どうしても棄てられない「執着」に、あなたの本質がある

「執着を手放す」

というのは、多くの文脈において好意的に語られる。たとえば

すべての執着を手放した境地、それが悟りです

などと言われることもある。

確かに、執着を少なくすればするほど、そのひとは「軽やか」になる。そして、軽やかなものは好意的に映る。それは爽やかさに近しい。対して、「執着」という言葉は一般的に「重いもの」として映る。それは暗く、澱んでいて、ドロドロとしているように捉えられることも多いだろう。

しかしそんなイメージをいったんすべて受け止めたうえで、私はそれでもこう自問する。

もしすべての「執着」を手放してしまったら、「なにが私を私だとする」のか?

そして私は、この問いに私なりに真摯に向き合ったうえで、執着というものについて、このように考えているのだ。

どうしても棄てられない「執着」、そこに「私」の本質がある

もし私たちの好きなものが、あるいは嫌いなものが、寸分違わず同じだったら、そこに「私」という個性は存在しない。あるのはただ、「私たち」という全体性だけだ。もちろん、なかにはそれをこそ<理想>とし、だからこそそのような「悟り」を目指すひとたちもいると思うが、それは私の「理想」ではない。

私は、他者や世界のすべてと分離して、孤独に存在したいわけではない。だが世界との、あなたとのつながりを深く感じたうえで、それでも

「私が私である」

ということの意味を、どこまでも遺憾なく発揮していきたい。それが、「私」の存在理由である。少なくとも私自身は、そう思っているのだ。

ただ、執着というのは実のところ、

「自分の執着」

に限ったものではない。それは「誰かの執着」に、あるいは社会の執着に、流されているだけかもしれないのだ。だから、そんなものをいくら追求しても、私は私ではいられない。それどころか、どんどん私から遠ざかっていくだけだ。だから、そういったものはいったん、できるだけ削ぎ落として考えていかないといけない。

ただしもちろん、その「執着」はある程度は、「状況」によっても変化する。私がどうしようもない空腹なら、私は食べものに執着するかもしれない。だがもし私の腹は満たされているが、寒くてどうしようもないという状況にあれば、食べものと引き換えにしてでも衣服に執着するだろう。

しかし、今私が考えたい「執着」というのは、もっと切実で、根深いものだ。その濃度の、切実さの小さいものからできるだけ削ぎ落としていって、最後の最後の最後に残るもの、さらに言い換えれば、

「死んでも手放せない執着」

のことだ。その観点から見れば、もはやそれはカネではない。家でもない。衣服でもない。精神、魂である。だが、そこで終わってはいけない。本当に重要なのは、「その先」なのだ。それは、

あなたが死ぬときに、あなたの心は、魂は、いったいなにを映しているのか?

という問いに対する、あなただけの、かけがえのない、答えなのである。

 

それまでの「私の世界」を創っていたものが突如として崩壊して、周りには

「いつ襲いかかってくるかもわからない悪意と敵意」

しか感じられなくなったとき、私は世界に「都合のいい神」は存在しないことを知った。だから私は、世界を知りたいと思った。

なにも知らないままで死んでたまるか!

というのが、私が最初にはっきりと意識した、「執着」だった。

ときが流れるにつれ、私は私なりにではあるが、少しずつ少しずつ世界を理解していった。そしてそのなかで、

お前の力を、正しく活かすことを学びなさい

と言われた。そして、

「自分にできることを、精いっぱい、淡々とやる」

ということを方針に据えた。この方針は、今の私にも脈々と受け継がれているものだ。

だがこの時点では、すべてがまだあまりにも「漠然」としていた。そこには「目的」が、欠如していた。それは

世界を深く深く理解したとして、それで、どうする?

という自問に対する、明確で、揺るぎない答えがなかったということだ。

しかしさらにときが経ち、それは突然、思いもよらないかたちで、私の世界に現れた。そしてそのときから、私は明確で、揺るぎない答えを、目的を手にした。それは、

親も知らず、保護者もなく、誰がどんな目的で置いたとも知れない、まったく自力ではなにもできない赤ちゃんが、それでも愛を感じ、感受性を歪めず、和やかに、晴れやかに、あたたかい心持ちのなかでずっとずっと生きられる世界を、創りたい!

というものだった。私は今でも、このときのことを、鮮明にありありと思い浮かべることができる。そしてその日から、それが

「私の、最大の、かけがえのない、執着」

になった。もし私が、世界をもっともっと、誰よりも深く深く理解できるようになったとき、そこが私の「願い」にそぐわない世界なら、私が変えよう。それが、「誰の思惑」と合致していないとしても、それが私の「執着」なのだから。もしここが神のいない世界なら、私が神になればいい。サンタクロースがいなくて寂しいなら、私がサンタクロースになろう。この赤ちゃんが笑えるように。すべては、ただ一心に、この「執着」のためなのだ。

 

この「執着」は、今も変わらずに私の核心にある。そしてこれが、今の私を私にしているものだ。だからこれは、どうしても、棄てることができない。たとえ他の多くはいざとなれば譲ることができるとしても、私の魂に深く深く宿した決意は、誰であっても、渡すことはできない。忘れることは決してない。もはやこの執着こそが、私の「本質」と融け合っているのだから。

だから、あなたも、本当に大切な「執着」だけは、ずっとずっと大切にしていてほしいと思う。あなたが好きなもの、あなたが好きなこと、あなたが好きな場所……その総合が、あなたである。そしてその核心にある、他の誰のものでもない、気分でもなく、幻想でもない、

「あなたの真の執着」

に向かって歩んでいるあなたの姿を、私はとても、素晴らしいと思っている。あなたがずっと、あなたでいられますように。

コメント

  1. フランシスコ より:

    生き切りたい。そう、願っています。

    • Dilettante より:

      フランシスコさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      生き切りたい

      という素朴で単純な言葉のなかに、強い想いを感じました。

      そして私も、生き切りたいと思っています。

      どうぞご自分を大切に、いたわってあげてください。

  2. より:

    同意です。

    共感しやすい優しい心を持った子が、みんなと微笑みながら暮らせる世界をつくりたい。

    僕もそう強く願います。

    • Dilettante より:

      螢さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、私もあなたもこの想いには相当な「年季」が入っているので、それがこれから少しずつでも実現していくことを、楽しみにしています。

      もちろん私もひとつひとつ、できることに取り組み続けていきたいと思っています。

      これからもよろしくお願いします。