力と責任。力を得たいなら、責任を引き受けなければならない

大いなる力には、大いなる責任が伴う。

これはとても有名で、力のある言葉だと思う。だがこれを別の視点から捉えなおしてみると、これ以上に重要なことに気づくこともできる。それは

大いなる責任を取る存在に、大いなる力が宿る

ということである。

私たちは特に肉体世界においては、生まれてからしばらく、他者のことはもちろん、自分自身についてすら、ほとんどなんの責任も取らない。というより、責任を取らせてももらえない。だが成長するにつれ、私たちはこの世界の仕組みを知り、そこに自分を順応させながら、力を持つようになる。そしてそれはつまり、

「責任を取るようになる」

ということと同じだ。

しかし一方で、特に今のような社会を見回したとき、この「責任を取る」ということが上手にできているひとを見かけることはとても稀である。逆に、他者に向かって

責任を取れ!

というような言葉が投げられているのを見るのは、とても簡単である。そしてこれは、相手を糾弾するのに、最も威力を発揮する言葉のひとつでもある。これと同じような言葉に

それって自己責任ですよね

というようなものもあるが、これもほぼすべての場合において

それって「あなたの」自己責任ですよね

という意味であって、実質的には「他者責任論」というのがふさわしいように思える。

つまりこのどちらの言葉も、やっていることは「責任の投げ合い」であると言える。そしてその結果なにが起きているかは、周りのひとたちと、自分自身を見ればすぐにわかる。ほとんどのひとたちが、ほとんどの力を、失っているのである。

この原理を理解したら、

もし力を求めるのなら、どうすればいいのか?

という問いに対する答えも、自ずと出てくる。そう、責任を取れるようになればいいのである。ある存在が持つ力は、その存在が取る責任の大きさに比例する。少なくとも、比例するようになる。だから、大いなる力と大いなる責任は、決して切り離せないのである。

では、どうやって責任を取ればいいのだろうか?これに対する最も素朴な答えは、

「自分の身に起きることのすべてを、ただ一身に受けとめきる」

というものだ。これができさえすれば、あなたは誰よりも強力な存在になる道を歩み出したことになる。ただこれは決して

「すべてを諦めて、なにもしない」

ということではない。

「自分の理想を棄て、現状に屈する」

ということでもない。

「ただひたすらに、すべてを受け止め、すべてを糧にする」

ということである。

だから力をつけるための端的な方法のひとつに、起きた現実に対して

これは私の選んだことだ!

と言い切るというものがある。これはもちろん、自分にとって不都合なことが起きたときに実践するほど、大きな力を発揮する。一見このような態度は、「自虐的」にも見えるかもしれないが、これをずっと続けていくと、そこには計り知れないほどの意義がある。たとえ自分の本意とはまったく違う状況が起きたときでさえ、

「そこにも自分の選択が、確かに反映されている」

という事実を噛みしめることは、裏を返せば、

自分が変わることで、この状況も確実に少しは、変えることができる

ということを、再確認することだからである。

私たちを最も迅速に、かつ最も破滅的に腐らせるものは、

「無力感」

である。そしてたとえ実際には最も無力だったはずの存在でさえ、この

「責任を取る」

ということを身につけることによって、最も強力な存在になることができる。そして本当は、私たちは誰ひとりとして、今までもこれからも、無力だったことはないのである。

 

ところで、これは明らかな逆説なのだが、もし

「全責任を余すことなく放棄する」

ことができたら、その存在はすべての責任を取っている存在と同等の力を得ることができる。実際、この世界で最も力を持っている存在は、この方法でその類まれな力を維持している。誰にも肩入れせず、どんな結果にも甲乙をつけない代わりに、すべての存在を慈しみ、すべての存在を支えている。そして、ここでなにが起きてもなんの責任も取らないことで、すべての責任を取っている。こういう方法も、確かに存在する。だが、これは私たちが実践するには、あまりにも難しい。それにそれができたからと言って、どうということでもない。だから私としては、

「もっとわかりやすい方法」

として、責任を取るという道のほうがいいだろうと思っている。

 

ただ、これも実践するといろいろな困難があることに気づくもので、そのなかの代表的なもののひとつが

「責任によって潰れてしまう」

というものだ。「責任」というのは実のところ「力」そのものなのだから、それを自分に引き受けすぎると、それ自体の重みが自分を蝕んでしまうようにもなる。そしてそれが

「強すぎる自責の念」

になって、「自分の力の源」とは正反対の、

「自分の力を削り落とすもの」

になってしまったら、まさに逆効果になってしまう。さすがに、最強の力を得るのは簡単ではないということだ。だからまずは、「筋力トレーニング」などと同じような感覚で、

「今の自分にとっては、少し重いと感じられるような責任を引き受けてみる」

ということを、続けていったらいいと思う。

そしてこうしたことを考えてみると、なぜ多くのひとたちが

運気を上げたかったら、掃除をしたらいいですよ

といったことを言うのかも、わかってくるのではないかと思う。

「汚れの後始末をする」

というのは、

「通常は誰もやりたがらないことの責任を取る」

ということのひとつだからである。だからそんな日常的なことからでも、あなたは研鑽を積むことができるということだ。

 

ただし、私がずっと言っている「力」というのは、必ずしも

「経済力」や「権力」

とは一致しない。だから、そういったもの(だけ)を目的としているのであれば、あなたの願いが達せられることを私は保証できない。ただ、そういった結果の責任すらも取る気でできるのであれば、あなたに力がつかないはずはない。そしてそれが「経済力」であれ「権力」であれ、責任を伴わない力は存在し得ない。だから、あなたが責任を取れそうもないなら、力を求めないほうがいい。それが、あなた自身のためだからだ。

 

昔私が最もひどい状態だった頃、私は

もしいつか本当に自分を殺せるひとが現れたら、最期に相手の名前だけは訊いておこう

と思っていた。私は自分より強い存在が、明確に自分を殺そうとしてきたら、その結果は受け入れるしかないと思っていた。だがせめて、そんな相手には、私の存在を終わらせるひとには、その「責任」を取ってもらいたかった。逆に言えば、

「私が私であるという、そのどうしようもない全責任」

を、すべて引き受けてくれるような相手になら、殺されてもいいと思っていた。

しかし私は、結果として生き延びた。そしてそれは

私が私であるという責任は、私が取るしかない

ということを、突きつけられたということでもあった。そういうことなら、それも受け入れようと思った。そして私は、改めて「自分の選択」として、生きることを選んだ。

 

だからそんな私は、あなたに心から言える。あなたがたとえなんの責任を果たす力もないと思っているとしても、あなたは生きているだけで、充分に責任を果たしている。そしてその責任は、実際には、かなり重いものだとも思う。だからそれだけで、あなたは胸を張っていい。私では、あなたにはなれない。それはあなたがどうしても私にはなれないのと同じくらい、明らかな真実である。だからまず、その責任をお互いに果たすこと、それがなによりも重要なのだ。そしてそのうえで、もしああなたが

「その力を向けるに値する対象」

を見つけることができたら、そのときは、存分にあなたの力を発揮してほしい。あなたが感じてきた責任のぶんだけ、あなたには力が宿っている。だからあなたになら、きっとできる。私はそのことをあなたにも理解してほしいと、あなたのしあわせを願うひとりとして、心から願っている。