全力を尽くしてもすべてが悪化するとき、最後に残るもの

前回

今、私の状態はとてもよくない。そしてこれは、現時点では、いつよくなるのかまったく見当もつかない。だからまず初めに、この文章はこういう状態の私...

を公開してから、早いものでもう1か月が経とうとしている。その間私にメールやコメントで、励ましや慈しみの言葉をかけてくださった方々には、本当に感謝している。また、そのような「目に見えるかたち」ではなくても、私に陰ながらあたたかい想いを手向けてくださっている方々の存在も感じていた。ほんとうに、ありがとうございます。

今の私はと言えば、少しずつコメントやメールのお返事を書くくらいのことはできるようになったし、とりあえず「表面的な日常生活」は送れるようになっている。が、未だに複雑なことを整理して考えたり、未来の喜びやしあわせを思い描いたりするようなことは、まだあまりできないでいる。

こんな状態では、まだここにまとまった文章を書くのは難しいし、書いてみてもなにひとつ要領を得ないものになると思う。しかしそれでも、こうした状態の私だからこそ、伝えられることもあるかもしれない。それに、ここに私が書く文章というのは、本当はすべて、「私自身のため」に書いているものなのだ。

 

ハリネズミが3匹いた。3匹は近づけば近づくほどお互いを傷つけてしまう。しかしその「痛み」に耐えられるようになれば、3匹は近づいてお互いを理解し合えるようになるかもしれない。だから、初めは痛みや不快感に耐えられる存在になろうとした。しかしそれには限界があり、痛みに耐えかねた3匹の距離は、むしろ離れてしまった。

だから次に、ハリネズミは相手の針を少し抜くことができないか試してみた。だがそれは、相手にとっては「攻撃」でしかなく、それが相手との距離を縮めようとする想いに基づくものだと「意図」を説明しても、それは意味を為さなかった。相手にとって、「針を抜かれること」というのは、

「自分を全否定されること」

に、等しかったのである。

3匹はそれぞれ、みんな哀しそうだった。しかししばらくして、そのうちの1匹が自らの針をすべて抜いて、裸になろうとした。だがそのことによって、そのハリネズミは2匹から「変態」だと見なされて、逃げられてしまった。こうして、今は3匹は、遠く離れてしまったのだった。

 

彼は、最初相手の苦しみや哀しみに寄り添おうとして、

わかるよ

と言った。しかしそれは相手にとってはまったく未熟な理解だったので、却って傷つけてしまうことになった。だから彼は、次に

わかりたいと思ってるよ

と言うようになった。しかしそれは「結果」が伴わないものであり、それは相手には「軽薄な発言」としか映らなかった。だから彼は、いつしか

あなたのことをわかりたいと、思ってもいいですか?

と訊くようになった。しかしそのときには、もはや返事をしてもらえることは、なくなってしまっていた。

思えば彼は、きっと言葉の順番を完全に間違ったのだ。しかしふたりは、実はもう憶えていない。彼自身も憶えていないのだ。だが彼は本当には、いちばん最初に訊いていたのである。

あなたのことをわかりたいと、思ってもいいですか?

 

私は、なにも知らなかった。世界の仕組みも、目の前のひとが誰なのかも。ただほどなくして、

この世界には、自分を傷つけるものがいっぱいある

ということに、否応なしに気づかされていった。私は、怖かった。だから私は、

すべてを誰よりも深く深く、理解したい

と思うようになっていた。それは原初的な衝動だった。理解していれば、怖くない。理解できれば、対応できる。理解できれば、助けられる。理解できれば、生きていける場所を見つけられる。理解できれば。ただすべてを深く深く、理解できれば。

しかし世界は、あまりにも深遠だった。知らないことは減るどころか、むしろ増えていった。

「どこになにがあるか」

というのを理解すればいいだけではなく、

「同じものを見たときに、このひとはどう思うか?」(相手と自分の感受性には、どんな違いがあるのか?)

ということを理解しなければいけないことにも、気づかされたからである。そしてその「感受性」というのものには、無限と言えるほどの差がある。世界を理解しようと思えば思うほど、世界は私にとって、あまりにも不可解だった。

愛されたければ、先に愛しなさい

こんな言葉を最初に聴いたのはいつだったか?しかしいずれにせよこの言葉は、あまりにもありふれていて、あまりにも多くのひとに言われていることだ。そしてそれは、「真実」と見なされている。私も、そう思う。だから私は、理解しようとしたのだ。

理解されたいから、先に理解しよう

と、そう思ったのだ。これは私にとって、最初からずっと変わらない

「止められない想い」

だった。だから、必死になって世界のすべてを理解しようとした。諦められなかった。諦めたくなかった。

 

しかし、今の私は、未だ世界のことをなにも知らない。近しいひとに、理解し合いたい、愛し合いたいひとに

あなたは、なにもわかってない

と言われることほど、哀しいことはない。しかし、そんなことが私の人生からなくなったことは、いまだかつてない。

世界は、恐ろしい。恐ろしい場所で生きていくことほど、恐ろしいことはない。だから、理解したかった。理解できれば、怖くない。どうして、こんなことになっているのだろう?どうすれば、これを解決できるのだろう?だが今でも、私はなにも理解できないでいる。

 

彼女は私に、

自分のことが嫌いなあなたが、私に勝てるはずがないでしょう?

と言った。なるほど、彼女は自分のことが好きなのだ。確かに、ずっとずっとそうなのだろう。自分で、いつもそう言うのだから。それに彼女は、実際にとても強かったし、なお強くなっていた。彼女はまったく、揺らがない。

私は、自分が嫌いだ。だが、好きになりたいと思っている。だから、理解したいと思っているのだ。自分のことを、あなたのことを。しかし、自分のことが嫌いな私は、すぐ揺らぐ。それに、彼女ほど自分に自信がない。私は、自分の理想を体現できたことがないのだから。

しかし、私は彼女の言葉を認めたうえで、まだ思うところがある。私は、自分が嫌いだ。それに、自分の最大の願いすら叶えられない自分に、自信など持てない。だから、簡単に揺らぐ。そしてすぐ、哀しくなってしまう。だがだからこそ、私は

「なにかを選ぶときに、いつも精いっぱい考え、迷い抜いた」

ということだけは、自信がある。自分が好きなひとには、迷いがない彼女には、わからないかもしれない。それに私も、本当は、迷いたいわけではない。しかし私は、自信がないからこそ、とことん迷い抜いた。そして私は、今も迷い、悩んでいる。しかしそのことは、むしろ逆説的には、私の「誇り」である。

 

すべてをいい想い出とし、喜びと愛だけを胸に刻むことができるひともいる。しかし私は、すべての過去を忘れられない。生まれたときのあの恐怖を、私は今も憶えている。だが今のあなたは、いろいろなものを棄て去ろうとしている。そしてそれを見ている私は、自分の無理解を哀しむ。しかし、すべてを棄てたあとにこそ、その「深奥」にあるものが見えるはずだ。どうか、思い出してほしい。あなたと私が初めて出逢ったとき、あなたは私になにを問い、私はそれにどう答えたのかを。私は、あなたを理解したかった。そしてあなたを理解したいと、今も思っている。今のあなたにとって、過去は「幻」かもしれないが、私にはそうではない。真実は真実であり、永遠は永遠である。そして、自分の最も奥底にある止められない衝動こそが、永遠に尽きないエネルギーである。私は、生まれたときにこう思った。

すべてを誰よりも深く深く、理解したい

と。私はきっと誰よりも世界を恐れ、それ故に誰よりも迷い、誰よりも遠回りをして、進んできた。それが、私を私にしたものだ。そしてそんな私があなたと紡いできたものが、あなたとの歴史だった。それに私はそのときそのときに、そのときの私なりの全力を尽くしてきた。だから、もし私がすべての記憶を無くしたとしても、またあなたに出逢ったら、同じようにあなたを愛するだろう。だがもしあなたがこんな私を受け入れてくれないとしても、私はあなたを愛さずにいられない。それが私なのである。私は私であって、私として生きるしかない。そんな私が希うことは、未来の私とあなたがもっと、お互いを理解し合えることである。そしてそのうえで愛し合うことまでもできたなら、世界でなにが起ころうと、そのときの私はもうなにも、怖くはないことだろう。

コメント

  1. 鍵盤マーチ より:

    それでも、こうした状態の私だからこそ伝えられることもあるかもしれない。

    まさに、ここ最近の記事は、「こうした今のdilettanteさんならでは」の記事だと感じます。
    おそらく、闇の向こう側様を拝読しにお越しになる読者様は、きっとそうしたdilettanteさんの文章からも、様々なものを感じ取っていらっしゃるのだと思います。

    私は、いつもはdilettanteさんに理系的なものを感じておりましたが、今回の記事を拝読し、とても詩的な、文系的なものを感じました。
    内容としては、ヤマアラシのジレンマに、一言一言共感致しました。
    私の場合、

    「同じ人がいない以上、傷つけてしまうおそれはある。だから結局、『分かりたい』と思い、未熟なりに自分なりに真摯に相手と向き合い接するしかない」

    と思っています。

    dilettanteさんのご快復、心よりお祈り申し上げます。

    dilettanteさんの現状を、私が良い方向に持って行くことは出来ないのですが、だからこそとても呑気なコメントになり申し訳ございません。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですか、特にこのサイトが「霊」も含め、少なくとも現在の日本のような社会では圧倒的に異質な内容を扱っているからこそ、

      できる限り冷静に、論理的に表現しよう

      という基本方針を立てているのですが、今回はそうも行かず、私自身としては「散文的」というか、

      「どうにもまとまりのない文章」

      になってしまったと思っていたのですが、あなたがそれを

      とても詩的な、文系的なもの

      として好意的に受け止め、さらにそこからなにかを感じ、それを私とも共有してくださったこと、心からありがたく、嬉しく思っています。

      そしてあなたの

      「同じ人がいない以上、傷つけてしまうおそれはある。だから結局、『分かりたい』と思い、未熟なりに自分なりに真摯に相手と向き合い接するしかない」

      という姿勢は、私にとっても大きな共感とともに感じ入るものであり、だからこそ私もまた、私なりの想いと信念を持って生きていこうとする気持ちを深めることができました。

      これは、私にとって確かな力になるものです。ですから、これから私が少しずつでも現状をよい方向に持っていけたら、それは確かにあなたのおかげでもあります。

      本当に、ありがとうございます。そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします。

  2. ゆき より:

    少し体調が良くなられたようで何よりです。

    負の霊のやり口について書かれている興味深いブログを発見したのでシェアさせていただきます。

    DAVID R HAWKINS の著書「パワーかフォースか」の主題である意識エネルギーレベルを発展、展開させたのが諸々のエネルギーレベルです。今話題の人のエネルギー・リーディングをします。

    これによると、負の霊(虚害霊)は脊椎から脳に侵入し、侵入した部位に関連する認知や感情、体の機能を蝕んでいくので、脳にエネルギーを送ることである程度ヒーリングできるようです。また人間の持っているエネルギーだけで悪い霊を撃退しようとすると体力を消耗するのですが、守護霊-神のエネルギーを借りることによって体力を損なうことなく撃退することができるのだそうです。また、守護霊を遠ざける一番の原因は自尊心の低さのようですのでお気をつけください。

    私もこれを読んで自分を責めることをやめ、ピンチになったら神に祈るということを脳のヒーリングと並行してこの一週間くらいやっているのですが、不安や恐怖が減り、神の懐に入るとでもいうような、不思議な安心感を感じています。ちなみに、これを始めてから、夢の中では負の霊団のアタックがビジュアル的にはっきりとしてきたのですが、神に祈ることできれいに回避できてます。おこがましいですがDilettanteさんのお役に立てればと思い書かせていただきました。お大事になさってください。

    • Dilettante より:

      ゆきさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      なるほど、このサイトでは「虚害霊」という名称で呼んでいるのですね。

      そして認知や感情、肉体にも影響するというのも、私の見解と共通しています。

      ただ私自身、どうしても

      「自分を責める」

      という癖をなくすのが難しいところでもありますので、改めてあなたのコメントを読んで苦笑するところではあるのですが、私も引き続き私なりに、課題に取り組んでいきたいと思います。

      それにあなたの実体験も共有してくださって、ありがとうございます。そしてあなたの日々も少しでも和やかなものでありますよう、私もいつも心から、願っています。

  3. なすび より:

    自分の気持ちに向き合って迷いつつも前に進もうとする姿勢がすごくいいなと思います。

    いくらでも自分をごまかして、心の闇から目を背けることはできますが、きちんと向き合うというのは心の強い人だからこそ出来るのだと思います。

    人を愛したい、理解されたいし、理解したいという叫びにすごくエネルギーを感じました。

    私も同じような願いを持っていて、もがいていく中で、それでも実現せず幾度となく傷ついてきましたが、人に何と言われようが諦められませんでした。今も根源的なところでそんな願いを持っています。

    自分と通じるところがあり、最後まで読ませていただきました。

    今はあまり状態がよろしくないとのことですが、そんな時もありますよね。

    どうかそんな時こそ自分で自分をいたわってあげてください。

    夏が来て、秋が来て、冬が来て、春が来るように、その悪い状態もいつかきっと終わるものだと私もよく自分に言い聞かせています。

    実は私自身も最近大学の部活関連のことであまり調子がよくなく、今は思いっきり自分の中に引きこもって回復しているところです。

    今まで、人との関係は本当に浅い付き合いで済ませていたのですが、部活での重要なポストに就いてしまい、色んな人と話し合ったりする中で、人の心の闇というか、本当に浅い付き合いであれば心地よかった人の負の側面のようなものに触れてしまい、エネルギーをすり減らせてしまいました。

    人に優しくされたいなら、まずは自分からと思って人の気持ちを思いやって、親切に。と心掛けていたのですが、直面したのは差し出せば差し出すほど、求められてしまい、際限が無くなってしまうという事実でした。

    人に優しくするというのも難しいのだなと思いました。

    私自身が、以前、人に与えてもらってばかりの人間でした。今回の経験で、人に求められるということがどんなにエネルギーを消耗するか分かりました。

    因果応報とはまさにこのことではないか。

    闇の向こう側というこのサイトのタイトルにあるように、私も今の状態をいっそのこと、味わい尽くしてやろうじゃないかと思っています。

    最後に、ふと思ったことですが、霊媒師や霊能者の方の苦悩はきっとこの比ではないだろうなと。相談者の心の闇に触れる機会は多いでしょうし、よかれと思ってアドバイスしても、逆に腹を立てられてしまったり、怒り出してしまったり。

    人の役に立つということ、人を理解すること、人を愛するのは本当に大変なのだと思いました。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、「愛」も「理解」も私たちが求めてやまないものだと思いますが、与えるにしろ受け取るにしろ本当に難しいものだと思います。

      ですがだからこそ、私も諦めることなく進んでいこうと思いますので、なすびさんの行く道にもしあわせがありますことを、深い共感とともに、心から願っています。