300時間。あなたのその時間を、どうか大切にしてほしい

現代の日本であれば、人生はおおよそ80年であると見込んでいるひとが多いと思う。だからこれを言い換えて

人生は3万日しかないんです

などと言われることもある。またここから、そのうちの3分の1が睡眠などに遣われることを考慮して

人生は2万日です

などと言われることもある。だがこれでも、本当の意味では、あまりピンとくることはないと思う。特に、自分の人生がまだ始まったばかりだと思っているひとならなおさらだ。

しかし私は、これよりもっと想像しやすく、それでいてはるかに切実な時間数を、意識している。それは、

「300時間」

という、時間数である。

私たちは日々生きているだけでも、誰かと関わっている。それはネットで買ったものを届けてくれた宅配業者のひとだったり、道ですれ違ったひとだったりする。しかしそれは、関わったと言っても実際にはとても希薄なもので、ときとともに流れ去っていく。

広い意味では、私もこの地球上に住む70億人以上の人類、あるいは動植物や霊存在なども含めたすべての存在とどこかなんらかのかたちでは

「関わっている」

と言えるのだが、それはほとんど意識されない。つまり私たちが

「本当の意味で関わっている」

と言えるためには、

「お互いの存在を特定の存在として区別し、認識している」

ということが必要なのだと思う。

しかし、話はこれだけでも終わらない。私たちの本当の交流は、ただお互いを認識しているだけでは起きているとは言えないと、私は思う。

たとえば現代日本に暮らす私たちは、ほとんどの場合小学校で6年間学ぶことになる。しかしそのとき同じ学年になったひとたち、あるいは6年間ずっと同じクラスだったひとたちは、

「6年間、私と一緒に生きていた」

と言えるのだろうか?

率直に言って、私はそうではないと思う。私たちはそのとき、確かにお互いを

「クラスの一員」

としては認識していただろう。そしてほとんどの授業をともに受け、1日の目覚めている時間の半分ほどの間、同じ時間と空間を共有していた。が、それだけである。私は今、たとえどれだけの時間をかけても、彼らの名前を全員分思い出すことができるとは思えない。そして思い出されたひとですら、「6年分」の想い出は決して浮かんでこない。今私が想い返すことができるのはとても断片的なものだけで、そのすべてをつなぎ合わせても、おそらく30分にも満たないと思う。

つまり私たちが本当の意味で、

「一緒に生きていた」

と言えるためには、ただ同じときに、同じ空間にいればいいというわけではないということだ。それを踏まえて、その条件をもっと厳密に定義すると

「相手を『特定の存在』として、お互いに意識を向け合って、一緒にいる」

ということではないかと、私は思っている。

たとえば、私がたまたまどこかに食事をしに行って、そこで流れていたテレビ画面を一緒に観たからと言うだけでは、私はその店にいたひと全員と、一緒にいたことにはならないだろう。

しかし、そこに私が誰かと一緒に行き、そのひとと談笑しながらそこにいたのなら、私はそのひとと一緒にいたと言える。あるいは、互いに独りでそこに来たとしても、その店で話しかけられ、楽しい時間を共有することができれば、私はそのひとと、一緒にいたと言える。

こういう目線ですべてを捉えなおしたとき、つまり

「相手を『特定の存在』として、お互いに意識を向け合って、一緒にいる」

と言える時間というのは、実際にはどの程度あるものだろうか?

そう考えると出てきたのが、冒頭に挙げた

「300時間」

という、時間数なのである。

ここでいったんひとつの結論を示そう。私が考えていることは、

人生に現れる99%以上のひととは、300時間も一緒にいられない。しかしだからこそ、もし誰かと300時間以上一緒にいられたなら、そのひとは私にとって、間違いなく特別なひとだ

ということなのである。

ただ補足しておきたいのは、これは別に、

300時間も一緒にいられなければ、特別な存在にはなれない

ということではない。ただ、

300時間も一緒にいられたら、そのひとは間違いなく、人生に特別な影響を及ぼしている

ということだ。論理学的に言うなら、これは必要条件ではなく充分条件である。だからその意味で、わずかな時間しか一緒に生きられなかったのに、その後の人生に重大な影響を与えるということがあることは、私も充分にわかっている。しかし逆に言えば、そんなに大事なひとでさえ、300時間も一緒にいられるとは限らないということだ。

そしてそう考えると、多くのひとにとってこの条件に真っ先に当てはまるのは

「自分を育ててくれた家族」

だと思う。だからこそ、私たちはどこまで行っても、家族の影響から完全には逃れられない。そしてこの

「影響」

のなかには、当然様々なものが含まれる。だからそれがいいものであるとは限らないのだが、それを踏まえてもやはり、人生で300時間を一緒に生きられるひとというのが、

「特別な存在」

であることには、変わりないと思うのである。

よかったら、あなたも自分の人生を振り返って、考えてみてほしい。あなたがお互いを「特定の存在」として意識し合い、想いを向け合って、300時間も一緒にいられたひとというのは、何人いるだろうか?それは別に

「物理的な近さ」

が絶対に必要なわけではない。たとえば電話越しでも、メールを介してでも、お互いを意識して想いを向け合っているなら、その時間も

「一緒にいる」

と言える。逆にたとえ家族だと恋人だとしても、あるいは物理的にはすぐ傍にいたとしても、お互いを想うこともいたわることもないなら、それはもはや一緒にいるとは言えないだろう。だからそういう感覚で、想い返してみてほしい。

すると私自身はと言えば、最初に私を育ててくれたごく近しい家族を除いては、10人もいないと思う。もっと言えば、5人もいないと思う。そしてこの

「ごく親しい家族」

のなかには、親戚は含まれていない。親戚は、私と生物学的にそれなりに近しいと言えるとしても、私にとって必ずしも特別な存在であることを意味しない。だからこれは、血縁や戸籍といったものとは、本質的にまったく関係のないことである。そして私が、少なくとも私自身の認識において

「300時間以上を一緒に過ごした」

と言えるひとは、間違いなく私に多大な、そして消えることのない、影響を及ぼしている。

そしてここまでをすべて踏まえて、少し視点を変えてみよう。この300時間というのは、1日24時間に換算するとおよそ2週間であり、そのうち目覚めている時間をおよそ15時間とすると20日と同じだ。つまり、私の人生に現れる99.9%以上のひとたちと一緒にいる時間は、圧縮してしまえばわずか20日にも満たないということなのである。

そして本当には、ほとんどのひとたちとは300時間どころか200時間、100時間すら一緒にいることなく、互いの人生は終わる。冷静に真剣に考えれば、これが明らかな事実である。だから私は、そのほんのわずかな時間のなかで、相手の嫌いなところではなく好きなところを、ダメなところではなくいいところを、たくさん見つけたいと思う。言い換えれば、たった20日間しか一緒にいられないのに、その貴重な時間を相手を嫌うことに費やすのは、あまりにも哀しいことだと、私は心から思うのである。

またさらに視点を換えると、この300時間というのは、お互いの全体像をひと通り見るのにも、それなりに充分な時間であるとも言える。初対面のわずかな時間であれば自分を繕うこともできるかもしれないが、300時間ともなれば、それはほとんど不可能だと思う。仮に意図的な詐欺師であってさえ、300時間もまったくボロを出さないのは難しいだろう。だから、300時間を超えて付き合えるひとというのは、自分のダメなところや至らないところも含めて知ったうえで、それでも一緒にいられる存在だという証なのである。そしてこれは、実際には奇跡だと言っていいと、私は思う。だからそんなひとは、あらゆる意味で、特別な存在なのである。

そしてここまで想いを巡らせたうえで、なおここには最も重要で、最も切実な問いが残されている。それは、

そんなふうに300時間以上を過ごし、あるいは300時間を過ごすことさえなくても、自分にとって特別な存在になったひとと、離れなければいけないときが来たら、そのときは、どうしたらいいのか?

という、問いである。しかしこの問いに対する答えは、それがこれほどまでに重大で、切実であるにもかかわらず、まだわからない。そしてもしかすると、この先も本当には、わかる日は来ないのかもしれない。ただひとつ、私が確信していることは、

それぞれの「特別さ」は本質的にかけがえのないものであり、だからこそ「新しい出会いの喜び」は、「かつての別れの痛み」を癒やすものではない

ということである。それどころかむしろ、新しい出会いが、かつての別れの痛みを思い起こさせることすら多い。だからその意味で、別れに終わりはなく、にもかかわらず出会いとは、別れの始まりなのかもしれない。だがそれでも、私はやはり

さよならだけが人生さ

とは思わないし、そう思えないから、私は私なのである。

だからそんな私は、今日も300時間のことを意識している。人生は短い。それにもし人生が長いとしても、あなたと一緒にいられる時間までもが長いとは限らない。だからもし、長く一緒にいられたら、それは奇跡である。だからもしあなたが今その奇跡のなかにいるなら、どうか大切にしてほしい。大切なひとと、一緒に生きてほしいと思う。想いを向け合っていてほしいと思う。奇跡というのは、日常にあるうちは、奇跡に見えないものだから。そしてもし、あなたがそんな奇跡を未だに知らないのなら、それは幸運なことである。奇跡とは、本当は、自ら生み育てることもできるものだから。生きるとは、時間を遣うことである。だからその時間を、大切にしてほしい。そのすべてが、あなたの人生である。

コメント

  1. モモ より:

    こんにちは。自殺者の魂について調べてここに辿り着いた者です。

    300時間、いっそもっと凝縮して見たらいいと思います。一瞬まで縮めてみると。毎日が楽しくなると思います。出会いもさよならも受け入れることができるようになります。

    • Dilettante より:

      モモさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、もしすべてを一瞬にまで凝縮したら、もっとすべての瞬間を大切にできるかもしれませんね。

      ただ私の場合は、それでも別れを惜しまずに受け入れることはできないと思いますが、いずれにせよあなたが毎日を楽しく過ごしていらっしゃるのであれば、そんな瞬間がこれからもさらに積み重なっていくことを、私も心から、願っています。