例がいくらでもあるというのが、この世界の病みを示しているとは思うのですが、だからこそ私自身も、
自分はいったい、なにがしたいのか?
ということを、いつも忘れずにいたいと思っています。
興味深く拝見させていただきました。
私自身も愛と憎しみの関係性については日頃から疑問を抱いているのですが
例えば私はゴキブリが大嫌いです、見たくもないしこの世から消えて欲しいとすら思っています。何が嫌いという訳ではなく全て嫌いです。 この感情は憎悪でしょうか?
よく巷で好きの反対は嫌いじゃなくて無関心という言葉を聞いたりしますが、この嫌いなゴキブリに例えた場合、私は確かに嫌いなのです。無関心ではいられません。
そう考えると好き、嫌い、ということと関心は純粋に愛憎という括りでは考えられないのではないかと思うのです。
人ではない生き物を引き合いにだして感情の考察を始める事がすでにズレているのかもしれませんが、是非意見を伺ってみたかったので拙いながらもコメントさせていただきました。
白熊さん、ようこそ、闇の向こう側へ。
そうですね、そうした場合には、
なぜ、ゴキブリがそれほど嫌いなのか?
ということを考えてみるといいと思います。そしてもちろん
というのは、紛れもない「攻撃性」だと言えると思います。
だとしたら、なぜゴキブリに攻撃的になる必要があるでしょうか?
ここでの主眼は私に答えることではなくて自問自答することです。
自分に問いかけてみるだけでも、少なからぬ意味を持つことだと、私は確信しています。