自責の念に苛まれるあなたが自分を「卑屈」だと思うのなら、考えてみてほしいこと

深く考えるまでもなく、誰かを責め続けているようなひとが、しあわせになるのはとても難しい。しかしだからといって、他者ではなく自分を責め続けたとしても、しあわせになるのはやはり難しい。そしてそれをわかっていたとしても、他者も自分もまったく責めずに生きていくというのは、本当に難しいことである。だからこの観点から見たとき、私たちは2つのタイプに大別されることができるとも言えるだろう。そして私は、自他ともに認める後者、つまり

「自分を責めてしまうタイプの人間」

である。この傾向は、私が生きてきたなかでずっと一貫して、変わっていないと言える。

ところで、そもそもなぜ私たちは他者を、あるいは自分を責めてしまうのだろうか?これは細かく言えばいろいろな理由が思い浮かぶだろうが、ひとつ単純に挙げればそれは、

「自分にとって嬉しくない(望ましくない・しあわせを感じられない)ことが起きたから」

であると言ってもいいと思う。

自分がしあわせであり、現状に心から満足できているなら、そこに至るまでのすべてのことに意味を見出し、当時はつらかったことも含め、すべての過去を肯定することもできる。そして、自分の努力や選択を誇らしく思うと同時に、そんな自分に直接的・間接的に協力してくれたすべての存在に、心から感謝することもできるだろう。だからそこでは、誰を責めることもない。

しかし逆に、自分にとって望ましいないことが起きたとき、私たちはどうしても

なぜ、こんなことになってしまったのか?

と思わずにはいられなくなる。そしてそこで思い浮かぶ要因や分岐点がひとつではないとしても、そのなかで大きな原因が他者(この場合の「他者」は特定の個人を指すばかりではなく、ときには「社会」や<神>、「運命」というものも含まれると考えていいだろう)にあると思えば他者を責める思考が生まれるし、そうではなくて自分にあると思えば自分を責める思考が生まれる。だが言うまでもなくこの問いには明白な「答え」があるわけではないので、望ましくないことが起きたとき、他者を責める傾向が大きいか、それとも自分を責める傾向が大きいかというのは、つまるところそのひとの「癖」であるとも言える。

そのうえで、望ましくない事態の原因を他者に見出そうとするひとは、多くの場合「傲慢」などと言われ、周囲から遠ざけられることも多くなる。だが一方で、望ましくない原因を自己に見出そうとするひとは、「卑屈」などと言われ、自滅的な思考に陥っていく。そして冒頭に述べたように、このどちらに浸っていても、私たちはしあわせを感じることができない。

しかし、人生というのはうまく行かないことのほうが圧倒的に多い。それは今のような社会(状況)ならなおさらのことだ。だから、どんなにこの「傲慢さ」と「卑屈さ」の両方から距離を置こうとしても、それは容易なことではない。

そして、最初に書いたように、私はなにかあったときには

「自分を責めてしまうタイプの人間」

である。この傾向はあまりにも顕著であり、ある程度私を知るようになったひとは必ずわかるものでもある。だからそれは肉体人からだけでなく、たとえば私の守護霊からも、

「自分がしてほしくないことは相手にもするな」というのはよく言われるが、あなたの場合はむしろ逆に「相手にしたくないことは自分にもするな」と考えなさい

と言われてきた。しかし、多くのひとから何度となく言われ続けて来たにもかかわらず、これを改善することは、私にとってあまりにも、あまりにも難しいことだった。

そしてそんな私は、自分でも自分のことを「卑屈」で、「自己肯定感が低い」と認識してきたし、他者からもそう言われてきた。しかし、この認識が確かに正しいことを認めたうえでも、なおどこかに

「釈然としないもの」

を感じていた私は、先日こうしたことを改めて話し合い、自省を深めたことで、これまでとは異なる見解(視点)に、たどり着くことができたのである。

そもそも、なぜ私は自分を責めるのだろうか?こう考えてみると、まず思いつくのは

誰かを責めてみたところで、なんの解決にもならないし、すっきりもうれしくもない

ということである。

ここでも何度も書いてきたように、自分の人生の主体者(最終責任者)は自分自身である。そして本人が望むことに協力する場合は特例として、それ以外で

「自分の力で他者を変える」

というのは、不可能である。私が変えられるのは、私だけだ。

「私が変わることで相手も変わる」(自分の変化が他者に影響する)

というのは確かにあるとしても、それはあくまで「自分」を起点としたものでしかなく、

「他者が変わることで問題が解決する」

ということを期待するのは、ある種の「運任せ」でしかなく、そこに私の「努力」の余地は存在しない。だから、その思考の先に根本的な解決があることはない。

そして、そのことを重々わかったうえで、それでも誰かを責め立てたとしても、それで私の気が晴れるということは決してない。それは私自身が

お前のせいだ!

お前が悪い!

ということを幾度となく言われてきたからこそ、

「そんなことを言って相手を哀しませたら、それ以上に自分が哀しくなる」

ということを、わかっているからでもある。

だから私は、なにか望ましくないことがあったときに、誰かを責めるつもりにはなれない。しかしこれは、答えの半分にすぎない。「私が他者を責めない理由」はこう説明するとしても、まだ

「私が自分を責める理由」

にはなっていないからだ。

だからここからさらに考えを進めてみると、

私が自分を責めてしまうのは、私は自分が選ばなかった、しかし選べたかもしれない可能性が、たくさんあったことを知っているからだ

ということにまず気がつく。

あのときもっとよく考えていたら……あのとき別の道を選んでいたら……、そうしたら今の現実は、まったく違うものになっていたはずだ。そしてそれを選べなかったのは、選ばなかったのは、自分自身なのだ

と思うから、自分を責めるのだ。そしてそれを「卑屈」とか「自己肯定感が低い」などというのは、確かに正しいとも思う。だから、私もそれを自分の性質として自覚していた。

しかし、今回私が気づいたのは、

「このことをいったん認めたとしても、まだ『その先』がある」

ということなのだ。それは、まず

「自分は本当は、実際に選んだ選択肢よりもいい選択肢を選べたはずだ」と思えているからこそ自分を責めている。しかしこれは、見かたを変えれば、「『自分なら本当は、もっとうまくできたはずだ』という確信に近い想いがある」ということだ

ということに気づいたことから始まる。そしてこの

自分なら本当は、もっとうまくできたはずだ

というのは、ある意味では確かに、「自信」でもあるのだ。だとしたら、私は

「一方で確かに『卑屈』でありながら、自分に『自信』を持っている」

ということになる。この一見矛盾しているとしか言いようのない想いに気づいたとき、私は

では自分はいったい、「自分のなにを責めている」のか?

という問いにたどり着いた。そして、今の私が出した答えはこうだ。

私は、私の「現状」を責めているのだ。しかしそれは決して、自分の「理想」を責めているわけではない

これはこう言い換えることもできる。

私は「自分の現状(が生み出した結果)には卑屈になっている」が、「自分の理想には揺るぎない自信を持っている

こうした考えに至ったとき、いろいろなことが今までとは違った意味(表情)を持つようになった。そもそも、私はどこかで、

私がすべての力を正しく活かすことができれば、私は必ず世界をよりよくできるし、すべての問題を解決できる

と思っているということだ。だからこそ、私は

自分なら本当は、もっとうまくできたはずだ

と思って、自分を責めるのである。そしてこれは、実のところ「卑屈さ」というより、むしろ「傲慢さ」に近い。

私がすべての力を正しく活かすことができれば、私は必ず世界をよりよくできるし、すべての問題を解決できる

と本気で思うなど、「傲慢」であるとしか言いようがない。しかし私は確かに、自分の「可能性」を、

「自分が自分の理想を実現できる日が、いつか必ず来る」

ことを、信じきっているのだ。

もし「満点」が100点だと思っているなら、70点は悪くない点数だ。しかし「満点」が100億点だと思っているひとがいたら、同じ70点はないに等しいような点数に見える。しかし、

「自分の『満点』(限界)は何点なのか」

というのは、本当は自分自身が、決めているのである。

だからもし、あなたがどうしても自分を責めてしまうなら、私はあなたの「同類」のひとりとして、深い共感を込めて、こう問いたいのだ。

あなたは本当は、誰よりも理想が高いのではないですか?

今、自殺しようとしているあなたは、あなたの人生に絶望しているのかもしれない。そう思い込んでいるのかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか?あなたは本当は、誰よりも自分の人生に、自分のいのちに

「価値がある」

と思っているのではないだろうか?

もし最初から

こんなに難しいテストだから、20点も取れれば御の字だな

と思っていたなら、30点でも喜べるし、自分を責めたりしないだろう。東大の入試問題が解けないことを悔しがる保育園児は(まず)いない。しかしあなたが現役の受験生で、あなたの周りの「自分と大差ないはずのひとたち」が、実際に東大に合格しているのを見たら?あるいはあなたがかつて東大を首席で合格した実績を持つひとなら?話はまったく変わってくるだろう。

私の「理想」は、

すべての存在が、最も自分らしくあり、そしてそのお互いの自分らしさを、みんなが尊重し、支え、育み合う、「静的な平和」を超えた、「動的な調和のなかの世界」を実現することだ

と思っている。その細かな表現や定義には多少の揺れがあるかもしれないが、基本的にその根幹にあるものは、ずっと変わっていないと言える。そして私は、その私の「理想」それ自体には、確かに揺るぎない自信を持っているのだ。もちろん、

この理想を実現することは、「私だけの力」ではできない

ということは、私もわかっている。だが一方で、

この理想を実現するために私ができることは、まだまだあるはずだ

ともいつも思っているし、

たとえこの理想を共有できるひとがひとりもいないとしても、私はこの理想を棄てずに、そこに少しでも近づいていきたい

と、揺るぎなく思っているのだ。だからこそ、私が

「自分の理想には揺るぎない自信を持っていて、その実現に自分の力が大きな影響をもたらせることを、傲慢なまでに信じきっている」

からこそ、私は自分の「現状を責める」のである。この

「卑屈さの裏の傲慢さ」

に気づいたとき、私は改めて自分の

「こどもっぽさ」

と、

「まるで少年マンガの主人公的世界観」

に思い至って笑ってしまった。やはり私は、なにも変わっていなかった。しかしその「変わらない部分」を、私は本当は、誰よりも、好きなのである。

「傲慢なまでの理想」

を希求するのは、バカげているかもしれない。しかし私たちは本質的に、「永遠を生きる存在」である。ときには肉体に宿り、そのときどきで姿かたちを変えながら、様々な体験を積みながらも、その「存在」は永遠である。ならば、その

「永遠を生きなければならない」

という事実を苦しみではなく喜びとして受け入れるためにも、

「永遠に希求するに値する理想」

を持つのは、間違ってはいないだろう。そうでなければ、待っているのは最も残酷で頽廃的なもの、すなわち「退屈」なのだから。

だがもちろん、自分を責めることそのものが正しいわけではないことは、今の私も変わらずにわかっている。しかしそれでも、その「自分を責める」ということの意味や背景についての理解を深めることができたことは、とてもよかったと思っている。そしてこの「かけがえのない発見」を助けてくれたひとたちやできごとに、私は心から感謝したいと思う。

だからこそ私は、この「発見」を共有することで、あなたを少しでも励ましたいと思っている。あなたが自分のことを「卑屈だ」と、「自己肯定感が低い」と思っているなら、そのことをこの観点から、見つめなおしてみてほしい。そしてもしあなたが私の「同類」なら、私の発見はきっと、あなたの力にもなってくれるはずだ。

ただ私は、別に

「高い理想を持つことが正しいし、誰もがそうするべきだ」

と言っているわけではない。私はよく

あなたはもっと、「身近なしあわせ」を味わうべきだ

と言われるし、その本意は私なりに理解している。だが私はやはり、私の「理想」を追わずにはいられず、その「理想」が実現したところにある「しあわせ」を、求めずにはいられないのだ。

そしてだからこそ、私は

「傲慢なまでの理想を持たずにはいられない存在の葛藤」

を、切実に理解している。だからあなたが私の同類なら、それは大変なことだとも思う。本当にそう思う。だが、一方でこうも思うのだ。

あなたも私と同じように、「どうしても追わずにいられない理想」があったから、この時代の、こんなに大変な激動の渦中にあるこの星に、生まれてきたのではないですか?

あなたが単に「ラクをしたかった」なら、あなたは100年後、あるいは1000年後の地球に生まれればよかった。もちろんその時代はその時代での課題はあるが、それでも今ほどではないだろう。そんなことは、誰でもわかっていたはずなのだ。それでも、あなたは生まれてきた。それは、

「どうしても棄てられない理想」

があったからだ。だからあなたは、それを思い出すべきなのだ。そしてもういちど、それと正しく向き合えばいい。あなたは、独りではないのだから。

私の行く道は、未だ果てしなく遠い。それに私の現状は、私の眼に映る世界は、あまりにもひどすぎる。こんなはずではなかった。この世界はもっと早くもっとよくなっているはずだったし、あなたとはもっとわかり合えると思っていたし、なにより私はもっとうまくやれると思っていた。だが、突きつけられる「現実」がどんなに自分の「限界」を訳知り顔に示してきても、私は私の理想を棄てたくないのだ。そんな私に深く共感できるあなただと言うなら、私はあなたの来た道と、今のお互いの顔を見て、少しだけ苦笑いしながら、それでもあなたのことが好きだと、いつも心から、伝えたいと思う。本当にありがとうございます。どうぞこれからも、よろしくお願いします。

コメント

  1. 鍵盤マーチ より:

    理想が高いからこそ、現状の自分を責めているという感覚、とても分かります。

    お恥ずかしながら、私はどちらかというと相手を責める(実際責めるわけではないですが、心の中で、上手くいかないことを人のせいにしています)タイプの人間です。
    その点ではdilettanteさんとは異なります。

    「責める」事についてではないのですが、私は以前はコンプレックスの塊でしたので、他人から「自己を卑下し過ぎている」とよく言われてきました。
    でもその度に「いやいや、一部では自分に自信があるから、それ以外のところをコンプレックスとし、自分の活動の妨げと捉えてるんだよ。寧ろ自信過剰だよ」と思っていました。
    そもそも本筋からして別のお話ではありますが、「卑下ではなく、自信があるからこそ」という事については、よく分かるなあと思いました。

    そして読み進めながら、dilettanteさんの理想は所謂大我(実はこの言葉の語源、どなたが言い出したのか存じません。dilettante様や読者様の信条にとって不適切な表現でしたら申し訳ありません。)である事が分かりました。
    ですので、「小我からくる理想」が高い私と同じだと思ってしまいし申し訳ございません、そんな気持ちになりました。

    他の読者様のように、理想や喜びを深められるような議論につながるコメントが出来ず、失礼致しました。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、私の場合、私の気持ちの核心にあるものは、

      大切にできるものを拡げたい(世界のいいところ、大切なものをたくさん見出したい)

      ということではあると思うのですが、それはより究極的には

      そんなふうに多くのもの、すべてのものを大切にできる自分になりたい

      ということであり、その意味では明らかに

      「自分自身のため」

      だとも思っています。ですからそういった点から見ても、私の「理想」を過大評価する必要はまったくないと思います。

      また、今回だけでなく、今までのものも含めあなたのコメントからも私は多くを学ばせていただいていますので、そんなふうに卑下しなくていいということも、強調してお伝えしておきたいと思います。

      そしてあなたの理想が少しでも実現に近づくことを、私もいつも心から、願っています。