死を意識したら遺書を書く。そして今いちど、生を見つめなおす

私たちは今、からだを持ってこの世界に生きている。しかし同時に、私たちは生きながらにしていつでも、死について考えることができる。私は、たとえば科学者が言う

過去や未来、そして特に死について想いを巡らすことができるのは、人間だけの特質である!

というような考えには与しない。だが、人間「だけ」が死を考える(ことができる)わけではなくても、

過去や未来、そして特に死について、これほど頻繁に、そしてこれほど深く想いを巡らすのは、人間だけだろう

とは、私も思っている。

私たちは、たとえ自分自身の人生が喜びに満ちあふれているときでさえ、死について考えることができる。そのきっかけは、たとえばメディアから流れる訃報でもいい。だがそれがもっと近い知人友人、あるいは親族の死であれば、その力はますます大きくなる。あるいはそれが「直接的な死」ではない、「病気」や「入院」といったことであったとしても、それは私たちに少なからず、「死の存在」を突きつけてくる。

しかしそれでも、私たちは生きている。それに、生きていかなければならない。とはいえ、そんななかでもひときわ強烈で、まったく逃げ場なく死を突きつけてくる瞬間がある。それは、

「自分自身が弱ったとき」

である。

私は、生まれつきとてもからだが弱かった。だから風邪は言うに及ばず、それ以上の様々な病気を経験し、入院することもよくあった。だから、私にとって死は、常に身近にあるものだった。

そんな私が、ある日突然霊存在との邂逅を経験し、以来紆余曲折を経て霊媒師としての道を歩むようになってから、私はそれまでよりさらに深く、死を意識せざるを得ないことになった。そしてその体験の一部は、この『闇の向こう側』の最初期にも、

「心」という言葉の語源は「ころころ」変わるというところにあるという。なるほど、と思う。そしてまた、からだの調子も、日々変化する。「変化する」...

という文章に書いているし、その他にもたとえば

楽しいかい?私の師はいつも私にそう笑いかけ、楽しくないのなら、なにかが間違っているんだよと言って、飄々と自分の道を歩...

など、幾度にも亘って、ここにも記録してある。だからこんなことは、もはや私にとっては「日常茶飯事」であるとも言えるのだが、ついこないだも、私は連続的に、死の影を色濃く感じるできごとのなかにいた。

私は今、霊媒師として生きている。これは事実である。そして、このような「霊媒師」という在りかたは、少なくとも現在の日本のような社会では、まだまだ理解されているとは言えない。それに、「負の霊団」と私が呼ぶような存在とも、今の平均的なひとたちよりは多く、そして濃く関わっている私は、その意味では、ある程度「特殊な」経験をしているとも言えると思う。

しかし、本当は「霊媒師」というのは、

「私のなかに数多くある要素のなかのひとつ」

であり、

「私をある視点から見たときの側面」

にすぎない。

そして私は、あなたもまた、ことあるごとに死を意識していることを知っている。そうでなければ、なぜこんな無名の私のところにさえ、

日々自殺を考えています

家族が自殺しました

というようなメールやコメントが、たびたび寄せられるというのだろうか?

だから私は今回、そして今も普段よりはるかに「死」を身近に感じているひととして、私の体験を、そして想いを、共有したいのである。

私たちは多かれ少なかれ、幾度となく死に想いを巡らせている。しかしだからといって、ほとんどの場合それは「生」によってたやすく呑み込まれてしまう。そんなことより、仕事のこと、請求書のこと、今日も関わらなければいけないあのひとのことなど、考えなければいけないことは、無数にあるのだから。

しかしそれでも、「死の影」から逃れられなくなるときもある。そしてそれは

「生きることに疲れている」

ということでもある。そうなればそれは「自殺願望」ともなり、

そうは言ってもまさか本当にはできないよ

と自分でも思っていたはずが、あっという間に自殺を決行してしまうことすらある。これが、現実なのである。

ひとの流れというものは面白いもので、途絶えるときはしばらく誰との間でも途絶えたかと思うと、重なるときは一気に重なって、また景色を変えることが...

ところで私は、なんのことない日でさえ負の霊団から

死んでしまえ!お前なんか死んだほうが世界のためだ!

いるだけで気持ちの悪いやつだ!

などと散々に言われることが多い。それに、ここまでひどい言葉ではないとしても、似たようなことというのは、肉体人にも直接的間接的に言われたことがある。

これは、たとえ

「バカバカしい、ただの暴言」

としか思えないものであっても、数が多くなればなるほど、確実に自分の傷として積もり積もっていく。それに、自分が肉体的精神的に弱っているときならなおさらだ。

だが、私は今もこうして生きている。それに、少なくとも自殺は、これからも絶対にしないと決めている。それは、いったいなぜなのだろうか?

ひとつには、私が霊媒師として、少なくとも自分自身は完全に納得できるほどの、「死の真実」を理解しているからである。しかし、それは確かに「大きな要素」ではあるが、それだけが理由ではないのだ。だからたとえあなたが「霊的な真実」や「肉眼では見えないもの」をどうしても信じられないとしても、私はまだあなたに、伝えたいことがあるのである。

私は、自分が心身ともに弱り、どうしても充分な生きる気力を出せず、死の影に呑み込まれそうになったときには、静かに遺書を書くことにしている。といっても近年の高齢化や遺産相続トラブルの増加などで書き遺すひとが増えているという「遺言書」とはまったく違うものである。いわゆる「遺言書」というのは、ほとんどの場合「遺産の分割方法」について自分自身の遺志を伝えるために作るものだが、私の言う遺書はそうではない。もっと単純かつ切実なもので、

もし自分が今死ぬとしたら、なにを言い遺すだろうか?

という趣旨で作るものである。

そもそも、私に今遺せる「財産」などわずかもない。だからそんなことは、初めからどうでもいいことだ。だから私は、まず私に関わってくれたすべてのひとびとを想って、感謝する。そしてそのひとたちの、あなたの、しあわせを願う。そのなかでも特に想い出深いひとたちには、さらに個人的な言葉を書き綴る。しかしこれも、どの程度書けばいいかが難しいものだ。書こうと思えばいくらでも書けるし、かといっていつかは書き終わらなければいけないのだから、逆に短くまとめたほうがいいとも思えてくる。そして、そもそもあのひとにも書こうかとか、あのひとにもなにか言っておいたほうがいいか……など、考えることは尽きないから、なかなか大変だ。

しかし、それは実際には今すぐ書き終えなければいけないものではないのだから、時間はどんなにかけてもいい。それに、どうしても書き終えられないのなら、どこまでも長く書いたっていいだろう。今はデジタルデータにすれば、紙もインクもほぼ無限である。

そして、ひとしきり誰かに宛てた言葉を書き終えたあと、今度は私は、もはや「誰かに伝えるため」に書くのでもない、

「自分自身の人生に思うこと」

を書くことにしている。だが少なくとも私の場合、いわゆる

「人生でよかったこと」

については、前段にそれぞれに宛てた感謝を書くところで終わってしまう。だからあと書くことと言えば、

「今生で成し遂げられなかったこと」

ということになる。

私は、大切なひとをもっと大切にしたかった。それにこの地球が喜びにあふれる場所になることを、からだを持ったままこの眼で、見届けたかった。これは個人的具体的なものを省いて書いているものだが、実際にはもっとたくさん、もっともっと細かいことを書いていくことになる。それは書けば書くほど、あふれてくるものでもある。

だから私は、こうやって遺書を書くといつも、泣いてしまうのである。これは、「喜びの涙」ではない。

「悔しさによる涙」

である。私はいつも、遺書を書きながら

今日が人生最期の日なら、なんて悔しいことなんだ!

と思う。そしてこれはそのまま

「今すぐ自分が自殺したとしたら、間違いなく自分が感じる後悔」

そのものである。だから私は、死ねないのだ。だから私は、死なないのだ。

ただそれをどれほど確かめたとしても、私はいつか死ぬ。だがそれはおそらく、まだ今日ではない。自殺しない限り、自分の人生を諦めない限り、私はまだ生きられる。それなら、生き抜いてみよう。これほど多くの「成し遂げられなかったこと」を、少しでも、成し遂げるために。

これが、私が何度も味わっている、私の実体験である。これが、あなたにどこまで共感されるかは、わからない。それにあなたがもし本気で自殺を検討しているような状態なら、

よし、遺書も書いたし、もう死んでもいいな

と思われてしまう可能性も、なくはないと思っている。だがだからこそ、私はあなたがそこまで追い込まれる前に、少しでも早く、自分を振り返ってみてほしいと思っている。そして、自分にこう訊いてみてほしいのだ。

もし、未来がなにも決まっていないとしたら、自分は本当にはなんでもできるのだとしたら、これで終わりにしていいのか?本当に、これが最期でいいのか?

あなたは、

「自分がなにを成し遂げられなかったのか」

にさえ、まだ気づけていないのだ。だから、死んでしまおうとしているのである。だがあなたが気づけていないそれは、

「本当は、あなたが、あなただからこそ、成し遂げられるはずだったもの」

だ。だからこそ、自殺は最ももったいない、最も後悔する、行動なのである。

私は、もっとあなたを大切にできるはずだ。それにこの地球が喜びにあふれる場所になることを、からだを持ったままこの眼で、見届けられるはずだ。だが、それがまだ充分にはできていないから、悔しいのである。いつも思うことだが、今日のこの文章も、言いたいことを充分にうまく書けたとは思えない。私が今弱っているから、なおさらである。だがだからこそ、私はこんなところで死にたくない。私は、しあわせに死んでみたいのである。だから私は、今日も生きている。今日の私ができないことも、明日の私ならきっともう少しはうまくできるし、そうできるように、なってみたいから。

コメント

  1. 鍵盤マーチ より:

    中学生の頃、自殺を考えた事がありました。
    その時は、やはり「まだここでは死ねない」と思い、自殺は止めました。

    自殺の話とは異なりますが、大人になり夢が見つかったら、死への恐怖は逆になくなりました。
    夢に気付けて、例えそれが叶わなくとも、一生懸命生きたから「いつ死んでも悔いはない」と思えました。

    今は、その夢も目標ではなくなり、「私のような者が生きていて良いのか(と思いつつも、それを覆せるほど努力する気はない)」
    「楽になりたい(という怠惰)」
    「私には何もない(心の中にも)」
    「輪廻転生はしたくないけど、生まれ変わって頑張る方が頑張り易くないか?」などと、とにかく生に対して投げやりで、命を大切に出来ておりません。

    ですので、Dilettanteさんのように、昔の私のように、
    (今命を落とすとして)「悔しい」という感情にはなれないだろうなと思っていました。
    本当に、無気力というか虚無感でいっぱいです。

    しかし、「成し遂げられなかった事=あなたなら成し遂げられた事」という旨の言葉に涙が出ました。
    そういう風に、私が言っても良いのでしょうか。
    そういう思いを持っていても良いのでしょうか。

    中身がないので、Dilettanteさんにお伝えするにしてもメールの方が宜しいかと思いましたが、
    中身がないからこそクローズなメールより、コメント欄を活用させて頂きました。
    Dilettanteさんの弱まっているお心に、少しでもあたたかな火が灯りますように。
    いつもありがとうございます。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      まず端的に揺るぎのない事実をひとつお伝えしますが、私はあなたの今回のコメントによって、間違いなくとても助けられました。

      ですから、少なくともあなたがこのコメントを書く前に死んでいたとする場合に比べ、あなたは確実に、

      「素晴らしいことを成し遂げた」

      と言い切れます。

      そしてこれは

      「あなただからこそ成し遂げられたこと」

      なのです。

      なぜなら明らかに、

      「このタイミングで、この内容のコメントを、この私に届けてくれたのは、あなただけ」

      だからです。

      これはあなたを過剰に特別扱いしているとか、なにかを誇張しているとかではなくて、ただ純粋に、素朴な事実なのです。

      ですからあなたにはまずそれを、何度も噛み締めてほしいと思っています。

      それから、あなたのこのコメントは同時に、私が以前まとめた

      以前、私に届いたある読者からのメールをきっかけに、私はここに3つの文章を書いた。詳しくはそれぞれを読んでいた...

      という文章を思い起こさせました。

      ですからぜひ、これも併せてお読みいただければと思います。

      また、これを読めばさらにご理解いただけるかと思いますが、あなたの思っているようなことを感じているのは、決してあなただけではありません。

      ですからこれを私だけに宛てたメールではなく、この場全体に公開してくださったことは、これを目にするひとたちにとっても、とてもよかったことだと思います。

      こうしたことを、ひとつひとつ、確かめてみてください。

      そしてこれからも一緒に、生き抜いていきましょう。

      どうぞよろしくお願いします。