あなたも必ず真実を理解できるようになる。だから、その歩みを止めないでほしい

私たちは心のどこかでは必ず、

真実を理解したい

と思って生きている。もちろん、それぞれにその強弱はあるかもしれないが、この想いは私たちの奥底に流れる共通した想いである。そしてそれは私たちが「考えたり、情報を集めたりしている」ということからも明らかなことである。

もし真実を知りたくないなら、なにも考える必要はない。どんな情報も集める必要はない。ただ「社会の流れ」と「多数派(あるいは周りのひとたち)の意見」に従っていれば、それでなんとなくは生きていける。そして、遅かれ早かれいずれ必ず死ぬ。ただそれだけのことである。

だが私たちは、それだけでは決して満足しない。なぜなら、真実を知りたいからだ。だから私たちは自分で懸命に考える。そしていろいろなところから、多種多様な情報を集めては、懸命に吟味して、取捨選択して、自分のただ1回限りの人生に活かそうとする。そして、しあわせになろうとする。この衝動は、たとえ自殺寸前のひとであっても、必ず持っている。そうでなければ、なぜあなたは、睡眠時間を削ってまで、1秒の腹の足しになるわけでもない、こんな文章を読んでいるのか?だから私たちはやはり、真実を知りたいのだ。もちろん、私もそうだ。

だがそこでいろいろな情報や意見を集め、真実を追究しようとすると、必ず突き当たる巨大な壁がある。それが、

「あまりにも、それぞれの情報に違いがありすぎる」

というものだ。

霊はいるのか、いないのか?

肉食は人間(の健康)にとって必要なのか、害なのか?

生まれてきたのは喜びなのか、罰なのか?

そもそもこの世界は本当に存在しているのか、それともすべては脳が生み出す仮想現実(夢)なのか?

こんな基本的なことですら、あまりにも多種多様な意見があって、相互に矛盾・対立している。そして当然のことながら、そのそれぞれに「根拠」が提示されていて、「実践者」も存在する。その頑とした現実の前に、私たちは打ちひしがれる。そしてこう思ってしまう。

私には、真実を知ることなどできないんだ……

そして結局のところ、「常識」(多数派の意見)とされるものを軸として生きることを選んでしまう。たとえそれが、

なにかがおかしい

とうすうす感じられるものであったとしても、である。

そしてそこには、多数派だけでなく「少数派の問題」も同時に存在する。「多数派が間違っている」ということが、そのまま「少数派が正しい」ということを意味するわけではない。それに、表面的には「少数派」と見せていても、それが結局のところ

「かたちを変えた多数派」

でしかないことに気付いてしまうことも多い。こうしたことが、私たちを絶望に誘う。水に砂糖とカフェインを混ぜたものを「強壮剤」(エナジードリンク)として数百円で大量にばらまくのと、紙に少し絵を書いたものを「幸運を呼ぶ限定アイテム」として数万円で販売するのとの間に、いったいどれだけの違いがあると言うのだろうか?

だから私たちは、これだけ強く真実を知りたいと思っているのに、真実を知ることを諦めてしまう。さらには、そもそも「『真実を知りたい』と思っていたこと」そのものさえも、心の奥底に封じてしまうのである。これはある意味では、しかたのない部分もある。だからこそ、みんなこのようにして騙し騙し生きているのだ。

だが、本当にそれでいいのだろうか?あなたは本当に、それで満足なのだろうか?確かに、知るというのは恐ろしいことだ。知ってしまえば、

知らなかった

では済まされないからだ。それにその圧倒的な「力」は、遣いかたを誤ると自らの身を滅ぼしてしまうかもしれない。

「力には、責任が伴う」

からだ。ときには

こんなことなら、知らないほうがよかった

と思ってしまいそうになることもあるかもしれない。だってあまりにも、今の世界は真実からかけ離れているから。だからそのなかでは、嘘が「真実」に成り代わっているから。そして私たちは、そんな世界のなかで、今まさに生きているから。だからそれでも真実を知ろうというのは、覚悟が必要だとしか言いようがないのである。

だから私は今までも、特に「霊媒師」という立場から、

手っ取り早く霊的な真実を知りたい!

あなたのように霊能力を得て、不思議なことをたくさん体験してみたい!

というようなひとに対していったん強く自省を促す意味を込めて、

あなたは、「霊能力者」になりたいと思ったことがあるだろうか? ただひとくちに「霊能力」と言ってもそこからなにを連想するかはひとによって様々だ...
先日あるひとから、 自分の守護霊と自分の力で対話できるようになりたいのですが、どうすればいいのでしょうか? という相談のメールを...

といったことを何度も伝えてきた。これは私が「特別な力を独占したいから」ではない。ただ

「力を持つということは、嬉しいことばかりではない」

ということを、骨身に染みて知っているからなのだ。

だがそれでも、私たちはその覚悟さえあれば、誰でも真実を知り、追究し続ける権利がある。「真実を知ることができない」(許されていない)のではないのだ。ただ単に、

「真実を知り、追究し続けるのは、そしてそのことを自分の人生に活かすのは、とても難しい」

というだけなのだ。なぜなら、

「真実を知ってしまったら、そしてそれを表現して生きようと思えば思うほど、あなたは根底から、大きく変化せざるを得ないから」

だ。食べものも、住む場所も、言動も行動も仕事(の取り組みかた)も、自他への接しかたもすべてだ。真実とは、それだけの力を持つものなのである。だからそれを「毒」ではなく「薬」として受け取るには、それだけの「準備と覚悟」が必要なのである。

だが、こうまで言ってもひるまないあなたは、きっとそんな覚悟はもうとうにできているのだろう。その気持ちは、私と同じものだ。だからそんなあなたは、真実を知る権利がある。だからその気持ちを押し込めないでほしい。どうかその道を、そのまま進んでいってほしい。そしてその想いを深く刻み込み、世界に伝えるために、何度でも何度でも、こう宣言して、言い聴かせてみてほしい。

 

私は、真実を知りたい

嘘や思い込みや勘違いではなく、時代の刷り込みや誤りでもなく、歪んだ解釈や薄っぺらなごまかしでもなく

私は、真実を知りたい

 

自分が何者かわからないまま生きるのは苦しいから

誰に見守られているかも知らずに孤独に逃げるのはやめたいから

なにをしてきたのかもわからずに人生を終えるのは哀しいから

堂々巡りを繰り返すのはもう終わりにしたいから

だから私は、真実を知りたい

 

どうか私に真実をわかるように教えてください、導いてください

どんなことでもそれが真実であるなら 私は受け入れるから

私は偽りの幻想でも刹那の甘美な泡でもない、真の喜びのなかに生きていたい

そしてそれを表現し、育み、伝え拡げる者でありたい

だから私に真実を教えてください

 

真の私を知るために

苦を糧にして花咲かすため

誠の喜びを味わうため

魂を成長させるため

私は、真実を知りたい

私は、真実を知りたい

 

私は今も、真実を追究し続けている。もちろんその過程をずっとここに書いているのだし、あなたが私を受け入れ、検証し、活かしてくれるのはとてもありがたい。だがそれでも、自分の実体験に勝るものがないのも事実である。だからそのためにこそ、私もあなたも今こうして生きているのである。だからその歩みを、止めないでほしい。休んでもいい。力を蓄える時期も必要だ。だが決して、諦めないでほしい。あなたは独りではない。少なくとも私はここにいる。そしてあなたの存在を、いつも心強く思っている。バラバラのピースはもうすぐつながり始める。それなのにここでやめてしまうのは、あまりにももったいない。私が言いたいのはそれだけだ。そして私は、あなたに出逢えたことを、とても嬉しく思っている。

コメント

  1. だれか より:

    私は物心ついた時から、「見る、知る」という事に喜びを感じて生きてきました。

    私の父は本当に優しい人間でした。父は繊細な霊媒でした。

    彼は真実を知りたがっていました。私もまあ霊媒ですから、あらゆる事を全て視て受け止めたいと思っていました。

    しかし「霊媒、人間、病人」として弱っていく父を見て、この日本の惨状を見ている内に私は恐怖に負けてしまうようになりました。「真実を視る事、真実を知る事」は怖いのです。私は何も知らない方が良かったのかもしれない。歩みを止めれば、人も霊も停滞してしまう。

    けれど私は、今、止まる事を選びました。この世界は酷すぎます。見るに耐えません。もう失明してしまいたいです。私は父をここまで苦しめたこの世界を許さないし、もう何も見たくないのです。

    真実を視る事、知る事。それだけが幸せなのでしょうか?目を背ければ幸せになれないのでしょうか?

    • Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      真実を視る事、知る事。それだけが幸せなのでしょうか?

      それ「だけ」がしあわせなのかと言われれば、もちろんそんなことはないでしょう。

      ただあなたが

      物心ついた時から、「見る、知る」という事に喜びを感じて生きてきました

      とおっしゃるのであれば、私はそんなあなたらしい喜びを追求することを、少なくとも

      「恐怖に負ける」

      などというかたちでは、諦めてほしくないと思っています。

      ただ、私はここにも何度も書いてきたように、

      すべてを深く理解したい

      と想いを核心に保つ魂でもあるので、その意味であなたと近しい部分も大きいのだろうとは思います。

      ですからそんな私としては、せっかくですからあなたには、もう少し深く掘り下げた話をしてみようかと思います。

      それは、

      見る・知る・理解する……というのは、いったいなんのためなのか?

      という話についてです。

      あなたもご存知の通り、自分にとって最も深い想い・切実な願いというのがいったいなんなのかというのは千差万別であり、なかにはたとえば

      素晴らしいものを生み出したい!

      強くなりたい!

      などそれはそれはたくさんあるわけです。するとときどきそんな霊から、

      お前はいいよなぁ!だって「理解したい・見たい・知りたい」なんていうのはさ、ただ存在しているだけで、自動的に叶うんだから!

      などと言われることがあります。しかしあなたにもきっとおわかりいただけると思うのですが、本当にはそんなのはまったく浅すぎる話であって、

      いやいや、「どうしても理解したい、理解しないわけにはいかない」と思ってしまうこと、しかもどんな気持ちよりも強く深くそう思わずにはいられないことの切実さを、甘く見られちゃ困るよ?

      と、私としては言いたくなるわけです。

      つまり、私がなぜ理解したいと思うのかと言えば、それは決して

      研究したい!分析したい!

      というようなものに留まるものではなくて、

      この世界を、もっと素晴らしいものに変えたい!愛するひとがもっと穏やかに、笑って暮らせる世界にしたい!そのために、現状も過去も含めて、そのために活かすありとあらゆる要素を、誰よりも深く理解したいし、理解しなければいけない!

      と思っているからなのです。そしてそれは、多少の表現の違いはあれど、あなたにもきっと共通しているものだと、私は思うのです。

      「真実を視る事、真実を知る事」は怖いのです

      とおっしゃるのも、当然のことだろうとは思います。だからこそ、

      昨日、私はかなり強力な霊と対峙していた。だからその記憶が少しでも鮮明なうちに、ここに記録しておこうと思う。彼は闘いのなかで、とても多くのこと...

      ということなのでしょう。ただそれでも、本当に本当の意味では、

      私は何も知らない方が良かった

      などということはあり得ないと、私は思います。

      なぜなら私はかつて、本当になにも知らなかったからです。自分がどこにいるのかも、自分がなにをすればいいのかも、どこに誰がいるのかも、自分の味方がいるのか、自分が愛されることなどあり得るのかも、なにひとつ知らなかったからです。私は、そのときに最も強烈な恐怖を感じていました。もっと言えば、自分が恐怖を感じていることさえ知りませんでした。なぜなら、それを感じてもいいということ、そしてそれを感じてもなお生きられる可能性があることさえ、知らなかったからです。

      そのときの私が、どれだけ脆く、禍々しく、痛々しく苦々しい存在であったかは、私自身でさえ伝えきれません。そしてだからこそ、私はなによりも切実に、

      すべてを、あらゆることを、深く深く理解したい。どうしても、理解しないわけにはいかない

      と、思うようになったのです。

      新しいことを知ることは、「自分がまだまだなにも知らなかったことを知ること」は、本当に怖いことでしょう。ですがそれ以上に、「なにも知らない」というのは、このうえなく怖いことではないでしょうか?あなたも、本当はそう思っていらっしゃったから、今までそのように生き、それを喜びとして受け取ることができたと、そういうことではないのでしょうか?

      そしてもし、あなたが私と

      「同族」

      だとするのなら、あなたの参考のため、もうひとつ私なりの見解を提示します。それは、

      なぜそうまでして見たい・知りたい・理解したいと思うのかと言えば、それは大切なひとを護るためだ

      ということです。

      本当は、なにも知らず、誰よりも弱く脆く、ちいさく繊細な存在が、すべてに眼を背け続けたとしてもなお、自動的に自然にしあわせに生きられる世界こそが理想でしょう。これは間違いないですし、この理想を棄てる気は、私には決してありません。

      ただあなたもおっしゃるとおり、現状はまだそこには程遠いものだと思います。だとすれば、そのような

      「なにも知らず、誰よりも弱く脆く、ちいさく繊細な存在」

      を護りたければ、できるだけあらゆることを理解し、強くしぶとく大きな存在になるしかありません。少なくとも、自分の愛する存在に害を為そうとする存在よりは、なんとしてでも上回らなければいけないのです。

      ですからもし、あなたが大切に想う存在、それがたとえばお父様なのであれば、そのお父様に護られるだけでなく、お父様を護れる存在になるためにこそ、あなたは真実を見、知る必要があるのだろうと、私は思います。

      それに本当はあなたもお気づきだろうと思いますが、これは

      もう失明してしまいたいです

      と言ってみたくらいでどうにかなるものではないでしょう。たとえ目がなくても、それなら耳からでも、手でも指でも唇でさえ、それにそもそも心ひとつで、その気になればなんでも視ることができるのが私たちです。わざわざ

      「視る」

      という字を当てられるあなたなら、その本質はもう理解されているはずです。ですからあなたが本当にすべてを遮断したいなら、あなたそのものを消滅させる以外にはありません。ですがそんなことは誰にもできないのですから、私たちは否応なしに、世界を理解せざるを得ないということです。

      そしてそうであるのなら、せめてそこに喜びと意志を添え続けたいというのが私であり、もしあなたが私の同族であるならきっとあなたもそうであるはずだと、私は思うのです。

      それに、今のあなたは

      私は父をここまで苦しめたこの世界を許さない

      などとおっしゃいますが、そんな想いから来る力では、世界を壊すこともできないでしょう。本当に大胆で強力な行為というのは、最も冷静で、淡々と研ぎ澄まされた気持ちで行われるものです。ですからもし本当に世界のすべてを破壊できる存在がいるとしたら、それはきっとローソクの火を吹き消すような気持ちで、さも自然なことのように為されることでしょう。実際、壊れるときは実に単純に、

      「壊れるべきものが自然に壊れる」

      という、それだけのことなのです。逆にもしそこに無理があったら、

      「無理に壊されたものは、いずれより強くしなやかになって復活する」

      というだけです。

      ですから、私としてはあなたにも、「許さない」ではなくて、

      「気に入らない」

      と言い換えることをおすすめします。これは

      「客観的な正義」

      によるものでは決してなくて、どこまで行っても

      「主観的な、しかし切実な、好み」

      の話であるからです。そしてだからこそ、私たちはこんなに強く大きくなることもできるということだからです。

      それに誰より私自身が今の世界をどうしても気に入らないので、私が私の意志と力により、これを私にとって望ましいもの、気に入るものに変えようと思っています。私にとって

      「理解」

      というのは、このように活かすものだからです。理解すること、力を得ることが本当に大変なことだからこそ、それを乗り越えた先には、このくらいしたっていいはずです。私はそう思っているし、だからこそ、世界は間違いなくもっともっと素晴らしくできるはずだと、そう確信しているのです。

      と、いろいろと書いてしまいましたが、どうかご理解いただければと思います。それに遅かれ早かれ、こんなことはあなたにはきっと理解できることだと思います。

      ですからどうか、諦めないでください。どうぞよろしくお願いします。