たとえ「不利な立場」だとわかっていても、私はコインを投げる

与えたものが、少し大きくなって還ってくる。

これは私が確信しているこの世界の原理のひとつだが、これをある側面から見ると、

「後手の有利性」

を示しているとも言えると思う。

これは本来多様な解釈・意味付けができるものではあるが、先ほど言ったように

「ある観点から見ると」

という但し書きをつけたうえで、話を単純化してみる。

そしてまず、

「与えたもの」がなにかという判定をどちらが下すのか?

という問題について、ここではいったんひとつを採ることにする。

それはつまり、

「善意によって生じた悪」と、「悪意によって生じた善」のどちらを「善」とするか?

という問題について、ここではいったん、「結果主義」の観点から見るということである。

そしてこれは、あらゆる「ハラスメント」の類が、

「行為者にそのつもり(悪意)がなくても、受け手が嫌がったら、それはハラスメントである」

という考えかたによることからも、どちらかと言えば多数派の考えかたではないかと思われる。

こうした前提のうえに立つと、「なにかを与える」というのはまさに、

「コインを投げること」

に近しいと思う。

コインは投げられた瞬間には、まだ「結果」が見えていない。

しかしコインを投げられた相手である「場」が、「判定者」となり、そのひとが表か裏かを見定める。ここで言う表は

「成功」(喜び・しあわせ・心地よさ・安心……)

に置き換えていいし、逆に裏は

「失敗」(苦しみ・不幸・不快・不安……)

に置き換えていい。そしてともかくここでは、コインを投げるひとはいつも表を出したいと思っているとする。

すると話はこういうことになる。「自分」と「相手」の二者がいて、どちらかがコインを投げる。するともう一方が、

表でした

とか、

裏でした

という「結果」を告げる。これはもっと単純に言えば、

あなたのしたことは、私にしあわせを、喜びを与えてくれました!

ということになるか、あるいは逆に、

あなたのしたことは、私に不幸を、苦痛を与えました!

ということになるかということだ。

そして、この観点から見ると、なぜこの世界の原理が、

「与えたものが『少し大きくなって』還ってくる」

と言えるのかについて、ひとつの答えが浮かび上がってくる。

それは、

「それは、善くも悪くも、自分が与えたものだから」

だ。

自分がしたことで、相手がしあわせになってくれたら、それは相手自身よりなおうれしいことだ。自分がしたことの結果なのだから。

自分がしたことで、相手が苦しみを感じたのなら、それは相手自身よりなお苦しいことだ。自分がしたことの結果なのだから。

だから、与えたものは、「少し大きくなって」還ってくるのである。

ではここで、視点を逆にしてみよう。今度はコインを投げたほうではなく、

「コインを投げられたほう」(受け手)

の観点から見てみることにする。

先に前提した条件によって、このひとは物事の「善悪」を決定する力を持っていることになる。このひとが、コインの裏表を判定するのだ。

すると本質的に、このひとはとても「有利」であるとも言える。もしコインが表なら、それは自分にとっても喜びだ。そしてその喜びは、コインを振ったひととも共有されている。自分を喜ばせてくれたひとが、自分よりもっと喜んでいるなら、それはとても嬉しいことだ。

では逆に、コインが裏だったら?それはもちろん、自分にとって苦しみだ。しかしそれ以上に、コインを投げたひとにとっても苦しみなのだ。だから、その受け手の苦しみは、必ず共有される。

最初から言っているように、これは「ひとつの観点」から、とても単純化した図式を提示したものにすぎない。現実は、さらに複雑ではある。だが、いろいろな枝葉をいったん脇に置いて、その「根本」を、ある観点から見ると、話はとてもシンプルだ。私たちは、私は、いつもこう問われている。

あなたはそれでも、コインを投げますか?

私は何度か、私のなかに最も強く深くある「願い」が

すべてを深く深く理解したい

ということであると言ってきた。しかしあらゆる願いというのは、その当事者が、能動的にも受動的にも、あるいは他のあらゆる観点からも、好きなように意味づけることができる。

だから私がもし、私自身の最たる願いを最も受動的に解釈したなら、私の採るべき道は、「判定者」(受け手)になることであると言える。

世界が私に与えてくるものをただ受け取って、

これは哀しみだ。これは喜びだ。これは痛みだ……

というふうに判断して、それを持って「理解」だと見なしてもいいということだ。あるいはもっと乾いた見かたで、

これが表だろうが裏だろうが、そんなことはどうでもいい。私は一切判定しない

という道もあるだろう。

実際、こんな道を選ぶことが、特に「悪い」とか、「おかしい」ことだとは思わない。だが私は、やはりこんな道は、選びたくないのだ。

私がいくら

表を出したい!喜びやしあわせを拡げたい!

と思ってコインを投げても、裏は出る。これをまさに

「裏目に出る」

などというが、私はこんなことを数えきれないほど経験してきたし、最近も、今もそうだ。だがそれでも、私はコインを投げたいと思うのだ。

コインを投げる私には、それが最終的に表になるか裏になるかはわからない。それでも私は、コインを投げる。そしてそれは決して

「すべてを運に任せる」

ということではない。確率論の世界では、コインの表が出るか裏が出るかは、ともに確率2分の1だ。だがそれは、

「表が出るか裏が出るかは、どちらも同じ程度にあり得る(確からしい)」

という前提が厳然と成り立つ世界ではということだ。

しかし私は、今もまだ信じている。表が出るか裏が出るかは、ただ漫然とした「偶然」のなかにあるのではないということを。なぜなら私は、生きているからだ。動いているからだ。意志を持っているからだ。だから私が、

表を出したい!

という強い想いによって、いつまでも研鑽を重ねれば、いつしか

「表を出しやすいコインの投げかた」

が、見つかるかもしれない。それは、コインの持ちかたかもしれないし、そのときの呼吸かもしれないし、時間かもしれないし、場所かもしれない。そのすべての複合か、それ以上かもしれない。だがいずれにしても、私はやはり、コインを投げ続けたいと思う。私は、しあわせを、喜びを、拡げたいと思っているからだ。自分の、主体的な、意志と選択によって。私はその「活路」を、いつかは、見出したいと思う。

ただ私がどんな気持ちでコインを投げようが、その裏表を決めるのは、いつもあなただ。そして私はまだ、うまくコインを投げられない。そして私は、別にあなたに嘘をついてほしいとか、取り繕ってほしいと思ったことはないし、これからもない。しかしもし、あなたが私のコインを受け取って、それが裏だったとしたら、それを「あなたの意志」で、もういちどひっくり返してほしいと思うことはある。受け手も本当は、能動的になれるのだから。というよりも本当は、受け手がすべてを決めるのだから。本来は裏が出るはずだったコインを、あなたがもういちどひっくり返して、表にしてくれたら、そのとき私は無邪気にとても喜ぶと思うけれど、あなたのほうがもっと、喜んでくれると思う。だからあなたと一緒に、喜びたいと思う。だから私はまだ、コインを投げ続けている。そしてコインはまだ、あなたの掌のなかにある。