自分が癒やされていなければ、あなたを癒やすことはできないのか?

誰かを愛したいなら、まずは自分自身を愛してください

自分のことすら癒やせていないひとが、誰かを癒やせるはずがない

こうした意見というのは、洋の東西を問わずどこでもいくらでも見つけることができる。しかし私は、こうした意見に一定の理があることは認めながらも、一方でどうしてもこれだけでは括れないものがあるという自分の感覚を、一貫して保ち続けている。そして自分が少数派であるならなおさら、そうした感覚を説明することにも意義があると思うのが私なので、ここにそんなことを、書いてみようと思う。

たとえば

医者の不養生

という表現もある。確かに

自分自身が健康でないのに、どうして相手を健康にできるのか?

という感覚は、一見頷けるとともに、多数派でもあるのだと思う。自分が不摂生な生活を送っていながら、相手の生活習慣を改善するように助言しても、そこには説得力がないと思われてしまうことも、かなり自然なことのように思える。しかし実際には、医者といえど生まれ持ったからだが頑健だとは限らないし、先天的な病を抱えている場合もある。そしてそれが重度の伝染病だというような場合は別だとしても、病を抱えたひとが、医者になってはいけないというわけではない。それに、自分に病の経験がある医者というのは、そうでない医者に比べ、明白な長所がある。それはまさに、

「病になったことがある」

という、経験そのものである。

自身が病になったことがあるうえで、病を治療するほうの立場に立つというのは、病を多面的に見ることができるということにつながる。もちろん、そこにも努力は必要であるが、少なくともそのような視点を獲得できる可能性は拡がる。

だから同じ意味で、たとえば

「元引きこもりの進路相談員」

「自殺未遂を乗り越えた看護師」

「虐待を受けたことのある保育士」

といったようなひとたちは、自身のかけがえのない体験を、かけがえのない長所として、活かせる可能性を大いに持っているし、周囲もそのようなひとたちに希望を見出す。そしてこれは、あえてひと括りにすれば、

「かつて傷を負って、それと向き合い、癒やしたうえで、今度は他者を癒やすことに力を注ごうとしているひとたち」

だとも言えると思う。そしてこれは、まぎれもなく素晴らしいことである。

しかしこれが、「傷を乗り越えた」わけではなく

「今もなお、傷を抱え、痛みを感じ続けているのにもかかわらず、誰かを助け、癒やそうとしているひと」

であれば、話は変わってくる。これを先ほどの例に当てはめるなら、

「引きこもりの進路相談員」

「いつも自殺願望を抱え、昨夜もリストカットしてしまった看護師」

というようなものである。この場合、

まず頭の上の蠅を追え!

と言われてしまうことも多々あるだろう。だから結局、冒頭に挙げた発言というのも、同じことを指していると言えると思う。

しかしたとえ自分の傷を癒やすことが、誰にとってもとても切実で大切な課題だと認めたとしても、もしそれぞれが自分の傷を自分自身で癒やし、自分の問題を自分だけで解決できるようになったとしたら、そしてそれが理想なのだとしたら、そこに他者が存在する意味は、世界がある意味は、どれほどあると言えるのだろうか?

私は、よく考えることがある。もしこのように

「完全なる自足」

が最高の境地であるなら、世界がこのように多様な存在にあふれていることを説明できないと思う。

これは以前

先日、読者の「さい」さんからとても興味深いメールをいただいた。そこで私はその内容をあなたとも共有し、ともに考えを深めるために、ご本人の許可を...

などで触れたことにも関係するのだが、自分の起源というものをどこまでも辿って行くと、いずれは

「最初のひとり」

に突き当たると考えられる。そしてもしそれを、特に一神教的世界観における<神>と定義するなら、その<神>はすべてを持っていたはずだ。もちろん

「今あるもののすべてを持っている」

からと言って

「なんでもできる」

とは限らない。

もし神が悪を妨げる意志はあっても力が無いなら全能ではない。力はあるが意志が無いなら邪神である。力も意志もあるなら悪はどこから来るのだ...

しかしそれでも、<神>はかなりの程度、自足していたと考えることができる。にもかかわらず、そこで話が終わらなかったとするなら、それは

「神ですらも独立を望まなかった」

ということなのではないかと、私は思っている。

あるいはもしかしたら前提が間違っていて、

「最初にいたのはひとりではなく、どこからか同時に生まれたふたり」

なのかもしれない。だとしたら、私はそれをとても愛おしいものだと思うし、それが最初のふたりにとって、どれだけの喜びだったのかを考えるだけで、感極まるものがある。

だから私としてはやはり、

それぞれが完全に独立し、自足していることが、理想の状態ではない

という感覚を、強く持っているのである。

 

そして改めて、冒頭の

誰かを愛したいなら、まずは自分自身を愛してください

自分のことすら癒やせていないひとが、誰かを癒やせるはずがない

に戻ってみると、私はそもそも

本当に自分だけで自分を愛せているひとが、本当に自分自身を完全に癒やせているひとが、本当にいるのでしょうか?

ということから、疑問に思っている。これは私自身がそんな境地に至ったことがないから理解できないだけなのかもしれないが、本当に自分だけで自分自身を愛せているなら、そのひとは他者を必要とするのだろうか?そのひとの存在は、ひとりで完結してしまうのではないのか?それにこんな世界のなかで、あるいはいつどんな世界であったとしても

自分のなかには、なんの傷もない

と言えるひとが、本当にいるのだろうか?

だから結局私が言いたいのは、

もし自分自身を愛せていなければ誰かを愛せないと言うなら、もし自分自身が癒えていなければ誰も癒やせないと言うなら、もしそれが本当なら、誰かを愛せるひとなど、誰かを癒やせるひとなど、どこにもいないのではないか?

ということなのである。そして私はこう考えたうえで、

そんなことはあり得ない。世界には確かに愛が実在し、私たちはお互いを癒やすことができるはずだ

と、強く信じているから、やはり冒頭の発言だけでは、収めきれないなにかがあると、思っているのである。

しかしこれは別に、あなたがまず先に自分自身を癒やすことを止めているわけではない。それに、過去の痛みや苦しみを乗り越え、その経験を共有することの素晴らしさに、疑問を呈しているわけでもない。最初にも書いたように、そこに一定の理があることは、私もわかっている。

ただそれでも、私は

まだ乗り越えていないひとには乗り越えていないひとだからこその、まだ自分の傷を癒やせていないひとには癒やせていないひとだからこその、かけがえのない視点とやりかたがある

ということを、見落とすのはもったいないと思っているのである。

これをひと言でざっくり言ってしまえば

なぜなら喉元を過ぎればどうしても多少の熱さは、忘れてしまうから

だとも言える。そしてそれは、ある意味では同語反復なのだ。

なぜなら

「そのことを振り返ったとき、かつてほど痛みを感じない」

「苦しみがあったことは変わらなくても、かつてほどにはその苦しみに呑まれない」

ということこそが、

「癒やされた」

という言葉の、ひとつの本質だからである。

だから私たちは、ある意味では熱さを忘れるために、癒やしを求めるのである。

しかしだからこそ、

「今の痛み」

「過ぎ去った痛み」

のなかには、途方もないほどの開きがある。そしてそのことを直視すれば

今まさに同じ痛みを共有しているひとだからこそ、できることがある

というのも、やはり事実なのだろうと、私は思うのである。

それにもっと言えば、痛みは必ずしも、癒えなければいけないわけでもない。たとえなんの手の施しようがないものでも

「そこに確かに痛みがある」

ということを共有するだけでも、確かに私たちは癒やされる。そしてそれはいつも、お互い様なのである。

 

だがそれでも、私たちにはやはり違いがあるので、同じ痛みを抱えているからと言って、同じ反応になるとは限らない。そしてここで大切なことは、

その表面的な「違い」は、必ずしも「感受性」の違いから来るとも言い切れず、もしかしたら「対処法」の違いなのかもしれない

ということである。

「同じ痛みを受けたからと言って、耐えられるかどうかはそれぞれ違う」

ということは、かなりよく知られている。

しかしそれだけではなく、

「同じ痛みに同じように耐えているとしても、同じように対処するとは限らない」

ということなのである。

だから、1日じゅう泣いているひとと、1日じゅう笑っているひとが、実は同じ痛みに耐えていることもあり得る。傷ついたときに独りになりたがるひともいれば、傷ついたときほど社交的になれるひともいる。傷ついたときにこそ優しくなれるひともいれば、傷ついているからこそ横暴になるひともいる。

だから私たちは、相手が傷ついていることに気づくことが難しい。そして本当は、自分が傷ついていることにすら、うまく気づけないことも多いのである。

しかしだからこそ、私たちはお互いを癒やせる可能性を持っているのだと思う。うつやPTSDになったときほど、誰かに対する奉仕活動をすることで自分が回復できるという説があることは、これを裏付けていると思う。あなたが癒やされることで、私が癒やされる。あなたを愛せることで、自分を愛せる。このような私たちの側面は、別に「偽善」というようなものでもないと思う。相手が自分に必要な存在だから、そのひとを愛するというのも確かにあるかもしれないが、それ以上に私たちは、自分が愛せる相手を必要としているのだと、私は思っている。

 

そしてそれでも、

自分のことすら癒やせていないひとが、誰かを癒やせるはずがない

と思っているひとには、いちど改めて、自分がどこにいるかを、考えてみてほしいと思う。自分が癒やされていないのに、自分自身が傷だらけなのに、それでも私たちを癒やそうとし、実際に癒やしてくれている存在が、私にもあなたにも、触れられるところにいる。それが、地球である。

前にも何度か書いたことだが、私は別に今肉体人として、過去生のすべてを思い出せるわけではない。だが初めて地球に生まれ変わってきたのが、私が自分の傷についに潰されそうとしているそのときだったことは、よくわかっている。そしてその傷は、実際には癒えるどころかある意味ではますます深まることになったが、それでも私は地球の存在で、確かに少しずつ変われたと思う。だから私はあらゆる意味で、この地球がもっともっと素晴らしい場所になることをずっと願っているし、だからこそ私は、今もここにいるのである。

そして、私はやはり、最終的にはどうなるにせよ、少なくともここ数年数十年というのは、私たちの傷は減るどころか、ますます多くなり深くなる可能性が高いと思っている。だからこそ、これからの私たちに、私に必要なのは、どうやって傷を癒やすかという以上に、

どうやって、傷を抱えたまま生き抜くか?

ということに、向き合うことなのだと思う。

あなたがもし、本当の気持ちを言えないなら、そもそも本当には自分がなにを感じているかすらわからないなら、私もあなたと同じだと思う。

あなたがもし、哀しいときほどめちゃくちゃになるなら、嬉しいときほどどうしていいかわからなくなるなら、卑屈なんだか自信家なんだかわからないなら、好きなひとほど大切にできないなら、それも私と同じだと思う。

あなたがもし、あまりにも傷つきすぎて、もはやなにからどうしていいのかすらわからないなら、それも、私と同じだと思う。

だから私は、本当には、あなたの問題の「解決策」は、なにひとつ持っていない。だがあなたの傷を見ることはできる。あなたが見せてくれるなら。そして私の傷を、見せることもできる。もしあなたが、見てくれるなら。

だから私は、あなたに自分を大切にしてほしいと思う。それは私が私を大切にできている自信があるからではなく、自分もまだうまくできないことだからこそ、その価値を知っているからだ。それに私たちは、本当には、誰かの存在を通してしか、自分の姿を見ることはできない。だからあなたの頭の上に蝿がいるなら、一緒になんとかしよう。そして私の頭の上に蝿が飛んでいることに気づいたら、笑ってくれればいい。「完全に癒やされた自分」として独りでいるくらいなら、あなたと一緒に傷つくことを選ぼう。傷の癒やしかたを知らない私には、それができれば充分だ。そしてもし、あなたが少しでもなにかによって癒やされてくれるなら、それはこのうえない喜びである。だから私はあなたのしあわせを、いつもあなた以上に、本気で、願っている。

コメント

  1. なすび より:

    そうですね。

    自分で自分を完璧に癒やすなんて思わなくていいのだと思いました。

    おっしゃるとおり、傷があるからこそ、前に進もうと思うことが出来るというのは真だと思います。

    まだ若いからか、私は自分の傷を見せるのが苦手です。今はだいぶ見せられるようになってきたと感じますが。。

    でも、自分で意識していなかった心の傷を他者に指摘されると、思わず身構えてしまいます。

    でも他者がいないとそういう新しい自分の側面にも気づけないわけなので、それもひっくるめて、愛おしく思えるようになれたらいいなと思います。

    “本当の気持ちを言えないなら、嬉しいときほどどうしていいか分からなくなるなら、好きな人にほど優しくなれないなら、悲しいときめちゃくちゃになるなら…”

    全部自分に当てはまっていて思わず笑ってしまいました。

    そういう自分も受け止めて、明日を生きていきたいですよね。私も同じ気持ちです。

    いい話をありがとうございます。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですか、あなたにもそんな共通項があったんですね。

      そして傷を見せることも苦手だと言うなら、あなたはきっと、

      「相手を本当の意味で、信頼する」

      「相手に心から、寄り掛かる」

      というのが、とても苦手なのではないかと思います。

      とはいえ、そんなことは私が言うまでもなく、もう自覚があることだと思います。

      そして私が、なにか的確で革新的な助言ができることでもないと思っています。

      ただだからこそ私としては、あなたが本当に信頼できる相手が現れること、そしてそのときにあなたがそのひとを受け止められることを、心から願っています。

      ですがひとまずは、あなたは他にも大きな目標があるのでしょうから、そこにあなたが近づいていけることを、陰ながら応援しています。

      そして私もこんな私ではありますが、私なりに今日も明日も、生き抜いていこうと思います。