仲間と妨害者の双方の存在を認識したうえで、自らの活路を開く

誰にでも守護霊がいると言うなら、なぜ私の人生はこんなにもつらいのですか?

しばしば私のところには、こんな質問が投げかけられてくる。

守護霊が私を護る存在だと言うなら、私の守護霊はなにをしているのでしょうか?守護霊は私のしあわせを願っているんでしょう?

このようなことを理解するには、まず世界の仕組みの最も単純な基礎を確かめることが必要だと思う。それは、端的に言えば

守護霊は確かに存在します。けれども守護霊だけが存在しているわけではありません。ですから同じ意味において、あなたのしあわせを願う存在は確かにいます。私もそのひとりです。ですがあなたのしあわせを願わない存在もたくさんいるということを、理解してください

ということなのである。

以前私は

この世界で生きていれば、おそらく10年もしないうちに、私たちに身につく基本的な世界認識がある。それは、 「この世には、『いいひと』と『...

という文章をまとめた。ここでの主眼は

いいひとと悪いひとという、肉眼で見える存在だけを想定して生きるのは4つの要素の半分しか見ていないのと同じことです。ですから私はあなたにも、いい霊と悪い霊という、もう肉眼では見えない、残りの半分の存在を踏まえて、生きていってほしいと思っています

ということを伝えることにあったと言える。しかし今回は、その同じ4つの要素を

「肉体を持っているかいないか」

ではなく、

「あなたのしあわせを願っているかいないか」

という観点に基づいて切り分けてみる。すると今度は、単純に言ってしまえば

「あなたに好意的な仲間たち」(いいひとといい霊)と「あなたを嫌い妨害する存在」(悪いひとと悪い霊)

という2つのグループが浮かび上がってくる。そして私たちは、自分がどの程度まで自覚しているかどうかにかかわらず、実際にこのような世界に、生きているのである。

もし世界のすべての存在が私に好意的で、私のしあわせを願ってくれているのであれば、私の願いはすべて叶うだろう。すべてのひとたちが志をひとつにすることができたなら、不可能なことがあるとは思えない。逆にもし世界のすべての存在が私に悪意を向けてきて、一心に私の破滅を願っているのであれば、私が存在を維持するのは至難の業である。いくら私については私が主体を持っているとは言え、私独りの力は、所詮は私独りの力でしかないのだから。

だが実際には、世界はこのどちらの極にも振れきっていない。だから私は、私のしあわせを願ってくれている仲間と、私の破滅を願っている妨害者との両方の存在のなかで、生きているということだ。

そしてこの「世界の動き」を、少なくとも現在の社会の平均よりははるかに赤裸々に、かつ切実に認識しているというのが、私が「霊媒師」であるということの、ひとつの意味でもあると、私は思っている。

 

私は幼い頃から、将棋に親しむ機会が多かった。今は日本でも将棋の注目度が上がっている時期だと思うが、私にとっての日常とは、ある意味

「将棋を指す」

ことに似ているとも思うのだ。

私には、確かに私のしあわせを願ってくれている仲間がいる。一方で、私の破滅を願い、私の首を取ろうとしている存在も確かにいる。私はいつもその双方の陣営を認識しながら、そこで日々、自分の身の振りかたを考えているのである。

もちろん、現実は将棋とは違うところも多々ある。現実世界の進行は「ターン制」ではないし、私の味方と敵方の戦力はまったく同じというわけではないし、そもそもお互いの動きのすべてが、公開されているわけではない。ただ私はお互いの陣営で日々多くの存在がいかに動き回っているかを知っている。だからそのなかで、そのときそのときの局面において、自分がどんな手を指すか、そんなことを考えているのである。

そしてある意味では、まったく同じ戦力で、まったく同じ機会を与えられた状況から始めても、将棋に勝敗がつくということは、

「戦略(選択)が、どれだけ人生を左右するか」

ということを、如実に表しているとも思う。だから私は日々、できるだけ最善手を指そうと研鑽を積みたいと思っている。また、将棋において、チェスなどとは違って、

「敵方の駒を仲間にできる」

というのも、私が

「除霊ではなく、浄霊にこだわる」

というのとつながっている気がする。逆に

「志を同じくしていたはずのひとにも、刃を向けられることがある」

というのもまた、身につまされる想いがある。負の霊というのは、決して侮っていい存在ではない。

また私自身もときどき、

自分よりもっと強い力を持った存在はいるんだから、もう少し助けてくれたっていいんじゃないか?

と思うこともある。だが実際には、大きな力を持った存在には、妨害者も強力な存在が対峙する。これは少し考えれば当たり前のことである。だから私が簡単に音を上げて、(たとえば私の師のように)私より強い存在が、私の相手方に労力を割いてしまったら、そのぶんの歪みが、どこかでバランスを壊すことになる。だから基本的には、私の相手には、私が相手をするしかない。

だがこれを逆に言えば、もし私が相手の陣営の予想以上に奮戦した場合、私はより上位の妨害者によって排除されるかもしれないが、そうやって私が「食い込んだ」ぶんは、必ず私の仲間たちの戦果として報われる。だから究極的には、私の「局地戦」そのものは、たいしたことではないのだ。目指すべきなのは、生きている目的は、そんなちいさなところにはない。

 

だからあなたが、今どんなに苦しいとしても、だからこそ仲間の存在を疑うのではなく、強く意識を向けてみてほしいのだ。そして仮に、表面的にはどんなに「負けが確定している」ように思えても、そこであきらめないでほしいのだ。決して首は差し出さず、ギリギリまで粘れば、いずれは助けが来る。もし最後まで来なかったとしても、あなたが開けた「風穴」は、やがて仲間の手によって、すべてを変えることになる。それになにより、私もここで、私なりにではあるが、いつもあなたを助けたいと思っている。だからまだ、あきらめないでほしい。

生きていることは罰ではない。私たちはしあわせになるために生まれてきた。しあわせにいるために生まれてきた。だから本当には、いつもしあわせを感じ...

世界は確かに混沌としている。だから未来はひとつに定まっているわけではなく、誰にも「結末」を断定することはできない。それにそもそも、「結末」など存在しない。だがだからこそ、私も日々、身を置いているこの状況のなかで、なんとかして自らの活路を開こうと思う。そして私もあなたの仲間のひとりとして、あなたのしあわせを、いつも願っている。そしてこの意識が未来に影響する以上、今日も明日もきっと、生きるに値するものだ。私たちには、そうできる力が、あるのである。