誰かが誰かのからだを切り開き、そのなかに手を加えている
という説明を聴いて、あなたはどう思うだろうか?これは、犯罪かもしれない。だとしたら通報したほうがいい。相手のいのちの危機も迫っているかもしれないし、それどころかもう死んでいるのかもしれない。
しかし、もしかしたらこれは、「犯罪」でも「暴力」でもないのかもしれない。誰かが相手の問題を解決するために、相手のいのちを奪うためではなく、相手のいのちを長らえさせるために、していることなのかもしれない。そう、それはときとして、「手術」と呼ばれるものだ。
だが私もあなたも誰であれ、冒頭に説明したようなことしか把握していなかった場合には、それが「犯罪」(暴力)なのか、それとも手術(治療)なのかを、確定させることはできない。「起きていること」はひとつであっても、それがなんであるかの「事実認定」は、ひと通りには定まらない。それどころか、誰もそれを知らないうちには、そこで行われていることには、
複数の可能性が、どれも真実であり得るものとして併存できる
ということがあるのだ。
それに、もっと大切なことは、もしあなたがその「真実の現場」を目撃したとしても、あなたが「手術」というものをまったく知らなければ、依然としてそれは「暴力」としか映らないかもしれないということだ。そしてそれは、あなたが「目撃者」の立場ではなく、
「行為を受ける立場」
のひとであったとしても、同じことだ。あなたに「手術」の概念と理解がなければ、あなたはあなたのされていることを
「いいこと」
だとは思えないかもしれない。それどころか、あなたは「医師」を、恨むことになるかもしれない。
もっと単純な例を挙げてもいい。あなたの恋人が、あなたと一緒にいるときに、道端で困っているひとを助けた。彼は
「根っからの厚意で」
そんなことをしたのだろうか?それとも
「恋人であるあなたにいいところを見せたくて」
そんなことをしたのだろうか?それは、本人に訊かないとわからない。しかし本当には、
「本人に訊いてもわからない」
のである。
だから、この状況であなたがなにを「真実」だとするかは、あなたにかかっている。そしてここで、「真実」に関する重要なことが浮かび上がってくる。それは、
あるひとの行為をいいこと(善意・無償・自然……)と取るか悪いこと(悪意・打算・駆け引き……)と取るかは、結局は、「あなたが相手を愛しているか」に、大きく左右される
ということである。だから、同じひとの同じ行為を見ても、「そのひとを心から信頼して好意を持っているひと」と、そのひとを「心から軽蔑して嫌っているひと」とでは、真逆の評価になることもあり得る。そしてそれは、「中立の立場」から見れば、「どちらもあり得る」と言える。だからその意味では、あなたが認めたものが、「あなたの真実」になるのだ。
だがここで、
それなら誰のことも愛を保って見つめれば、真実に近づけるんだ!
と思うだけで話が終わるのならいいのだが、実際にはそうもいかない。あなたが誰に対しても「愛」を持っていることで、却って「真実」からあなたが遠ざかることもあるのだ。あなたのからだに触れるひとが、みんなあなたを「治療」しようとしているとは限らない。もし相手があなたに「殺意」を持っていたら、無防備なあなたは簡単に殺されてしまう。これは、
「愛によって眼が曇ってしまった事例」
であるとも言える。
なぜこのようなことが起こるのだろうか?今の私なりのひとつの答えは
愛はどこかで必ず、「期待」を帯びることになるから
だ。相手を愛しているからこそ、たとえ無意識であっても、
自分と相手は、必ずいいものを与え合える
と期待してしまう。だから、相手から受け取るものはすべて、いいものであると思う。しかしそれが、ある時点で自分に「害」をもたらしてしまったとき、その「期待」は「失望」へと変わり、自分の「愛」が単に
「真実から遠ざける香水」
でしかなかったことに気づく。
どうしても、こんな未来を実現したい!
という想い・その期待が、その強さ故にこそ、
「別の可能性への目配り・対処・心の準備」
を遅らせたのだ。だから「愛」はその意味では、やはり簡単に扱えるものではないのである。
そのことを思い知らされたとき、私たちは期待を、愛を棄てようとする。誰のことも愛さなければ、誰に期待することもない。そして誰にも期待していないなら、あなたの眼に「色」はなにもなく、そのすべては
「ただ、ありのままにあるだけ」
に見える。その世界は静かで、安定している。絶望は哀しいもので、本人をも傷つけるものだが、「正しく絶望した存在」は、その絶望のなかで安定する。彼を傷つけるものは、もはやない。そして彼は、「彼の真実」を手にすることになるだろう。
だから私たちは、愛によって眼が曇ることもあるし、絶望しなければ見えないものもある。そしてその絶望のなかで、安定するという道もある。これはすべて、私も実感的に知っている「真実」だ。だがそれでも、私はあなたに、もうひとつだけ忘れてほしくないことがある。それは、
たとえここまで書いてきたことのすべてが「真実」だとしても、それでもなお、世界には、「愛がなければ見えない真実」も、確かにある
ということなのである。
「正しく絶望した存在」は、絶望しているからこそ、誰も愛さず、誰にも期待しないからこそ、
「愛から受ける害」
のすべてを、最も的確に避け得るかもしれない。だがだからこそ、彼は世界に確実にあるはずの、愛の種、希望の芽をも、見過ごしてしまうのである。絶望のなかで安定することの唯一最大の欠点がこれだと言ってもいいと、私は思っている。
愛と希望は、常に「不安定で、流動的」なものだ。対して、絶望はある意味では「安定的で、永続的」なものだ。「天国」に100億年い続けることよりも、「魂の墓場」に1兆年いることのほうが、ある意味では、簡単かもしれない。生きている存在を殺すことは今の私にもできるが、死んだ存在を蘇らせることは、私に今の1億倍の力があってもできないのだ。
だが、だからこそ、その「不安定で、流動的で、不確実な愛」には、「奇跡」を起こす力がある。たったひとつの未来のできごとが、過去のすべてのできごとの意味を一変させる。そして愛だけが、変化しながらも永続的なものを、生み出す可能性がある。これもまた、愛がなければ決して見えない、真実なのである。
私たちは、誰でも、愛されたいと思っている。もちろん、私もだ。そして、
愛されたければ、まず相手を愛しなさい
というのは、多くのひとが言うことである。だがその意味は、単なる「駆け引き」ではない。
「与えたものが、少し大きくなって還ってくる」
という、世界の仕組みに則っているというだけにも留まらない。それは、
「相手を愛さなければ、相手から愛されていることにも、気づけないから」
でもあるのだ。だからやはり、真実は、愛がなければ、決して見えないのである。だからあなたが
私は本当に、相手から愛されているのだろうか?
と疑問を持つなら、その瞬間に
私は本当に、相手を愛せているのだろうか?
と自問してみればいい。その2つの質問の答えは、きっと、そうズレてはいないのだから。
私は、あなたのことを愛している。ただこれが真実であるかどうかは、最終的には、あなたに決めてもらうしかない。そして私も、この世界が愛から生まれたものなのか、あるいは別のなにかから生まれたものなのか、まだ
「最終的な結論」
を出せずにいる。しかし今の私には、世界に希望と愛の芽が出る音が、まだ聴こえている。だから私はあなたがくれたその「聴力」を大切に、泣き笑いしながら、今日も、生きている。そしてその愛と希望がやがて大樹となったそのときには、その幹に寄りかかって、あなたと一緒にもういちど、笑ってみたいと思う。

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いつも真摯にご自身や世界と向き合い続け、そこから得た考察を丁寧に届けて下さり、ありがとうございます。
今回のお話で、アガペの愛(無償の愛)について考える機会を頂きました。
愛とは、、、
よくまだわからないのですが
わからないくせに、こんな未熟な私が愛について申し上げることもおこがましいのですが
どんなときも、何ものにも影響されずに
寄り添い、愛おしみ、抱擁し、全てを赦し、受け入れる
そんなエネルギーなのかなあと想像しています。
愛 イコール 神そのもの、と言ったら近いかも知れません。
誰かに愛を捧げ、それが叶わなかったとき、期待を裏切られた感が涌いたとしたら
それはまた純粋な愛ではなかった
若しくは
最初は純粋な愛だったけれど、相手の反応によって自分のエゴが引き出され、途中ですり替わってしまった
いずれにしろ、純粋な愛に至っていないだけなのではないか
本当の愛は、結果を必要としないものではないか
ただひたすら、変化していく『今』という一瞬一瞬の状態そのものを受け入れ、愛する
それが、どんな一瞬であっても。
存在は、単体では己を知ることができない
自分を知るために分離した私たちは
試行錯誤して己を確かめながら愛そのものに至ろう(戻ろう?)としている途上なのでしょうか?
だとすれば、もとは全て一つ
愛が真実で、怖れは愛を確認する為のコントラストとして作られたものなのか?
愛は心地良いし(だから本来の自分自身なのかなあと)、外に向けて広がっていくもので
怖れは不快であり、内へ内へと収縮していくものだから。
いや、コインの表裏のように、もともと愛も怖れも一体なのかも知れない。
拡大と収縮を繰り返す宇宙の様に。
そんなことを考えたりしました。
とりとめの無い話になってごめんなさい。
長くなりますが、教えて頂きたい事があります。
以前、お陰さまで守護霊様に手を合わせるようになって、心が穏やかになったり幸福を感じることが増え、守護霊様の存在を実感したとメールしたのですが、もう一つ。
近所にお堂があります。
何らかの供養の為に立てられたものらしいのですが、石が古く供養と言う文字以外よくわかりません。
以前はその前を通るとき何となく怖くて避けていたのですが
近所の一角を掃除するのが習慣になり、無碍に通り過ぎるのも気が引けて、近くで見守って下さる御仏様として感謝の意を込めて手を合わせるようになりました。
すると、何とも言えない心地よさに包まれます。
最近ではお堂を思い出すだけで心地よさに包まれ、応援して頂いている様に感じます。
お聞きしたいのは
1.今手を合わせているお堂の御仏様はどのようなお顔をされていらっしゃいますか?(顔立ちではなく、表情。満たされているか、悲しそうだったりしないか)
また、何かして欲しい事がある様ですか?
そしてそれは未熟な私でも可能な事ですか?
2.守護霊様始め神様、御仏様に、私はこの身体を通して何をしたくて生まれてきたのか、教えて頂きたいのです。
この身体をまだまだ生かし切れていない気がしています。
が、何をしたいのかわからず、かと言って新しいところに飛び込む勇気も無くて(そのリスクを侵すほど強い希求もない)
その癖輝いている魂を見ると焦りを感じ、自分を卑下したり相手を羨ましく思ってしまい苦しいのです。
どうにもならない感情なので手放せますようにお導きをお願いしていますが、まだまだ自分の鍛錬が足りないと感じています。
とりあえず、やってみようと思ったことはそのままにせず始めてみることにしました。
が、本当にやってみたいのかと自分に問うてみると、、、わからず、揺らいでしまいます。
情けないけれど、誰かの後押しが欲しいのかも知れません。
どうぞ宜しくお願い致します。
先ほどコメントを送った者です。何度もすみません。
ただ宜しくお願い致します、なんて一方的で申し訳ありませんでした。
ご体調に合わせて、尚且つご返信しても良いかなと思ってくださったらで結構です。
お読み下さってありがとうございました。
アイビーさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
私の文章や想いから、いろいろなことを考えていただき、ありがとうございます。
ご質問についてですが、まず「お堂」であれ神社仏閣であれ、いわゆる
「パワースポット」
と言われるところにも、複数の存在やエネルギー体が集まっているもので、それはたとえば
最近スピリチュアルに精通された方たちのホームページ等を読むのですが、
大変立派なことをかいてるんです・・・・。
でもそのうち疑問が生まれるわけです。...
などにも書いたことがありますが、ともかくあなたのしていることは、(負の霊以外からは)好意的に受け止められることだと思っていいです。
感謝の気持ちというのはあたたかいエネルギーなので、それを与え合えることは、素晴らしいことです。ですからこれからもあなたのしたい範囲、できる範囲で、続けていかれたらといいと思います。
それから、あなたは最近近所の一角を掃除されるようになったとのことですが、もしそこに喜びが見出されているのなら、それも続けていけばいいことです。あなたご自身もおっしゃるとおり、まずは自分がやってみたいと思ったことを、できる範囲で続けていけば、それでいいんだと思います。
そのうえでたとえば、
「掃除する・きれいにする」
ということが楽しいということに気づいたのなら、今度は自分自身の中身もよく振り返って、整理したり、きれいにしてみたりしていくことに関心を向けてみるのもいいかもしれません。それは、単に精神的なことだけではなく、たとえば「食べもの」であったり、「衣服」であったりなども含めてのことです。
なににつけても肉体界はとても
「雑然としている世界」
であり、それは現代において特に顕著ですが、だからこそそのなかから
「自分の喜び・自分の道」
を見出されることは、とても嬉しいことだと思います。またそのことについては、特に
99点で満足するな、100点、120点を目指せ!
などというようなことを言われたり、耳にしたことは誰でもあると思う。そして、そのような「強烈な向上心」は、確かにひとを成長させることもある。
...
でも、強調して書いたことがありますので、よろしければ参考にしてみてください。
そしてもちろん私も悪戦苦闘しながらではありますが、自分の人生にそういうものを、たくさん見出していきたいと、そう思っています。
それからあなたはとても思慮深いひとなのだろうと思いますし、それはとても素晴らしいことですが、
などというのは、少なくとも私に対しては、まったく必要のない恐れ(躊躇)なので、あまり気にせずに、これからもなにかあれば、いつでもお声かけくださいね。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
お返事ありがとうございます。
心がぶれ、負の霊と共振していると思われる時もまだまだあります。特に、心が喜びでぶわっと広がった後にその揺り戻しが来ることが多いです。
なので、お堂の掃除やパワースポットへの参拝はまだ恐る恐るといった感じで、私にはまだそういったスポットに近づくのは早いのでは?と思う時もあります。
今のところやらずにはいられない程の何かは見つかっていませんが、これからも無理のない範囲で、またパワースポットに伺う時は心を整えるように注意しながら、出来ることをやって行こうと改めて思いました。
衣・食事(特に衣)のことは視野外でした。
心に留めるようにしてみます。
アドバイスに深く感謝致します。
ええ、私自身も
「自分の心を落ち着いた状態で保つ・負の念に呑まれないでいる」
というのは、いつまで経っても完全にはできないでいますが、だからこそここにもそのときどきの様々な記録を残していますので、少しでも参考にしていただけたらと思います。
また、衣服のことに関しては、今までまとまった言及をしたことがほとんどないことに気づきましたので、この機会に
「エネルギー体」
だと捉えてもいいということになる。ただその「エネルギー」には様々な要素が絡み合っている。
にまとめました。併せて参考にしていただけましたら嬉しいです。よろしくお願いします。