仲良くなれるひとであればあるほど、仲が悪くもなれる。だからこそ……

誰かと仲良くなりたいと思ったら、あなたはどうするだろうか?いろいろな方法や手がかりがあるにせよ、それをひと言にまとめてしまえば、

「相手を知ろうとする」

というのは、とても大切なことだし、必要なことでもあると言えると思う。

たとえば相手をまったく知らないとしたら、まず声をかけてみればいい。だがそれが急にはできないのなら、まずは共通の知り合いや友人を辿り、相手の趣味や価値観を知ろうとしてみるのもいい。そしたらそこから、相手との「共通点」が見つかり、声をかけやすくなるかもしれない。

そしてもし声をかけることができて、相手も応じてくれたとしよう。最初はたわいのない会話を少し交わすだけだったのが、そこから話が拡がって、意気投合したらいずれ、お互いの住所や電話番号、それにメールアドレスやSNSアカウントなんかを交換したり、直接1対1での時間を過ごしたりもするようになるかもしれない。こうして、お互いの仲は深まっていく。これは決して、簡単なことではない。だがだからこそ、素晴らしいことである。

お互いのことを知らなければ、仲良くなることはできない。「知り合い」は「仲良し」とは違うし、それは良くも悪くも

「当たり障りのない関係」

である。そしてそんな「知り合い」ですら、文字どおり多少なりともお互いのことを知り合っていなければ成立しないものである。

そしてお互いを知り合っていく過程で、あとはお互いの「相性」によって、関係をどこまで深められるかが変わってくる。それをなんと呼ぶかにはひとによって多少の違いがあるかもしれないが、ざっくり言えば「見ず知らずのひと」が「知り合い」になり、「友達」になり、「親友」になり、「古くからの親友」へと深まっていくと言ってもいいだろう。そしてそれは、誰との間でもできるわけではない。だからこそ、誰かと知り合い仲良くなれるというのは、やはり素晴らしいことである。

ところが、話はこんなふうに単純に終わるとは限らない。もちろん、どこまでもどこまでもお互いの関係を深め続け、大切に慈しみ、助け合うことができるのが理想的なのは誰もがわかっている。だがそれにもかかわらず、たとえば「親友」だったひとが一転して「いがみ合う相手」になったり、「誰よりも深く愛し合っていたひと」が、「誰よりも深く憎み合っているひと」になってしまったりもする。そしてその程度に差はあっても、こうしたことは決して、珍しいことではない。だがこれはとても、哀しいことだ。どうして、こんなことになってしまうのだろうか?

もういちど最初に戻ってみよう。私たちは最初、お互いのことをほとんどなにも知らなかった。しかしそれでも、私たちはお互いに一緒に作業したり、話したりすることもできる。そしてこれを、「上辺の付き合い」とも言う。この上辺の付き合いは、とても淡く軽く、たいした思い入れもないものかもしれないが、だからこそある意味では、とても「清らかなもの」だとも言える。私たちは誰も、やみくもにひとを傷つけたいわけでも、嫌いたいわけでもない。それに私たちは最低限の「礼儀と敬意」を身につけている。それでももし初対面でいきなり罵倒されるようなことがあったら、それはあなたが悪いのではなく、相手が病んでいるのだ。だからごくわずかな例外を除いて、上辺の付き合いは、清らかなものになって当然なのである。それは文字どおり、「上辺」のものなのだから。

しかし、「仲良くなる」ということは、「相手をより深く知る」ということだ。そしてそれは、

「今まで知らなかった、相手の様々な面(要素)を知っていく」

ということでもある。だから、それはもう「上辺の付き合い」ではない。そして一般的に、軽いものほど上に浮き、重いものは下に沈んでいる。だから、相手を深く知れば知るほど、相手の「奥底」にあるものが次々と見えてくるようになる。そしてそこで見えるようになるものは、決して「自分にとって、好ましい(と思える)もの」だけだとは限らない。そのとき、それまで好きだった相手であればあるほど、その「落差」に衝撃を受け、傷つき、場合によっては

裏切られた!

とさえ感じる。そしてだからこそ、相手を深く知るようになったからこそ、相手に好意を寄せていた、あるいは寄せようとしたからこそ、相手と関係を絶ったり、もっとひどい場合には相手に敵意や憎しみを向けたりするようになるのである。このようなときにしばしば発せられる

こんなひとだとは思わなかった!

という言葉は、私たちの心に、深く突き刺さるものである。

こうしたことを考えたり体験したりすればするほど、

「仲良くなれるひとであればあるほど、仲が悪くもなれる」

という真実を、身につまされることになる。しかし、それならば私たちは、私は、いったいどうすればいいのだろうか?

お互いを知り、知らせようとしなければ、仲良くはなれない。しかし仲良くなればなるほど、一転してその同じ相手と、仲が悪くなってしまうかもしれない。

そして、

「かつて仲が良かった相手と、仲が悪くなる」

というのは、最初から

「仲が良くも悪くもない(当たり障りのない)関係を続ける」

というのよりも、哀しいことでもある。

だが、そもそもなぜ私たちは、誰かと仲良くなろうとするのだろうか?その理由は単純ではないだろうし、ひとつだけでもないだろう。だが、私は自身の心を見つめたとき、そこに少なくともひとつ、「巨大な動機」があることに気づく。それは、

自分と相手との共通点を見つけたい。そして相手に共感したいし、自分にも共感してほしい

という、巨大で切実な願いである。それはつまり、

自分のすべてを受け入れてほしい

という願いでもあると、私は気づいている。もちろん、私は単に「わがまま」になりたいというわけではない。至らないところは直したいし、変わりたいし、あなたに寄り添いたいとも思っている。しかし、どんなに変わっても、成長しても変わらないのは、

「私が私である」

という、その核心である。

私は、私が私であることを、受け入れてほしいのだ。そしてその願いは、おそらくすべての存在に共通しているのだと、そう思っている。

だが、こう考えてみると、

「そもそも自分のことを誰よりも知っているのは、自分自身である」

ということに気づくことになる。もちろん自分自身すら、自分のことを100%知っているわけではない。だが少なくとも、自分は自分と誰よりも長く、深く付き合っているし、それは永遠に終わらない。だからその意味で、私は私を知ることから逃れられない。そして本当は、私は私を知ることで、より深く理解することで、私自身を好きになりたいのだろうと、そう思っている。そしておそらくこれもまた、誰もがそうなのだ。

だが、自分を知れば知るほど、自分が好きになるとは限らない。一瞬好きだったのが嫌いになったり、かと思えばまた好きになりかけたりする。そしてこれは、もはや相手が「自分」であるか「他者」であるかに、関係ないのである。

だから私たちは、そうした葛藤を抱えながら、お互いを知り、理解しようとし続ける。そしてそのなかでは、今まで述べたような哀しい事例とは逆に、

最初は大嫌いだったけど、知れば知るほど好きになった

というようなことも起きる。この場合の

こんなひとだとは思わなかった!

というのは、私たちにとって最も嬉しい言葉のひとつだと、私は思っている。

あなたはまだ、私のことをよく知らないと思う。それに「霊媒師」などと言われたら、それだけで気味悪く思われたり、嫌われたりしてしまうかもしれない。だがもしそこで歩みを止めずにお互いを知り合い、理解し合っていけたら、とても嬉しい。もしいずれあなたに私のすべてが知られたとき、それでもあなたが私の傍にいてくれるなら、私はとてもとても、これ以上想像できないほどに、しあわせである。

コメント

  1. なすび より:

    この頃、上映されている映画に”君の膵臓を食べたい”というのがあります。

    原作は小説なのですが、次のような一節があり、読んでいてとてもよいなと思いました。

    膵臓の病気になり、余命1年だと宣告されたヒロインの言葉です。

    生きるってのはね、きっと誰かと心を通わせること。

    そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ。

    (中略)

    誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、

    誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、

    誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う、それが、生きる。

    自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。

    誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、

    誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、

    そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きているってことだと思う。

    私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。

    そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。

    だから人が生きてることには意味があるんだよ。

    自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに。

    そして、君との出会いは偶然だという主人公に対し、言う

    違うよ、偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。

    君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。

    運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですか、その作品は名前だけは耳にしていましたが、そのような言葉があるんですね。

      ご紹介ありがとうございます。

      たとえまったく同じ状況に置かれたとしても、ひとによってそこからどのような選択をするかは異なり、そもそもその根底にある価値観、そしてその表現としての決断の積み重ねが、他の誰のものとも違う、

      「唯一無二の、かけがえのない、『自分の人生』」

      を創っていくのだと思います。

      そしてそのすべてにはやはり「自分の意志」がなによりも強く関わっているのは間違いありません。

      ですから私もその「素朴で重要な真実」を忘れずに、これからも私なりの人生を創って、最期まで生き抜きたいと、そう思っています。

  2. 鍵盤マーチ より:

    Dilettanteさん、こんにちは。
    今回の記事は、少し珍しく感じました。
    霊存在や目に見えない世界の話というより、現世に生きている人と人とのコミュニケーションに主眼を置いているお話ですね(勿論、この世に生きる人も霊存在ではありますが)。

    霊存在やあちらの世界のお話ではなくても、Dilettanteさんのお話は冷静さと優しさが共存した、Dilettanteさんらしい記事だなと感じました。

    私事ですが、強く死に惹かれているわけではありませんが、生きる事に強い意思がなく、もはや人との付き合いも煩わしく感じているこの頃です
    (人によって、自然界の皆様によって生かされているとは重々承知しておりますが)。

    ですので、そんな私からすると、弱っていらっしゃっても変わらず全てに穏やかな心を向けていらっしゃるDilettanteさんが本当に素敵だなと感じました。

    生きる事が、良くも悪くも他人(とされる存在)と心を通わせる事ならば、私はそれを怠って生きてきましたし、これからも量的には多くは見込めないかと思っています。
    それでも生きていて良いか、日々自問しています。加えて、先に述べたように生きていたいと強く思っているわけでもないですし。
    ですが、Dilettanteさんのブログを拝読させて頂くからには、皆さんと喜びを深めていきたいとは思っています。
    ただの感想になってしまい申し訳ございません。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      生きているなかで他者と心を通わせることは、本当には、「必須」ではないのだろうと、私は思っています。

      しかし、よくよく考えれば「必須」ではないはずのことを、これほど多くのひとが、なぜどうしようもなく切実に求めてしまうのか、そこには私たちの存在の根幹に関わる「カギ」があるのではないかと、思ってもいるのです。

      それになにより、アタマ(の一部)ではこのように冷静に分析しつつも、私自身がどうしようもなく、他者との関わりを求めてしまうのです。

      そしてその結果、私はあなたとはある意味まったく逆の立場から、しかしあなたとまったく同じ疑問を、持ってしまうのです。

      それでも、こんな私でも、生きていていいのか?

      と。

      しかし私はこう真摯に問うていると言いながら、実際にはのうのうと今日も生きています。そしてきっと、あなたは私に

      それでも、そんなあなたでも、生きていていいんですよ

      とおっしゃってくれると勝手に期待しています。この期待は、おそらく的外れではないはずです。

      それならばなおさら、私もあなたに、より深い想いと確信を込めて、同じ言葉を返します。

      そしてあなたがなぜ「鍵盤マーチ」を名乗ったのかを想いを馳せるとき、私とあなたの想いは本当はまったく同じなのだと、私はさらに深く、確信するのです。