不幸だから死ぬのではなく、不幸だからこそまだ生きなければいけない

生きていることは罰ではない。私たちはしあわせになるために生まれてきた。しあわせにいるために生まれてきた。だから本当には、いつもしあわせを感じられていて当然だとも言えるし、そうでないような状況は、「異常事態」である。

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

このすべてに対して、私は完全に同意する。だから私も、これが真実だと確信している。だがだからこそ、

「真実から導き出される、『真実に見える間違い』」

には、気をつけなければいけない。そして実際に、その間違いは強力で、多くのひとに染み込んでいる。私のところに、何度も同じ言葉が、違うひとによって届けられる。それは、

私は今あまりにも不幸です。どこにもしあわせも喜びもありません。だからもう、死んでもいいと思っています。自殺してしまいたいです

というようなものだ。しかしこの

不幸だから、もう死んでしまおう

という想いこそが、

「真実に(正しく)見える間違い」

のひとつなのである。だから私は、あなたに心から、何度でも、こう言いたいのだ。

あなたが不幸だと思っているなら、実際にそれが事実だとしても、だからこそあなたは、まだ生きなければいけないんです

私たちは、苦しむために生まれてきたのではなく、喜ぶために生まれてきた。不幸に呑み込まれるためにではなく、しあわせをどこまでも深め、味わい続けるために生まれてきた。冒頭にも言ったように、これは揺るぎない真実である。だからここから、

じゃあ今の「喜びのない私の人生」は、「しあわせを感じられない私」は、「人生の本来の目的に適ってない」とも言えるし、「人生の価値を失っている」とも言える。だから、もう終わりにしたい

と考えるのも、一見して、そんなに間違っていないように思われてしまう。先に述べたように、そのようなことを私に言ってくるひとも、実際にたくさんいる。そして正直に言えば、私自身もそういうふうに考えてしまっていた時期があるし、今でも少し気を抜くと、そんな考えに染まりそうになることもある。

だがだからこそ、

「『この真実にも見える間違い』が、どこでどう間違っているのか」

を、何度でもていねいに考えることは、大きな意味がある。

ではまずここで、この考えに染められそうになったときに、同時に頭をもたげてきやすい「もうひとつの考え」について、見てみることから始めよう。それは

この世界から抜け出せば(この人生を終わらせれば)、そこには今より少しでもいい場所(天国)がある

という想いである。これをここでは端的に

「天国幻想」(理想郷幻想)

と呼ぶことにしよう。この天国幻想はとても強力で、ほぼすべてのひとに多かれ少なかれ影響を与えているとさえ言えると思う。だが、これは、あくまでも「幻想」である。なぜなら、

死んでこの世界を抜け出したとしても、それはただ「からだを離れた」という以上のものではない。だから「その程度のこと」で、根本的にしあわせになることも喜びが増えることもないから

なのである。

端的に言えば、肉体界と霊界で、しあわせなひとの数と不幸なひとの数(その比率)はさほど変わらない。これはまさに、霊界と肉体界の関係が

「鏡写し」

になっているということを意味しているとも言えるが、これが素朴な事実である。そしてこれは、

「結局のところ、そのひとの存在を決定づけるのは、そのひとの心の有り様に尽きる」

ということを、示しているということである。

またこれは、視点を逆にしてみるともっとわかりやすいかもしれない。つまり、

もしそんなにも霊でいるの(霊界で過ごすの)がしあわせなら、わざわざそのしあわせを棄ててまで、肉体に宿って、肉体界にやってくるだろうか?

と、考えてみればいい。私たちは、霊であれ肉体人であれ、その「本質」はまったく変わらない。私たちは、徹頭徹尾

「しあわせを深めるため」

に生きている。だから、霊存在でいるのがそんなにもしあわせなら、そのまま霊存在でいればいいのだ。私たちは、それほど

「自虐的」

ではない。ということはつまり、

私たちがわざわざ肉体に宿ったのは、肉体を持たずにいてもしあわせではなかったからだ。だからこそ肉体に宿ってまでこっちに来たんだ。それなのに、また「肉体だけを脱ぎ棄ててみた」ところで、どんなに楽観的に見ても「以前に戻るだけ」で、そこに「ここにないしあわせがある」ということは、あり得ない

ということなのである。

そしてこれは、実のところ先ほどの

「天国幻想」(理想郷幻想)

というのとは別の、「もうひとつの幻想」が関係しているとも、私は思っている。それは、

私たちはこの世界に来る前、「ここよりももっともっと素晴らしい場所」で、「ここよりもはるかに満ち足りた生活」を送っていた。けれどもふと見ると、この地球が、肉体界が、あまりにもひどく哀しい状況に陥っていた。だから私たちは、いても立ってもいられなくなり、この世界を救うために、ひと肌脱いで立ち上がることにした

というものである。ここではこれを

「救世主幻想」(同情・憐憫幻想)

と呼ぶことにしよう。しかしこれは、ほとんど完全に、間違っているのである。

重ねて強調するが、私たちは、それほど「自虐的な存在」ではない。自分の喜びが低くなるしか有り得ないことを、進んで選びたがるようなことはない。そして私たちがどこでどう過ごすかは、自分自身の選択によって最終決定される。だから私たちは、「救世主」などではない。

とはいえもちろん、私たちの根源には、

みんなと助け合いたい。あなたが苦しんでいるなら、それは減ってほしいし、あなたにも喜んでほしい。そして一緒に、喜びを深めたい

という気持ちがあることも確かだ。だからこそ、あなたもこの世界を放っておけなかったのだし、後衛(外野)よりは「前衛」(内野)を選んだのだし、そのことを「喜びとして、自分自身の意志に基づいて」選んでここにやってきた。そのことは、私もよくわかっている。

だが一方で、私たちがここにいるのは、どこかで確かに

このままずっと霊界にい続けるのも、なんだかうだつが上がらない。今にそれほど大きな不満があるわけではないとしても、ここからさらに「次の景色」を見るのには、なんらかの「新しい風」を、入れるしかない。だったらそれには、肉体に宿るのがいちばん効果的だ

という想いが、あったからなのだと思う。少なくとも私自身は、そうなのだ。

 

私はいつも、変わりたくて生まれてきた。もっと精確に言うなら、

「変えたくない自分の信念を、もっと効果的に表現できるように変わりたいから」

生まれてきたと言える。そしてそれは別に、今生に限った話ではない。

私が少なくとも私自身の確信として持っている真実がある。私が最初に地球に肉体人として関わることを決めたのは、

「それまで積み上げてきたすべてが否定されたように感じ、このままここに居残っても、なにをどうしたらいいのかまったくわからなくなったとき」

だった。だから私は、

「それまでの自分なら、絶対にやりたくなかった(やる気になれなかった)こと」

をすることにした。それが、

「肉体を持って(しかも他の星ではなく、地球に)生まれること」

だった。そして私は、地球に生まれてきたのである。

その「最初の人生」がどんなものだったのか、今の肉体に宿った状態ではなおさら、思い出せはしない。それに、その詳細を思い出すことに、たいした意味もない。ただ私は、楽しくはなかった。

「成功した人生」

だったとも、まったく思えなかった。

だがそこから帰ってきたからといって、しあわせになったわけではなかった。排泄の必要性がなくなったし、完全に自給自足できるようになったし、身軽で自由にもなった。だが、それだけだった。私は相変わらず、私でしかなかった。

先日、私はここに「衣服」についての私の見解をまとめた。 この文章を書いたときの本旨は、衣服も含め、 「自分を補佐してくれ...

だから私は、またある程度の間霊存在として過ごしたあとで、また肉体界に生まれ変わることにしたのだった。誰と比べるかにもよるし、それは「競争」でもないが、私が「生まれ変わる頻度」は、比較的多いと思う。

そしてそれは、ある視点から言えば、

霊でいても肉体に宿っても「同じくらいつまらない」から、だったら交互交互に、いろいろやってみよう

ということだのだと、今でも思う。

ただもちろん、そこには「喜び」もあった。私は少しずつ少しずつ、「変化」した。それは、「成長」と言ってもいいと思う。そしてなにより、私は諦めたくなかった。だから、諦めなかった。この「諦めの悪さ」は、私が私自身を説明するときの、重要な要素だと思っている。そして自分のそんな部分は、嫌いではない。

 

だから私は、今もまたここにいる。私は、自分を変えたかった。自分をもっと成長させたかった。それは、このままでは、生きていることがつまらないからだ。伸び伸びとしていない。どこか頭を抑えられているようだ。「変化の範囲」が一定を超えない。自分自身が自分の期待を超えていない。「最悪」というほどではないが、「最高」というにはほど遠い。このままでいても、埒が明かない。これが、霊存在であったときの私が、いつも抱えていた想いだ。だから私は、ここにいるのだ。

そしてこれは、今肉体人として生きている私の想いとほぼなにも変わらない。だから、その意味では、私は確かにさほどしあわせではない。人生の目的を達せられていないし、そこに少なかった、特筆するほど大きな価値があるとも思えない。だがだからこそ、私は、まだ生きようと思っているのである。

 

私たちは、すぐ大きな勘違いをさせられてしまう。

今がしあわせだから生きようと思えるんだ。今が不幸なら、生きる意味なんてない!

今がしあわせなら、明日も生きようと思える。これは当たり前だ。今がしあわせだから、その延長線上にある明日にも、きっといいことがいっぱいある。だったら、今死ぬのはもったいない。そう思うのは、ごく自然なことだ。

だが一方で私は、

もし今日私が心からのしあわせを味わえたなら、そのときに死んでも悔いはない

とも思うのだ。私たちはしあわせになるために生まれてきた。だからしあわせを感じられているなら、その「目的」は果たされている。生まれてきた喜びを魂の奥底から感じられているときほど、死んでもいいと思えるときはない。だからそのときにこそ、私は死にたいと思う。

だが、今はそんなときではない。だから私は、まだ生きなければならない。そしてそれは、私だけではないのだ。だから私は、何度でも言おう。

あなたが不幸だと思っているなら、実際にそれが事実だとしても、だからこそあなたは、まだ生きなければいけないんです。「不幸だから死ぬ」のではなく、「不幸だからこそ、まだ生きなければいけない」んです

それは、不幸を味わい続けるためでは決してない。ただ単に、

「ハッピーエンドを迎えるため」

だ。とはいえどんな人生にも「寿命」というものはある。だがだからといって

「バッドエンドだとわかっているのに、わざわざそこで自ら幕を下ろす」

のは最も間違った、哀しい選択なのだ。そして生きている限り、私たちは「ハッピーエンド」に向かっていかなければいけない。それは誰よりも、自分のためである。

それにもしあなたが

こんなにしあわせなら、もういつ死んでもいい!

と心から思えていながら、にもかかわらずまだ生きていられるようになったら、そこにあなたの天国があるということである。天国は、「ここではないどこか」には決して存在しない。だからこそ私たちは、

「ここに初めての、かけがえのない天国」

を創り出すために、ここにいるのである。私たちは死ぬために生まれてきたのではない。

「死んでもいいと思えるほどのしあわせを味わいながら生きる」

ために、生まれてきたのである。私もそのことを忘れないでいようと思うから、あなたにも決して、ずっと忘れないでいてほしいと、そう思っている。

コメント

  1. めぐめぐ より:

    今回のテーマも胸に刺さりますね。

    そのとおりだと思います。

    あの世が天国なのではなく

    現世での天国。これが大事だと思います。

    • Dilettante より:

      めぐめぐさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、私もなんとかして、この世界に天国を創ってみたいと思います。

      そしてそのあとも、そんな場所で、生きてみたいと思います。

      どうぞこれからも、よろしくお願いします。

  2. なすび より:

    激しく同意します。

    今日は先ほどまで、卒業生の送別会をやっていました。

    (飲み会などがあった後はなぜかこのサイトを訪れたくなるのです笑)

    彼ら、彼女らの姿を見ながら、社会の荒波に揉まれることになるのだろうけれど、幸せを求め続けて欲しいなと密かに思いました。

    そしてそう思える自分に気付いて、少し前に進めたように思い、嬉しかったです。

    人に不満ばかり感じていた自分、人のやることなすことに文句ばかり心の中で言っていた自分、他の人が知らない霊的な真理を知っていると自惚れた自分。

    自分のことで精一杯だった自分が少しだけ、本当に少しだけだけれど、人のことを思いやることができるようになりました。

    霊的知識だって私には必要だったから、授かっただけのこと。そして、守護霊など、導いてくれる人たちの協力があって授かったわけだから、私だけの力じゃないってことに気付くことができました。

    こんなふうに地道に、学びながら、幸せになれたら最高です。

    これからの人生、お金とか地位とか、その他諸々、誘惑が多いので、道を踏み外さないようにしたいです。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      「他のひとが知らないことを知っている」

      というのは、ある立場から見ると

      イタイひとだ

      電波系だ

      などと思われることもあり、結局のところ

      自分自身がなにを信じ、どういう信念を育むか?

      ということに尽きるのだろうとも思いますが、少なくとも今のあなたにとって、ここが

      「憩いの場」

      になれているなら、私もとても嬉しいです。これからあなたの状況が変わっても、あなたが大切にしたいものを、ずっと大切にしていられることを、私も心から、願っています。

      • なすび より:

        そうですよね。。

        色んな考えの人がいるけれど、でもやっぱり、私は、”見えない世界はある”というのが”事実”だと思うので、それを土台にして、自分の信念をつくっていきたいと思います。それこそ、Dilettanteさんの師匠さんのように、飄々と自分の道を歩んで行けたらいいなと思っています笑

        でも、”自分は知っている”というのはすごく危険な考えだなと私自身思っていて、どうしたら、その危険を回避できるのだろうと悩んでいます。

        私が今のところ考えているのは、”所詮五感でしか世界をとらえることの出来ない人間の知れること、やれることなどたかが知れている”ということを忘れないこと、五感を使って、日常生活をできる限りしっかりとしたものにすること、色んな事にチャレンジし、失敗しながらも前に進むことなのかなぁと思っています。

        温かいコメント、いつもありがとうございます(^_^)

        • Dilettante より:

          ええ、私も師のように飄々とした境地に敬意も抱いているのですが、少なくとも今の私にはあのようにはできないので、まずは

          徹底的に「検証」を続け、すべてを「鵜呑み」にもしない代わり、ときには柔軟に真実を「改訂」しよう

          というスタンスでいます。そしてもうひとつは

          すべては結局のところ、しあわせを深めるためにある(知識の蒐集自体に意味があるわけではない)

          ということをいつも意識していたいと思っています。

          そしてあなたの行く先にもますますのしあわせがあることを、いつも心から、願っています。

  3. モモ より:

    こんにちは。とても面白いお話聞けました。ありがとうございます。

    こういう事は誰もが考え、乗り越える価値があるという事、学校では教えてくれませんでしたから

    子供の頃の私は頭の中で自分と対話するしか話し相手がいませんでした。

    多くの人が子供の頃からこういった概念の存在を認めることが出来たら、

    喜びを深め合う大仕事が出来るメンバーも爆発的に増えるのではないでしょうか。

    • Dilettante より:

      モモさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、周りから、特に幼い頃にどんな価値観を刻み込まれるかというのは、その後の人生に大きな影響を与えると思います。

      ただその力の強さを認めたうえでも、自分の価値観は自分の意志と選択によって塗り替えていくこともできると思っていますので、私もこのような信念によって、最期まで生き抜いていきたいと、そう思っています。

  4. ふお より:

    極論人間がいなくなれば環境破壊も生態系も狂わず

    平和な地球になるのでは?

    • Dilettante より:

      ふおさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      確かに、今のような人間の在りかたを見ていると、そのように思ってしまうのも自然なことだと思います。

      ですが本当は、人間は人間がいない場合よりはるかに味わい深く、彩り豊かな世界を創る潜在能力を持った存在だと、私は信じています。

      それに今ではない、今よりももっとはるかに人間が調和的に生きていた時代を見れば、それは単なる夢物語ではないということを、おわかりいただけるとも思います。

      つまり端的に言えば、今があまりにもひどすぎるんですよね。

      ですがこれからは、今より今までのどんな時代よりももっともっと素晴らしい世界を創ることもできます。そしてその結果を見るのにはもう数百年もかかりませんし、数十年でも充分にだいぶ変わると思いますので、疑いながらでもいいですから、よくよく見ておいてみていただければと、そう思っています。