「すべてが記録されている」ということを味方につけてほしい。そしてあなたの「奮闘の記録」は、いずれ私にも読ませてほしい

ときに

「アカシックレコード」

「閻魔帳」

といったように様々な呼び名をつけられることもあるが、

宇宙に起こるすべての物事は記録されている

という概念がある。私も、それは正しいと思っている。

しかしその事実をどう捉えるかは一様ではない。たとえば、未だ誰にも明らかになっていない「悪事」を抱えているひとにとっては、その事実は恐怖を感じさせるものかもしれない。逆に、今はまだ誰にも知られていないとしても、未来に向けてたくさんの「喜びの種」を蒔いたひとにとっては、その事実はあたたかい気持ちを喚び起こすものかもしれない。

ただ、実際の私たちの人生を考えてみると、そのような「悪事」や「喜びの種」というのは、机上で考えるほどはっきりと区別できるものではないことが多い。たとえば、誰かにとっては確実に「喜び」や「しあわせ」につながると思えることであっても、それを別の立場のひとが見ると、「悪事」と見なされることがある。それに、種を蒔いた時点では確実に喜びの種だったはずのものが、気候条件なのか肥料が適さなかったのか、あるいは他のなにかが原因なのかはわからないが、いつの間にか想像を絶するものに育ってしまうこともある。そうかと思えばその逆に、確信を持てないまま恐る恐るやってみたことが、思いもよらない結果を生むこともあるし、現状を打破するためにあえて「悪事」に手を染めたはずが、その「過激な行動」がいつの間にか「素晴らしい革命」につながることすらある。こんなことを

人間万事塞翁が馬

などと表すこともあるが、私はこのことはいくら考えても、考え尽くせないことだと思う。

だからこのようなことを少し考えてみると、

その記録は、いったい誰の立場で書かれているのか?

という疑問が当然湧いてくると思う。私の行動を悪と見なすひとと善と見なすひとがいるというなら、それは「悪事」として記録されるのだろうか、それとも、「善行」として記録されるのだろうか?

この点に関して、私の知る限り宇宙は徹底的に公平である。つまり宇宙には、

「あらゆる立場から書かれたあらゆる宇宙の記録が、並列的に保存されている」

ということだ。だからそこに

「客観的な判断」

は書かれていない。しかしその代わりに、

「事実と本人の意志、そしてそのときの感情と、本人が当時思い描いていた将来への見通し」

が書かれていると言える。

具体例で言えば、こういうことだ。

2012年1月28日、『闇の向こう側』に最初の文章が公開される。Dilettante本人は、これがどのような影響を持つことになるかよりも、『自分のなかにある想いを、このままどこにも表現せずにおくのはよいことではない』というどうしようもない感覚に基づいて、このサイトを開設した

と私の記録には書かれているとしよう。しかしこれと同じことについて、また別の記録には、

2012年1月28日、『闇の向こう側』に最初の文章が公開される。私としてはなんとか公開を断念するように仕向けようとしたが、あと少しで意志を挫けなかった。しかし、このようなサイトには所詮大した力があるとは思えないので、これからもこのことがいかにくだらないかについて、本人を説き伏せていこうと思う。そしておそらくは、本人も遠からず割の合わなさにより、更新を止めていくものと思われるが、念のため警戒しておこうと思う

と書かれているかもしれない。だがまた別の記録を見ると、

2012年1月28日、『闇の向こう側』に最初の文章が公開される。こちらとしてはもっと早くに開設するように何度も促したのだが、なかなか重い腰を上げることがなかった。しかし2012年に入り、本年で地球が滅亡するといった言説があまりにもはびこっていることに言いようのない感情を覚えた当人が、半ば出たとこ勝負のような気持ちでようやくやる気になってくれたので、こちらとしてはひとまず安堵している。ただ、本人はまだ多くの迷いや葛藤を抱えているうえに、これによってさらに多くの妨害を受けることを自覚していることもあり、なんとかやればやるほどに、少しずつでもこの活動の意義に気づけるような仕組みを創れるよう、こちらも鋭意工夫を続けようと思う

2012年1月28日、『闇の向こう側』に最初の文章が公開される。こちらとしてはもっと早くに開設するように何度も促したのだが、なかなか重い腰を上げることがなかった。しかし2012年に入り、本年で地球が滅亡するといった言説があまりにもはびこっていることに言いようのない感情を覚えた当人が、半ば出たとこ勝負のような気持ちでようやくやる気になってくれたので、こちらとしてはひとまず安堵している。ただ、本人はまだ多くの迷いや葛藤を抱えているうえに、これによってさらに多くの妨害を受けることを自覚していることもあり、なんとかやればやるほどに、少しずつでもこの活動の意義に気づけるような仕組みを創れるよう、こちらも鋭意工夫を続けようと思う

2012年1月28日、『闇の向こう側』に最初の文章が公開された。なんだかおもしろいことが始まったなぁと思ったので、とりあえず仲間にも伝えたうえで、「どうせ書くんだったら、どこまでもあなたらしい文章を書いたらいいと思うよ」と、本人に伝えてみた

というように書かれているかもしれない。念のため言っておくと、これは別に今私が「宇宙の記録」を読んで書いたものではない。だがおそらく、実際にこのような記録はどこかに残っていると思うし、そのすべてを挙げていけばいつまで書いてもキリがないと思う。だから、宇宙というのはどんな想像をも超えるほどに膨大なのである。

だが、ここで改めて注目してほしいことは、このどの記録にも

「客観的な判断・評価」

は書かれていないということだ。これはどこまで行っても

「主観的な判断・感想」

でしかない。しかしそうだとしても、あるいはだからこそ、それこそが重要なのである。

2012年の1月28日に、なぜ私にあのようなことが起きたかについて理解したければ、私自身の記録を読むだけでは充分ではない。そして、どこまで行っても

「これ以上ない完全」

というのには至れないかもしれない。しかしだからこそ、世界は今もこれからもずっと多様であり、芳醇である。そして最も大切なことは、

「過去の誰かの記録であれ、あるいは自分自身の記録であれ、それを読んだ自分が、どう感じたか?」

ということなのである。それが、あなたの未来を創っていく、原動力になるのだから。

 

私のことをどれだけ詳細に語ろうとしても、語り尽くすことはできない。それに私がなぜ今こうしているかの背景には、過去生の私のしてきたこと、そしてそれを受けたそれぞれの存在が、それをどう評価したのかまでが関わってくる。それにもしろん、そうした「要素」は今この瞬間にも、積み上がっていく一方である。だから今の私が肉体を持ちながら語れることは、どこまで行ってもその一部でしかない。そしてたとえ死んで宇宙の記録をどれほど読み込んだとしても、きっとすべての謎が解けることはないだろう。それにたとえ同じ記録であっても、

「それをどのページから読むか」

によって、全体の印象が変わることさえ大いにある。世界とは、そういうものである。

 

そして私は、

「たとえ己のすべてを懸けて一心に打ち込んだとしても、そのたったひとつの願いさえうまく叶わないこともある」

ということを、よく知っている。もちろんそこには、なんらかの原因があったのかもしれない。あのときにもう少しうまくやっていれば、あのときにほんのわずかに違う気持ちを持っていたら、あの日あと1時間早く起きていたら、すべては違ったのかもしれない。しかしもしかしたら、それでも結果は変わらなかったのかもしれない。私は、少なくとも今の時点で、それをどうにも断言することはできない。

しかしそれでも、私はあなたが生きているなかで、日々必死に奮闘していることを、よく知っている。この世界が奮闘せずに生きられるようなものではないことを、よく知っている。だから私も、あなたのことを、いつも心から、応援しているのである。

私は守護霊から、何度となく

あせらず、待っていなさい

と言われる。私はその度に、

いつまで?10年?30年?来世まで?それとも100億年?

などと食ってかかることがほとんどなのだが、ひとつだけはっきりしていることは

物事の意味というのは、最後まで見てみないとなんとも言えない

ということである。そして本当には、世界は永遠なのだから「最後」などというものは存在しないのだが、それでもせめて今生が終わってみなければ、今生を振り返ることすらもできない。

だから、私はまだ、不満を言う権利すらないのである。そして私はこれからも、自分にできる、自分の思う最善は、尽くしていこうと思う。その結果、私が本当にしあわせになれるかは、まだわからない。そして私はなによりあなたのしあわせを願っているが、それでもあなたが今生の最後にしあわせを感じられるかは、私にもわからない。

だがそれでも、もし私がしあわせを感じられずに死んだとしても、だからこそその記録は、あなたにもいつか読んでほしいと思う。そしてもし、あなたがしあわせを感じられずに死んでしまったとしたら、だからこそその記録は、私にもぜひ読ませてほしいと思う。そのうえでもしよかったら、今度は今よりももっとお互いを理解し合って、今よりももっとたくさん、協力し合う方法を、探してみようと思う。ただ、ひとまずは次のことより今のことだ。私は今日もまた今の私の気持ちをここに書き残し、あなたと励まし合いながら、生きていようと思っている。