「全知ではあるが全能ではない」という前提で神を捉えたら、私たちにはなにができるか?

もし神が悪を妨げる意志はあっても力が無いなら全能ではない。力はあるが意志が無いなら邪神である。力も意志もあるなら悪はどこから来るのだろう? 力も意志もないなら、なぜ神と呼べるのだろう?

これは古代ギリシアの哲学者、エピクロスが言ったとされる言葉である。ここには私たちが今までにいちどは考えたことがあると思う

「神と正義」

「腐敗した現状と希望」

などについての疑問・考察の核心のひとつが提示されているとも言えると思う。

ここに明らかなように、私たちの現在の社会における一般的な解釈では、「神」というのは多くの場合

「全知全能の存在」

として想定されている。つまり、

神は本当にいるのか?

という問いは、実際のところ

全知全能の存在はいるのか?

という問いを考えているのに等しいと言える。そしてここでとても重要なことは、

「この『全知』と『全能』という言葉は、あまりにもぴったりとくっついた一対のものになってしまっている」

ということだ。

しかし、ここでまず私の考えを述べておくと、私は

いわゆる「神」と呼ばれる存在に近いものはいる。そしてそれは、確かに「全知」と思えるほどの智慧を持っている。しかし、決して「全能」ではない。そしてだからこそそこに、私たちの、揺るぎない存在価値がある

というふうに、考えているのである。

「全知」という言葉にはほとんど確実に「全能」がついて回り、「全知全能」という形容には神がくっつく以外にないような状況だからこそ、

「全知ではあるが全能ではない神」

という視点を持つことには、とても大きな意義があると思う。そしていったんこの視点からいろいろなものを眺めてみると、その景色は、実際に一変する。

まず、「知識」(智慧)というのはどのようにして育まれるかと考えると、それは第一に「体験の総量」だと言える。そして神という存在を

「すべての存在の総合」

だと考えると、神はその原理から言って自動的に「全知」であると言える。ただこの「全知」というのも、厳密に言うと

「誰かが知っていることは、神もすべて知っている」(誰かが知っていることで、神が知らないことはない)

という意味においての「全知」であって、

「『神が知らないことはない(今の神が知っていることが、世界のすべてである)』ということではない」

ということには、重々注意しておいたほうがいい。しかしこれは、哀しんだり失望したりするようなことではまったくない。むしろこの

「謎の存在」

こそが、世界を永続的なものにしているものなのだから。

先日、読者の「さい」さんからとても興味深いメールをいただいた。そこで私はその内容をあなたとも共有し、ともに考えを深めるために、ご本人の許可を...

そしてこのような前提に立ったうえで、神を全知の存在であると認識してもなお、神は全能ではない。これは本当は実に素朴で明白な話であって、私たちは、

「知ってはいても自分ではどうにもできない」

ということがたくさんあることを体験しているはずだ。だからそれがたとえ

「全知の存在」

であっても同じことだという、ただそれだけのことなのである。

だがだからこそ、私たちも

「知ってはいても自分ではどうにもできない」

ということが、いかに苦しいことかを理解する力を持っている。そしてそれを噛みしめたうえで、神の

「全知ではあるが全能ではない」

ということの意味を正しく受け入れることができたとき、私たちはそこに、

「自分のかけがえのない存在価値」

を、見出すことができると思う。

そもそも、

なぜ神は全知ではあっても全能ではないのか?

と訊かれたら、その答えは

私たちそれぞれに、「主体性」があるからです

という単純なものである。

私は、私に関する「主体」(最終決定権)を持っている。それは場合によっては

私の主体を放棄する(他者に委ねる)

というかたちになることもあるが、その決定さえも、本人の決定によってのみ行われるものである。そしてこの「責任」とは実際には「力」であるのだから、この一点から見ても、神は全能でないことは明らかである。つまり、自称であれ他称であれ、どこの誰を誰が「神」だと呼んだにせよ、その存在は私に関することにおいて、私を凌駕することはない。そして、これを最も哀しいかたちで実証したのが、自殺であるということもできると思う。

もし本当に

「全知全能の神」

というものが存在するのなら、私たちはせいぜいが「役者」以上ではないということになる。しかし実際には、神は全知ではあっても全能ではないのだから、私たちには「創造の自由」が与えられている。だからこそ、私たちの「責任」はどこまでも重く、だからこそ、永遠に生きる価値があるのである。

そして、先に確認したように、神が「全知である」というのは、

「誰かが知っていることは、神もすべて知っている」(誰かが知っていることで、神が知らないことはない)

という意味でしかない。だから世界は神にとっても「退屈」ではないし「わかりきったもの」でもない。神は

「誰よりも多くの可能性」

を見据えているかもしれないが

「すべての可能性」

を見られるわけではない。そしてもし、神をも驚かせることができたら、そのときこの世界は、大いなる深化を遂げたことになる。そしてそのとき神以上に喜べるのが私たちであり、それを見て神がまた喜ぶから、私たちはまた喜べるのである。

ちなみに、ここで私が選んだ「神」という言葉は、「宇宙」や「守護霊」に置き換えてもいい。だからこのことを理解すると、

私にも守護霊がいるなら、なぜ護ってくれないのですか?

という疑問も解消できる。これはひと言で言うと、

あなたが守護霊以上の力を持っているからです

と答えてもいいものでもある。そしてこれを喜べるなら、あなたは確実にあなたの力を活かし始めているということだし、それを喜べるひとだから、あなたも生まれてきたのだ。さて、ではその力を、どう活かすことにしよう?