苦しみは次々にやってくる。だからこそそれに浸らず、少しずつでも抜いていく

私たちはあらゆることで苦しむことができる。愛によっても苦しみ、憎しみによっても苦しみ、喜びによっても苦しみ、怒りによっても苦しむ。真実によって苦しみ、嘘によって苦しみ、思いやりによって苦しみ、無関心によっても苦しむ。別れによっても苦しみ、出会いによっても苦しむ。成功によって苦しみ、失敗によっても苦しみ、生きることによって苦しみ、死ぬことによっても苦しむ。だから私たちは、苦しみを避けることができないと考えてもいいだろうと思う。

だがだからこそ、私たちは「苦しみの扱い」を学び続けなければならない。今のような世界(社会)で生きているならなおさら、苦しむことは避けられないかもしれない。だがそれでも私たちは

「苦しみに潰されるわけにはいかないから」

である。そして言うまでもなく、それは絶望につながり、最終的には自殺へと誘う。それにもちろんそれは、

「負の霊団の思惑どおりになる」

ということでもある。だからそんなことは、なんとしても避けたいと私も思う。

だが率直に言って、私は完全に苦しみを避けられたことがない。そして特にここ数か月、数週間、さらにここ数日は、とても大きな苦しみを体験した。ただ今まで5年に亘ってずっとここに残してある記録を見てもらえればあなたにも明らかなように、私にとってこのような「苦しみの波」は何度も何度も何度も経験してきたものではあるのだが、それでも今回のそれも、相当な激しさを伴っていた。「苦しみに慣れる」などというのは、少なくとも私自身にとっては、事実上無理なようである。

それでも何度も言うように、私は別に苦しみに潰されたい(呑み込まれたい)わけではないのだ。それに私は、まだ生きていたい。自殺など、まったくしたいと思わない。たとえ今考えるとそうするしかないとすら思えないような、つらい事態が起きたとしても、である。

だとしたら、私はどういう態度でいたらいいのだろうか?今の私の答えは、

苦しみを受けたとしても、それに浸らず、どんなに少しずつわずかずつでも、苦しみを抜いていく

というものである。

苦しみは次から次へとやってくる。しかしそれをただ無防備に受け続け、そこに浸り続けていると、もちろんそこには負の霊団による増幅効果も相まって、確実にそれに蝕まれてしまうことになる。しかもそれは単なる液体よりももっと強い「粘性」を持っているから、時間が立てば立つほどそれは深く深くまとわりつき、私たちの気力ごと呑み込んで、

抜け出す手立てを考えることすらできない……

というところまで染み込んでくる。実際にはここまで来てもまだ完全に手詰まりなわけではないのだが、それでもかなり深刻な状況なのは確かだ。だから、このまさに「悪循環」に組み込まれてしまう前に、

せめてほんの少しほんのわずかでも、この苦しみを抜いていこう

と思っておくことは、とても大切なことだと、私は思う。

ではその具体的な方法を考えたとき、たとえば私が過去に書いた

考えがまとまらない。イライラする。周囲の眼が自分に刺さってくる。音がやたらとうるさく感じられる。からだがだるい。こんな「症状」は、現代ではあ...
先日、と書いた。そこで書かれたようなことは誰にとっても切実なことなのだが、いちばん大切なのはそれにどう対処するか? ...

などを活かしてもらうのもいいだろうと思う。実際私もいつも、この方法を実践し続けている。そのうえでここにもうひとつ単純な方法を付け加えたいと思う。それは

「ガッツポーズ(喜びのポーズ)をする」

というものである。これはつまり

「天に向かって高らかに手を突き上げる」

というもので、一般的には「勝利のポーズ」としても知られているものだが、ではこれはなにに対する「勝利」(喜び)なのだろう?それは

「苦しみを乗り越えることができたことに対する喜び(勝利宣言)」

ではない。それはまだ来ていないのだから。

そうではなくて、これは

こんな大きな苦しみのなかでも、私は今も生きているぞ!

ということへの喜びの表現なのだ。そしてこれはある意味では

「負の霊団(苦しみ)に対する勝利宣言」

だとも言える。そして勝利宣言が本気でできたら、もうその瞬間に勝ち始めているのである。

だから朝目覚めたその瞬間に

こんなに苦しいのに、今日も私は目覚めたぞ!

とガッツポーズをしてみたらいい。

そして夜布団に入るそのときに

こんなに苦しいのに、今日も無事に生き延びたぞ!

と言ってガッツポーズをしてみたらいい。

ではもし、その日の夜を迎えられずに死んでしまったら?

こんなに苦しかったのに、自殺せずに最期まで生き抜いたぞ!

と言ってガッツポーズをしてやればいいのだ。そう、あなたは確かに、彼らに、そして自分自身の病みに、打ち克ったのである。

もちろん、これに加えて

より喜びの大きな未来を想い描き、その実現に向かって少しでもできることをしよう

と思えるようになったら、それは素晴らしいことだ。だがそうでなくても、せめて

「最低限の勝利(喜び)を噛みしめる」

ことができてさえいれば、それだけでもまずは充分なのである。

だが、それすらもできないこともあるだろう。私にもあったし、これからもあるかもしれない。だったらそんなときは、「とっておきの秘策」を遣えばいい。それは

この苦しみによって「古い(過去の)自分」を殺し、「新しい(未来の)自分」を活かす(=自分を生まれ変わらせる)

という意志を持つことである。そう、苦しみを逆利用して変わることができたら、それはもはや苦しみではなく、「喜びの糧」になったのである。そうしたらその瞬間から、新しい日々が始まっていく。未来は、これからだ。

コメント

  1. 小山 より:

    今日の記事、ありがとうございました。

    感謝するという事の側面というテーマの一つの答えのようでした。

    感謝の側面に、他者に対する優越が潜んでいるのであれば

    天に向かってガッツポーズというのは、まさに誰とも比べない

    主体は自分にあるという感謝の形なんでしょうね。

    苦しみに浸る

    物凄く簡単で魅力的、でも主体的ではないですよね

    今日もありがとうございます。

    • Dilettante より:

      小山さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      なるほど、この文章と

      「感謝する」という行為ほど、ひとびとに賞賛されているものはない。感謝するということは、それまで当たり前だと思っていたことの価値に気付...

      がつながっているということですね。確かにそう言えると思います。

      私自身よりも深く読み込んでくださって、ありがとうございます。

      そしてお互いに主体性を手離さずに、しかし支え合いながら、少しでも喜び多い未来を創っていきましょうね。

      よろしくお願いします。

  2. リヨン より:

    リアルタイムで響きました。今、私は苦しみの最中にいます。いつでもいかなる時でも穏やかな心でいるように努めようと決意した瞬間から、これでもかこれでもかと負の感情、環境が襲ってきました。今日は最後の最後に穏やかな心を奪われましたが、明日はまた頑張れるようにガッツポーズをします。

    • Dilettante より:

      リヨンさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      少しでもあなたの力になる文章を届けられてよかったです。

      その喜びを噛み締めながら、私もガッツポーズをしたいと思います。

      そして私もあなたの穏やかなしあわせを、心から願っています。

  3. 充電 より:

    苦しみは必然で、そこから喜びを見出だすことに意味があり

    困難の多い人生ほど

    しあわせ…?

    • Dilettante より:

      充電さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      もちろん私たちは「苦しむため」に生まれてきたわけではありませんが、

      「苦しみを解消して、喜びあふれる世界を創るため」

      に生まれてきたとは言えると思います。

      そしてそのうえで私たちは「この時代」が持っている意味を知って生まれてきたわけですから、その意味で

      「苦しむ覚悟はしてきた」

      のも確かだと思います。もちろん、私もです。

      ですがかといって私は「苦しみに潰されるため」に生まれてきたわけではないです。

      ですから少しでも早く私自身の、そして社会の苦しみを抜いて、

      「もっと素直に喜び続けられる世界」

      を創り、あなたとも一緒に、しあわせになっていきたいと、そう思っています。

      • 充電 より:

        どう解消するのかがわからない
        何度も何度も干渉され憎しみを植え付けられている
        ただ選ばなければいいんだろうか
        こんなにも干渉するなんて、嫌われてるのか好かれてるのかわからなくなる

        • Dilettante より:

          そうですね、「干渉する」というのは、好意による場合も悪意による場合も両方あるとは思います。

          ただ根本的に共通しているのは、

          「相手(あなた)に影響を与えようとしている」

          もっと直接的に言えば

          「相手(あなた)を操ろうとしている」

          という要素が、確かにあるのだろうと思います。

          そしてだからこそ、私も自分の「主体性」(人生の決定権)を持っていることを忘れずに、それを手放さずに、歩んでいきたいと思います。