あなたの生を糾弾するひとびとがいるとき、死は「贖罪」になるのだろうか?

つい先ほど、「考える葦」さんから、こんなコメントが寄せられていた。

このブログの中でもとりわけ説得力と愛にあふれた記事を深い感謝とともに拝読しました。これまでの人生で幾度か自殺を考えたことがありましたが、そのつど不思議にも生き延びて参りました。Dilettanteさんと同様、人間への愛に満ちた幾人かの方の著書やブログに出会えたおかげと申しても過言ではありません。

ただ、自殺を戒める数々のすぐれた文章も、私の見たところ、ある一点についてあまり触れていらっしゃらないように感ぜられます。その一点とは、何か宗教上、倫理上、あるいは法律上の罪を犯したとして、それでも生きてゆかねばならないのか? その際の心構えはどうかといった点についてであります。この点、Dilettanteさんが世の多くの宗教家やスピリチュアルの専門家さんたちよりもいま少し踏み込んで何かお書きくださることを切望してやみません。

私の念頭に浮かぶのは半世紀前、北日本で飛行機同士の衝突事故があり、パラシュートで脱出したパイロットさんのその後であります。相手側の飛行機は100人を越える乗員乗客全員が死亡したと聞きます。一方、パイロットさんはその後、引退するまでレスキュー飛行機の操縦士としてずいぶん多くの人を救ったと聞いております。彼には世を去ってのち、どういう運命が待っているのでしょうか。昔ふうに切腹して責任を取った場合よりもさらに重い罰が待っているのか、それとも……。とりとめもない文面で恐れ入ります。取り急ぎかねて申し上げたかったことを文字にさせて頂きました。Dilettanteさんのいよいよの御活躍を私自身のためにも念じつつ。

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

ここで伝えられていることは、私にとってもとても多くのことを考えさせられるものだった。そこでこのようなことに関する今の私なりの考えや想いを、書いてみようと思う。

「原罪」という概念がある。これはたとえばキリスト教などにも見られるものだが、とても単純化して言えば

「私たちは誰でも存在するだけで、罪を犯している」
(私たちは存在を始めた時点から、罪を抱えている)

と言ってもいいだろうと思う。そしてこれをどう捉えるかというのは、私たちの世界観の根底を左右するのだと思う。

しかし、そのような究極的なことはいったん脇に置いて、ここで問われているように

何か宗教上、倫理上、あるいは法律上の罪を犯したとして、それでも生きてゆかねばならないのか?

と言われたら、私はためらいなく

そうです

という以外にない。そしてそれは、

たとえ生きているのをやめて、自殺したとしても、それはまったく「贖罪」にならないからです

ということなのである。

たとえばここで例示されているのは、おそらくは1971年7月30日に起きた「全日空雫石上空衝突事故」のことではないかと思うのだが、このとき生還したパイロットの彼が、考える葦さんの言うように

昔ふうに切腹して責任を取った

としたら、そうしないで生き抜いた場合に比べて、彼の死後の苦しみは少しでも和らぐことになるだろうか?

もちろん霊界は「想いの世界」であり、その「想い」の基となる「感受性」の在りかたは一様ではない。しかしそれを差し引いても、私は相当の確信を持って、そんなことはないと言い切れる。なぜなら、

「自分が関わったことで誰かを死なせてしまったことから自殺を選んだとしても、それは『責任を取った』ことには、まったくならないから」

なのである。

そしてそれをもうひとつ、「自殺した本人」の立場で考えてみてもいい。彼は、自分が自殺することによって、ラクになれるのだろうか?なにより

「自分自身を赦す」

ことが、できるのだろうか?私には、まったくそう思えないのである。

そもそも、

「責任を取る」

ということの本質のひとつは、

「自分(たち)にとって避けたいことに、逃げずに立ち向かう」

というところにあると、私は思っている。そしてだからこそ、彼は生きることで、人生の最期まで生き抜くことで、責任を果たすべきなのである。

それはもちろん、簡単なことではない。それに言ってしまえば、今回考える葦さんに

彼には世を去ってのち、どういう運命が待っているのでしょうか。昔ふうに切腹して責任を取った場合よりもさらに重い罰が待っているのか、それとも……。

などと、いろいろに想いを巡らされてしまうことも、彼の向き合うべき「結果」つまりは「責任」のひとつなのである。

しかしこれは明白に「殺意」を持って行われたわけではないのだし、その意味でも単純に、彼が「悪い」と言って済むような話ではない。だがそれでも、だからこそ、彼は生き抜くべきなのだ。それは本当には、誰よりも「彼自身のため」である。

彼のやってしまった「事実」は、彼がなにをしようがしまいが、決して消えることはない。だが彼がその後の人生で多くのひとびとのいのちを救っていったことは、誰よりも彼自身にとって、「救い」になったものだと、私は思う。そしてそれが、いずれ

「彼が彼自身を赦す」

ために、少なからず大きな役目を果たしたのだとしたら、私はそれを、なにより素晴らしいことだと、そう思うのである。

そしてこれは、たとえば「殺人」とか、「詐欺」とか、そういったあらゆる「明白な悪意を持った行為」であったとしても、むしろそうだからこそ、同じことである。

自分自身が

悪いことをした……

と思ってしまうようなことをしたひとほど、生き抜くべきなのだ。もちろん、場合によっては収監されたり、死刑になるようなこともあるかもしれない。しかし、それならそれでいいのだ。ただ、「生き抜く」ことを選ぶことができただけでも、そうでなく途中で自殺して「放り投げた」場合に比べて、あなたははるかに早く、深く、「自分を赦す」ことができる。なぜなら、生きているということは、

「自分のしたことの『結果』を、自分にはっきりと、見せつけてくれる」

ということなのだから。そしてそれだけが、本当の意味での、「贖罪」になるのである。

私は、本来的な意味では、私たちに「原罪」があるとは思っていない。私たちがこの世界に生まれたのは「罪滅ぼし」のためではないし、そもそもこの世界は「罰を与える」ためにあるわけではない。すべては、本来は、

「喜びに向かうため」

にあるものである。

しかし、私たちは、知らず知らずのうちに、ひとを傷つけたり、苦しめたりしてしまうことがある。もちろん誰よりも私自身が、それを自覚している。そしてそのなかには、少なくとも部分的には、「取り返しのつかない」と言えるようなものも多々ある。誰よりも私自身が、そう思っている。

だがだからこそ、私は今も生きている。そもそも私は、今日も米や野菜を食べた。そしてこれは、

「私以外の誰かが代わりに食べれば、そのひとを生かすことができたはずの食糧」

であることは間違いない。だから、私は、それを「罪」と見なさなくていい生きかたをしたいのである。そしてそれは、まだうまくできていると言い切れるものではない。だからこそ、私は今日も生きているのである。自分自身を赦したいと思うから。そしてあなたにもあなたのことを赦してあげてほしいと、そう思うからである。

コメント

  1. じゅんや より:

    自分を許すにはどうしたらいいのでしょう?
    生きることで悪いカルマを生み、ますます自分を許すことが出来なくなるとしたら悲しいことです。

    • Dilettante より:

      じゅんやさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、ですからひとつの核心として

      「誰よりも自分自身が、納得できる道を行く」

      しかないのだと、私は思っています。

      そうでなければ、たとえ誰かが自分を赦してくれたとしても、自分自身が自分を赦すことが、どうしてもできないからです。

      そしてその「納得の質」はもちろん

      「0か100か?」

      と言えるものではないでしょう。ですがだからこそその質と深さを少しずつでも追求し続けていくことが、生きるということの意味のひとつなのだと、そう思っています。