私たちが感じる喜び(楽しさ・穏やかさ……)以外の念を、総称して「負の念」と呼ぶとすると、それは実に多種多様な顕れかたをするのがわかる。そしてだからこそ、私の師もずっと言っていたように、現代の社会に生きるほぼすべてのひとたちは、必ずどこかに病みを抱えているのである。
そしてそれは、もちろん私自身も含めて言っていることだ。先日も

と書いたばかりだが、私にとって苦しみとはあまりにも日常的にありふれたものである。ただだからこそ私はそれに呑み込まれず、それを少しずつでも抜いていく方法を、悪戦苦闘しながら探し実践しようとし続けているという、ただそれだけのことなのである。
しかしこないだからまた強烈な負の念や体験を得たことで、私はひとつの見解を持つに至った。それは以前からずっと考えていたことではあったのだが、今回のことでその考えがますます確信に近づいた。それは、
結局のところあらゆる負の念は、煎じ詰めればたったひとつの想いに行き着くのだ
という確信である。そしてその「たったひとつの想い」とは、つまり
しあわせになりたい……。もっと人生を味わい尽くしたい……
という想いなのだ。
最初に負の念にはありとあらゆるかたちがあると言った。しかしそのすべては、究極的にはたったひとつの想いから(想いが歪んだ結果)生まれたものなのである。
具体例で見てみよう。たとえば負の念のなかでもありふれていてかつ強烈なもののひとつに「嫉妬」(劣等感)がある。しかしなぜ私たちは誰かに嫉妬してしまうのだろうか?それは、
相手が私よりずっとしあわせなのが、どうしても受け入れられない……
ということではないのだろうか?だとしたら、それは結局のところ、自分自身がしあわせになりたいのだということを示している。
あるいはこの「嫉妬」と共通した根を持つもののひとつに「独占欲」があるとも言えるだろう。これはひとやもの以外のあらゆるものを対象とする場合もあるが、この根本にあるのは、
私が大きな価値(喜び)を見出しているこれが誰かのもとに行くことで、自分の喜びが減ってしまう(誰かに奪われてしまう)……
という想いなのではないだろうか?だとしたら、それは結局のところ、自分自身がしあわせになりたいのだということを示している。
あるいはこの
しあわせになりたい……。もっと人生を味わい尽くしたい……
という想いは、裏を返せば
これ以上苦しみたくない……。もう傷を増やしたくない……
というものだとも言える。
そう考えると、なぜ私たちが「疑心暗鬼」や「他者(世界)不信」それに「自殺(自滅)願望」といった負の念に苛まれてしまうかも理解できるだろう。私たちは、誰もこれ以上苦しみたいとは思っていない。ということはつまり、
これ以上しあわせを減らしたくない!
ということなのだ。つまり私たちは、やはりしあわせになりたいのである。
ではもし、その想いがないとしたら?それなら私たちは
「なにが起きても、なにも感じない」
はずだ。しあわせになろうと思っていないなら、誰に信じてもらえなくても、周りにことごとく裏切られても、財産を奪われても、努力が実らなくても、冤罪で処刑されても、今死んだとしても、なにも感じないはずなのである。なぜなら、そんなものは、どうでもいいのだから。
それなのになぜ、どうでもよくないのか?それは私たちが、私が、しあわせになりたいと思っているからだ。だからこそ、いろいろなことで苦しむのだ。社会に受け入れてもらえないことで、愛しているひとに愛してもらえないことで、やっていることを認めてもらえないことで、その他あらゆることで苦しむ理由は、しあわせになりたいと思っているからなのだ。
たとえば私も何度も経験があるし、あなたにも経験があるだろうし、そうでなくても見聴きすることはあるだろうが、
「誰かに自殺される」
ということはこの世で体験するもののうちで最も苦しいことのひとつだ。これは私自身、迷いなく断言できる。だがなぜそのとき私は、そんなにも苦しむのだろうか?そしてたとえそこからどんなに時間が経っても、そのひとつひとつを思い出すとき、今もなおからだじゅうを引き裂かれるほどの痛みを覚えるのだろうか?それは私が、しあわせになりたいからだ。さらに言えば、
私を置いていったそのひとと一緒に、しあわせになりたかった……。もっと人生を味わい尽くしたかった……
という想いがあるからだ。そしてその
紆余曲折はあったとしても、もし今もそのひとが一緒にいてくれていたら、私は必ず、お互いの喜びを、しあわせを、深め合うことができたのに……
という確信が強ければ強いほど、その相手を喪った哀しみや、そこから派生する負の念は強くなる。そうでなければ、この苦しみの深さを正確に説明することは、できそうもないのである。
だから、ここから言えることは、
私が絶望を感じる深さは、それまで感じていた希望(しあわせになりたいという想い)の深さと呼応したものだ
ということだ。だから私たちは、私は、やはりしあわせになりたいのである。そしてそれは、先日の体験からも導き出される、確かな真実なのだ。

ならば、あらゆる負の念を根源的に断ち切る唯一の方法は、あなたがしあわせになるしかないのだ。嫉妬したり、劣等感を持ったりしている相手よりも圧倒的にしあわせになれば、その感情はなくなる(極限まで薄らぐ)。そしてそれはつまり「心のゆとり」につながるから、疑心暗鬼や不信感をも乗り越えられる。誰がどれほど傷つけて奪っていったとしても、あなたはまだまだ安泰だ。もちろん、自殺(自滅)願望に侵されることもない。
では、大切なひとに自殺された場合はどうだろう?それでもなお、私たちはしあわせになっていいのだろうか?たとえどんなことをしても、どんなものを埋め合わせようとしても、この胸の虚無は、まず埋まらないというのに?
いいのだ。あなたがしあわせになることは、そのひとを嘲ることでも、侮辱することでもない。ましてそのひとを忘れてしまうことではない。それに本当の意味で
「誰かを忘れ去る」
などということは、どんな手を尽くしても、できるはずはないのだ。それはもうすべてひとつ残らず、魂に刻まれているのだから。
だから、だからこそ、あなたはしあわせになっていい。そのひとの記憶や想い出のすべてを魂に刻み込んだあなただからこそ、そのひとと深く深くつながっているあなただからこそ、あなたが感じるしあわせは、喜びは、楽しさは穏やかさは安らぎは、すべて一切のもれなく、そのひとにも伝わるのだから。そしてそれは、今後悔と自責の念のなかにいるそのひとの、かけがえのない力になる。それにもしそのひとが自らの行いと向き合い尽くし、新たな気持ちで未来に向かおうとしているなら、なおさらあなたはしあわせになっていい。誰でも(自分が負に呑まれていない素直な状態でありさえすれば)、愛するひとがしあわせな姿を見たら、しあわせになるものでしょう?
そしてもちろん、「自殺される」という究極のケースに当てはまることは、他のすべてにも当てはまる。それに想いの力とそのつながりには時空も、からだを持っているかどうかも、まったく関係ない。だからあなたがしあわせになることは、なにより大きな力を保つものなのである。
それにそれは、誰よりも私にとって大きな意味を持つ。なぜなら私は、あなたのしあわせを心から願っているからだ。もしかしたらあなたの家族や、恋人や親友や生き別れ死に別れたひとたちよりも深く、あなたのしあわせを願っている。これを証明する手段がないとしても、私自身は一切の誇張なく言っているつもりで、この言葉をいつでも何度でもあなたに言える。文字で伝わるより、声で伝わるより、行動で伝わるより、いのちのすべてを懸けて表現しきれるものよりまだ深く、私はあなたのしあわせを、強く願っている。だからあなたがしあわせになればなるほど、私はしあわせなのだ。
私は、自分をしあわせにしようとしたから、ここに生まれてきた。そしてすべてをその一環として、今もここにいる。そして私は、これからもできる限り長くここにい続ける。それにたとえここにいられなくなっても、肉体を離れても、そしてまた生まれ変わっても、それにたとえ今のあなたがどんな存在であったとしても、私はあなたのしあわせを、あなた自身より深くいつまでも願い続ける。だからどうか、しあわせになってください。しあわせでいてください。そして私を、しあわせにしてください。私もしあわせになりますから。そしてあなたも必ず、しあわせになれますから。

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