生まれ変わるときにすべてを忘れるのは、「どこまで行っても自分は自分でしかない」ということを思い知るためでもある

先日、私はここに「衣服」についての私の見解をまとめた。

私たちは誰でも、エネルギーを持っている。だからそれを 「エネルギー体」 だと捉えていい。ただその「エネルギー」には様々な要素が絡...

この文章を書いたときの本旨は、衣服も含め、

「自分を補佐してくれるものとのよりよい付き合いかたを模索する」

ということにあったとも言えるが、そもそも私たちがこの世界で活動するにあたり、どうしても欠かせないものがある。それが、

「肉体」(からだ)

である。

私たちは、まず第一に「魂」である。そして魂にはそれ自体に

「エネルギー・意志・想い」

が宿っているので、それが私たちの存在の根底を成している。

しかしそのうえで、私たちがこの世界に生まれてくるとき、私たちは

「肉体」(からだ)

に宿る。肉体は、その様々な部分にとても興味深い特徴を持っているのだが、この世界でなにかを為そうとしたら、いずれにせよなんらかのかたちで肉体を通すことになる。だからこの世界を、霊界と対比して

「肉体界」

とも呼ぶことができる。

そして私たちは、この世界にこのように存在することを決め、実際に宿ることを決めた時点で

「肉体に宿る霊」(霊止・霊留・ひと)

となる。だからこれは、先日の文章の文脈に載せれば、

「霊(魂)が、『肉体という衣服』を着て存在している」

というふうに表現することもできる。しかし、この「衣服」にはやはりとても興味深い特徴がある。それは

「この服を着ると、その服を着る前の記憶が、一時的に、しかし、確実に、薄れ消えていく」

ということである。

この「力」はあまりにも強力であるから、その服を着たあとの教育(刷り込み)によっては、

「自分が選んでこの服を着た」

ということも、

「そもそも自分が最初から、この服を着ていたわけではない」
(この服を着ていない自分・これ以外の服を着ていたときの自分が存在する)

ということも、忘れてしまう(なかったこととして生きる)ことができる。実際に、現代社会のほとんどのひとが、こうなっている。

しかし一方で、この

「自分が選んでこの服を着た」

「そもそも自分が最初から、この服を着ていたわけではない」
(この服を着ていない自分・これ以外の服を着ていたときの自分が存在する)

という事実を認識した、あるいはこれが事実である可能性を追求したくなったひとのなかには、

では、自分はなぜこの服を選んだんだろう?

この服を着ていないときの自分は、どんなふうに生きていたんだろう?この以外では、どんな服を着て生活していたんだろう?

ということに、とても大きな関心を持つようになるひとも出てくる。

この気持ちは、ある部分ではとても自然なことであるし、そのすべてがおかしいということでもない。だが、考えてみてほしい。服は結局は服であって、それ以上でもそれ以下でもない。だからその意味で、あなたが過去にどんな服を着ていたかということに、まったく意味がないわけでもないが、たいした意味もないのである。

これは別に霊的なこととして特別に考えるまでもなくわかることだ。服は(自分が自由に選んでいい場面である限り)結局は

「自分のセンス(感覚・発想・感受性)」

によってのみ決定される。だから、同じひとが選んで着ている服であるなら、たとえその「色」や「質感」や、「絵柄」にバリエーションがあるにせよ、やはり一定の「哲学」(想い)が通底している。まして、肉体という

「基本的には少なくとも数年以上、場合によっては100年以上」(現在の地球の場合)

の間変えられない服を選ぶのであればなおさら、そこにはどうしても、「自分の感性」が表現されるし、そうであるべきである。

そしてもちろん、肉体人の人生に大きな影響を及ぼす

「環境要因」

には、肉体以外にも

「家庭環境・周辺環境」(=どの時代の、どんな場所の、どんなひとたちがいるところに生まれるか?)

といったことも大きく影響することは間違いないが、そうしたことを選ぶときにも、やはりそのひとの

「個性・感性・好み・クセ」

といったものが大きく反映される。

だからやはり、そこには必ず一定以上の

「共通要素」

があるのだ。

だから、私はあなたが過去にどんな服を着ていたかについて、それほど気にする必要はないと思っている。そしてそれは、言ってしまえば

「今あなたが着ている服を見れば、そこに充分顕れている」

というのも事実だ。だからそれは、本当には、たいしたことではないのだ。

逆に言えば、私たちがほぼ完全に過去生を忘れて生きる仕組みになっているのは、

「『どこまで行っても、自分は自分でしかない』ということを、これ以上なくはっきりと、認識させられるためだ」

とも言える。

もし私たちが、過去生のすべてを憶えている状態で生きているとしたら、人生がうまく行かなかったときに

この人生のこんな記憶に影響されて、それでうまくできないんだ!過去があるせいで、自分はいつまでも自由じゃないんだ!

というような「言い訳」をすることもできてしまうかもしれない。だが実際には、それを忘れているおかげで、私たちは

「自由」

である。そして、そんな自由のなかで選んでも、そこに見えてくる傾向のなかにこそ、

「自分の、自分らしさ」

があると言えるのである。

 

とはいえ、それでも

でも自分の過去の失敗談(体験)を、もっと自在に活用することができたら、今生のこの状況における決断にも、活かせるはずなのに!

と思うかもしれない。そしてその気持ちは、私も理解できるものである。

だがこれには、ある判断の際の

「最善」

には、そのときの

「状況」

が大きく関わっていることを考えなければいけない。だからたとえば

これと似たような状況で、1000年前にはこんな決断をして、失敗した(自分の思うとおりにならなかった)から、今度はこっちの道を行ってみよう

ということができたとしても、それで成功するとは限らない。むしろさらにひどい失敗をすることもあり得る。それにそもそも、どれだけ「似ている状況」を探したとしても、それは

「まったく同じ状況」

ではないのだから、その「わずかな違い」が、結果(最善の選択はどちらか?という答え)に決定的な影響をもたらすかもしれない。それに、過去生のそれぞれに「似たような状況」が複数見つかった場合には、

「そのお互いの『結果』を見比べて検討しているうちに、結局なにがなんだかわからなくなり、そうこうしているうちに人生が終わってしまう(機会が過ぎてしまう)」

ということも充分あり得るのだ。

より多くの情報を持っていれば、より正しい選択ができるというわけではない

という事実は、誰よりも

「高度情報化社会」

を生きている私たち自身が、身に染みてわかっているはずだ。

それにもし、そういった課題のすべてを踏まえたうえで、それでもなお、私たちが今よりもさらに「過去の情報」を自在に引き出すことができたとして、その「過去」たちが、

やめろ!もうその道でしあわせになれないことは、わかりきったじゃないか!そっちの道は間違いだ!こっちの道に変えろ!

などと言ってきたとして、私たちはその「決定」に、従いたいと思うだろうか?

もちろん、ときと場合にはよる。たとえば私がご飯を食べに行こうとしたとき、

その店の料理はあなたの口には合わないと思うよ!どうせなら、こっちの店のほうがいいって!

などと言われたくらいのことなら、私は別にその意見に強硬に反対したりはしないだろう。だがそれが、

「誰になんと言われようと、たとえどんなに勝算が低かろうと、それでもなおやりたいこと」

なのであれば、私は「過去のデータや実績」がどうであろうと、やはり私の道を貫くだろう。それが私の「哲学」であり、

「私を私にしているもの」

だからである。

ただもちろん、私は単に「無謀・自爆」に出たいわけではない。だから過去生でないにしても、既に今生の様々な体験は活かし、

「理想は変えないとしても、だからこそそれを実現する『勝算』を少しでも高める努力」

はする。だから私は、ただの「過去生の焼き直し」をする気はない。私はいつも、いつまでも、成長したいと思っている。

 

だがそのうえで、私自身の体験を明かすと、私は今までの数ある生まれ変わりのなかで、いくつかの過去生について、実際に何割かの概略を思い出している。しかしそれはやはり、

「どこまで行っても、どこまでも自分らしい人生」

だった。生まれた時代も、家族構成も、肉体の状態も、性別も、生きた長さも、それぞれに違うのに、それでもやはり「私」は、それぞれの環境の、それぞれの状態のなかで、本質的には今と変わらない理想を掲げ、同じことで苦悩し、同じように生きていた。だから私は、その意味で特に「驚き」もしなかったし、「感動」もなかった。「私」は、やはり私だった。

そして私は、そのような「私たち」に対して、一応このように訊いてみた。

今の私に対して、なにか具体的なアドバイスはある?私は、間違ってると思う?

しかし返ってきた答えは、とても単純だった。彼らは私にこう言った。

特に言えることはない。あなたのやろうとしていることは、私のやろうとしたことと同じだから。でもだからこそ、私たちはみんな、あなたを応援してる。あなたが私たちの「最前線」にいるのだから

 

服をどんなに変えようが、アクセサリーをつけようが、整形しようが、私は私であって、あなたはあなたである。どこまで行っても、私たちはそれぞれに、

「自分自身」

であることから逃れられない。

だがこれは、決して「絶望」を意味するものではないと、私は信じている。私は私でしかないが、しかしだからこそ、私として成長し続けることができる。私の服が変わろうと、私が私でい続けられるのなら、私は永遠に、夢と理想を追い求めることができる。だから私の夢と理想は、いずれ必ず、間違いなく、叶えられるのである。永遠をかけて、叶えられないものはなにひとつない。だからこそ、

あなたは、なにを望みますか?

ということを、私たちは素朴に、しかし強く問われた。そしてその答えが、私たちそれぞれの魂に、深く刻み込まれている。それが、すべての始まりだ。そしてその夢は発展し続けるだけで終わることは決してない。だからあなたはあなたであり、そうであるからこそ、その世界は、永遠に続くのである。これは揺るぎない確かな希望であり、最も単純で力強い、私たちの、生きる意味である。

コメント

  1. なすび より:

    前世や生まれ変わりがあるという事実、自らこの体を選んで生まれてきたという事実は最初知ったとき本当に驚きました。

    嘘でしょ?と思って調べましたけど、調べれば調べるほどそれを裏付ける証拠が出てきて、今は私も全面的に肯定しています。

    もっと多くの人にこの事実を知ってもらえたらなと思います。いずれ臨床宗教師ではないけれど、時期のきた人にこの事実を側にそっと置いてあげられるような人間になりたいです。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、前世や生まれ変わりについては、少しは耳にしたことがあるひとも多いかと思うのですが、このことをきちんと腑に落とすことができれば、よりよい選択ができるようになるのではないかと、私も思っています。

      また、

      「自らこの人生(からだ)を選んできた」

      というのは

      前世の業・報いのせいで不幸を宿命づけられているんだ!

      というような、「間違ったカルマ思想」を打破するのにも役立つと思いますし、私もいろいろな観点から、より伝わりやすい表現を、ずっと模索していきたいと思っています。