どう「意味づける」かはあとでいい。まずは真実を理解したい

現代社会とは、「高度情報化社会」である。これは私たちが通常把握している歴史のなかで、今が最も進んでいるとも言える。だから実際、私たちの周りには途方もないほどの情報が、いつもあふれている。そして私たちはその情報に基づいて、世界を「認識」している。

しかしさらにもう少し深く掘り下げてみると、私たちは自分の身の回りにあふれるあまりにも多すぎる情報を、本当には自分で処理してなどほとんどないことに気づく。それは、いわゆる「感覚器」の情報処理だけに限らない。あらゆる文化的・精神的分野においても、私たちはある「情報」を処理し、結びつけられたあとの「意味付け」(解釈)までもセットにして取り込んでいる。だから実際、私たちは真の意味では、ほとんど「生の情報」に触れているとは言えない。それは目の前に現れたときには、必ずと言っていいほどなんらかの「加工」が施されている。そしてそれはある部分までは「親切」でもあるだろう。そうでなければ私たちは、あふれる情報の掴みどころを見つけられないまま、押し流されてしまうかもしれない。しかも私たちは、

「世界のあらゆる場所の、あらゆるひとに関わる、あらゆることについて、まったく同じ程度の関心を持ち続ける」

などということはできないし、その必要もない。だから

「情報を手軽なかたちに加工する」

というのは、ある程度までは、確かに有用だし、ありがたい配慮でもある。しかしそれが、

「私たちの存在の根底に関わる情報の、核心を歪めている」

ものだとしたら、そのときその「便利さ」は、「巨大な危険」として、私たちの景色を一変させることになる。

先日私は、ある霊存在の意見に、強く心を動かされた。

昨日、私はかなり強力な霊と対峙していた。だからその記憶が少しでも鮮明なうちに、ここに記録しておこうと思う。彼は闘いのなかで、とても多くのこと...

しかし彼だけでなく、私に関わってくる存在のなかには、単純に「負の霊」(喜びを妨害している存在)とも括りきれない、

「私とは違う『信念』に基づいて行動している存在」

というのも少なからずいる。たとえば、彼女もそのひとりだ。

前回、私は毎年最も自分が強力になるときを見計らって私の前に現れ、そして根本的な決着はつかないまままた離れていくことを繰り返してきた、霊存在の...

それにこうしたことは、別に霊存在に限らず、肉体人にもいくらでもあることだ。そしてこうしたことを思うにつけ、私は

「真実」とはなんなのか?

ということを、改めて考えずにはいられなくなるのである。

もちろん、それは見かたによっては様々に定義できるものでもある。だが私の言いたいことの核心をわかってもらうために、ここではひとまず話をできるだけ単純化して、こんな例から考えてみる。

「札幌の南には東京がある」

これは真実だ。しかし、札幌から東京に行くルートには、様々なものがあり得る。だから、そのどれを選ぶかによって、見える景色はまったく変わってくる。

しかしひとまず、

「札幌の南には東京がある」

という真実を理解したひとが、その両者を対比したうえで、

「南に行くと、人口は多くなる」

というふうに考えたとする。するとそれは確かに、「札幌」と「東京」を比べた場合には真実であるように見える。ところがそれは、実際には、真実とは言えない。しかし私は、なぜそう言い切れるのだろうか?それは私が、

「東京の南には沖縄があり、沖縄の人口は東京(札幌)より少ない」

という真実を知っているからである。だから私はより多くの真実を対照することによって、より精確な世界認識を、持つことができるということだ。

ところで先ほど、

「北海道から東京に行くルートには、様々なものがあり得る」

と言った。これをもっと単純化して、

「ある点Aと点Bをつなぐ線」

を考えてみる。するとその2点をつなぐには、いろいろなかたちの線を引く余地がある。直線でもいいが、曲線でもいい。あえて遠大な回り道をして、長い線にしてみてもいい。蛇行させたあと、真っすぐにして、また蛇行したっていい。その方法は、無限にある。

しかしここに、ある点Cを追加する。そして

「点Aと点B、それに点Cを、アルファベット順(A→B→C)でつなぐ線(経路)」

を考えてみる。さらにはそこに点D、E、F、G……と追加していき、「そのすべてを通って行く線」というものを考える。
するとそこには確かにある種の「制限」が掛かってもくる。しかし同時に、その線はその「味わい」を増すとも言える。「必ず通らなければ行けない場所」が増えるという制限のぶん、「いろいろな場所を通る楽しみ」もまた、増えるということだからである。

これは実のところ、私たちの存在そのものに深く関係する話なのである。それにそれは、なにも「今生」だけのことに限らない。そして私たちがなぜこんなにも苦しんでしまうかのひとつの答えは、

「自分が参加したゲームのルールを、忘れてしまった(忘れたふりをしている)からだ」

と言っても、間違いではないのである。

ルールを知らなければ、正しく楽しめない。どんな線を引いてもいいし、どれだけ時間をかけてもいいが、線は引かなければいけない。そしてだからこそ、その軌跡が、「かけがえのないあなただけの、芸術」になる。本当は、ただそれだけのことなのである。

しかしもし、その「ルール」をすべて理解したうえで、

なんなんだこれは!!こんなのどうやったって、自分の思う楽しい線が引けないよ!!

と思うのなら、そのルールに文句を付けることもあっていい。そしてそのルール(仕組み)そのものが、「神」(はたらき)と呼ばれるのである。ただ、文句を言うならまずそのルールをよく知らなければいけない。理解は批判するにあたっての必須要件であるのだから。

だから私たちは、本当は誰でも世界を理解したほうがいいと、私は信じている。私は、こうした想いに基づき誰になんと言われようと真実を追究し続けるし、よければそれをあなたとも、共有したいと思っているのである。そしてその過程で、私たちは真実を自分なりに「意味づける」。その結果生まれるのが、信念である。だからその意味で、信念とは真実の解釈であり、「世界に対する意見」とも言える。そしてそれが、ひとによって違うから、今の世界はこうなっているのである。

だが、ともかく私は、本当は、意味付けはどうでもいいというか、あとでもいいと思っているのだ。ただいずれにしても私は、もっと深く世界を理解したい。そうでなければ、私は本当には、世界に感謝することも、文句を言うこともできない。現時点で文句を言ったとしても、真に相手(神)の心を動かすことはできないだろう。私はまだまだ、世界を理解していないのだから。

ただ、そうは言っても「現時点での途中経過」として、私はおおよそ75%くらいの想いによって、

この世界(のルール)は、おそらくはいいものだ

と思っている。昔はもっとこの世界を嫌いだったのだが、今は昔よりははるかに好意的に受け止められるようになった。だがもし、私が100%この世界を嫌うようになったらどうするか?負の霊になるだろうか?まずそれはない。なぜなら彼らはただ、

「ルールのなかで、ルールもよく知らずに、暴れているだけ」

だからだ。だからそんなことでは、本質的になんの意味もない。

そうではなくて、世界を嫌うひとたちが本当にしなければならないのは、

「世界のルールを誰よりも理解して、ルールそのものを否定し、既存のものに代わるルールを提案する」

ことなのである。

だからいずれにしても、私はもっと世界を、真実を理解したい。そしてその理解の先に私に映る世界がどのようなものであるのか、私はそれが、とても楽しみなのである。