私もあなたもどこか間違っている。だがだからこそ、私は私らしい間違いかたを選ぶ

私たちは誰もが、しあわせになりたいと思っている。負の霊でさえも、本当はそうだと思う。

私たちが感じる喜び(楽しさ・穏やかさ……)以外の念を、総称して「負の念」と呼ぶとすると、それは実に多種多様な顕れかたをするのがわかる。そして...

誰かを傷つけたいと思っているひとなどいないし、誰だって愛し合いたいと思っているし、誰のことも恨みたくなどないし、生きていることを喜びたい。そして、みんなに喜んで生きていてほしいと思っている。本当は、誰だってそうだと思う。

しかし現実には、それがまだ実現できていない。私も多くのひとを傷つけてきてしまったし、愛し合いたいひとたちと苦しめ合ってきてしまったし、誰かを恨んでこそいないが、生きていることを心から喜べているわけでもない。そして、今の世のなかには、そんなひとがたくさんいる。というより、ほとんどは、そんなひとばかりだと思う。

だから、この世界はどこかで確実に間違っている。そしてこの世界は私たちが動かしているのだから、これは私たちがそれぞれどこかで間違っていることを意味する。

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

という文章にもまとめた師の言葉には、根本的に、反論の余地がない。だから生きているのを楽しめない私は、人生のほとんどの局面で、概ね間違っていると言われてもしかたがないと思う。

だがもちろん、私だってわざわざ間違いたいと思っているわけではない。誰だってそうだと思う。正しく生きられるなら、そう在りたい。しあわせでいられるなら、心の底からしあわせを味わいたい。そう思わなかったことなどないし、これからだって、そう思わなくなることはない。だからこそ私は、負の霊団になびかないのである。

しかしだからと言って、もし私がこの瞬間から、この世界のすべてを心の底から楽しみ始めたら、私はそれもそれで間違っていると思う。世界のすべてから不満の種を見出すのも間違っていると思うが、だからと言ってこの世界の今の現状のすべてに一切の不満も改善点も見出さず、

この世界は、このままで完璧だ

と言うのが正しいとは、私には思えない。思えたことがない。だから私自身がそんな考えを持つようになったら、誰より私自身がそんな私を好きになれない。だから、私はそんなひとにはならないし、なりたいと思っていない。

これは別に私が師のことを否定しているというわけではない。私は師のことを敬愛しているし、師の言葉や生き様が、そんな浅薄な考えに基づいたものだとも思わない。だが私は、私が納得する生きかたをしていきたいと思っているし、私が他の誰でもなく私であるということを、本当の意味で、きちんと理解したいと思っている。

世界は単純に

「正しいか、間違っているか」

の2つに分けられるものではないというのは明らかである。それよりは

「間違っているか、もっと間違っているか」

というふうに考えたほうがいいのかもしれない。あるいは

「どちらも間違いであって、間違いの度合いにすら、差はない」

のかもしれない。

だがこの私の認識を、「諦め」とか、「虚無主義」のようなものだと捉えるのは早計だ。なぜなら私が本当に考えてみたいのは、

「これを踏まえたうえでの、この先」

なのだから。

 

たとえばこの『闇の向こう側』で、公開直後から一貫して最大の反響を呼んでいるのは

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

である。ここに書かれていることを、なんとか凝縮して表現するなら

自殺だけは、しないでほしい。なぜなら自殺してもあなたの存在が消えてなくなるわけではないし、問題が根本的に解決することもない。だからきっとあなたも、他のひとたちと同じように後悔することになるから。だからそんな選択は、してほしくない。そんなのは、間違っている

ということだと言ってもいい。だが最近、私はこんな考えに思い至った。それは

もしかしたらどうしようもない(と思い込んでしまった)から自殺を選んだひとのなかには、もし自分を殺さなければ、代わりに相手(自分が思う、自分に苦しみを与えている存在)を殺すしかない(と思い込んでしまう)状況にあるひともいたのではないか?だとしたら、「自分以外の誰も殺さないために、自分を殺した」という判断は、それ自体はそれほど狂った、常軌を逸した判断だとは、言えないのではないのか?

という想いである。極限まで追い詰められたとき、

「相手を殺すか、あるいは自分が死ぬか」

という思考に陥ることは特に不思議なことではない。この変型として

「世界を滅ぼすか、自分が死ぬか」

というものもあるだろう。あるいは

「相手(世界)を滅ぼして、自分も死ぬ」

というものもある。ただ自分も相手も殺してしまうと死人が2人(以上)出てしまうので、それくらいならどちらか一方を選ぼうとした結果、それが

「自分のほう」

だということになったとしても、それはそれで、それほどおかしなことではないと思う。しかしおかしなことではないにしろ、やはり、正しいとは思えない。だからどこか、間違っているのだ。

だがだからと言って、

このままでは自分が死ぬしかないから、それくらいなら、相手を殺そう

として、極限状態における2択で、

「相手のほう」

を選ぶという選択が、正しいというわけではない。それもやはり、間違っている。そしてそれは

殺人と自殺と、どちらのほうがより間違っているんですか?

と訊かれて、答えられるようなものでもない。どうしてもというなら

どちらも、同じくらい間違っていると思います

と言うしかない。

だから、

誰かを殺してまったく後悔しないなんてあり得ない

と思うなら、自殺しないほうがいい。だがもしあなたが

場合によっては、誰かを殺してもまったく後悔しないということもあるはずだ

と思うなら、この視点ではあなたの自殺を止めることはできないかもしれない。だがそれでも、私は私として伝えよう。

たとえ大切なひとを護るためであっても、誰かを殺してしまったら、その感覚はあなたのなかから、決して消えることはない。そしてそもそも、「相手を殺す以外には、大切なひとを護れない」という状況を生み出してしまったこと自体が、悠久のときのなかで必ずあなたに、迫ってくることがある

ということを。だから、誰かを殺してまったく後悔しないというのはあり得ないと、私は思っている。その誰かが他者であろうとも、自分自身であろうともだ。だから私は、あなたに誰かを殺してほしくないのと同じくらい、あなた自身を殺してほしくないのである。

しかしそれでもあなたが

すべての可能性を踏まえたうえでも、それでも私は自殺します

と言うなら、私は最終決定権者であるあなたの選択を、強制的に止める手段を持っていない。それに私は、

自殺してはいけない!そんなことは、許されることではない!

などと言っているわけではないのだ。先ほども書いたとおりで、私はただ

自殺したことを、あなたはいずれ必ず後悔するときが来るでしょう。それに私はあなたがそんなふうにいなくなってしまうのは、とても哀しいです。ですからどうか、考え直してください

ということを、言っているだけなのだ。しかしそれは、私の心からの、お願いである。

 

あるいはまた、こんな視点から考えてみてもいい。

誰かを愛する前に、まず自分自身を愛してください

というひとがいる。だがそれももし、そこから

まずなにより自分がいちばんであって、他のひとは二の次だ

という考えが徹底されてしまったら、それもそれで間違いだと思う。そもそも、そんなことを考えるようになった自分のことをどうやって今以上に愛せるのか、今の私には見当がつかない。

だがだからと言って、

自分のことはまず置いておいて、縁あるすべての存在に、できるだけの愛を注ぎ続けよう

というのが、正しいというわけではない。これもどこかで、きっと間違っている。

 

だからこうして見てきた時点で、

だから結局は、バランスの問題なんだよ。自分も殺さず相手も殺さず、自分もラクになれる方法を探せばいいんだ。自分も愛しつつ相手も愛して、バランスよくすべてを愛せばいいんだ

というふうな考えに至るひともいるだろう。それは私も、特に否定はしない。しかしその

「バランスよく」

というのは、結局のところなにを指しているのだろうか?あらゆることを

「バランスのよさ」

を基準にして考えるようになったら、世界はいったいどうなるというのか?そこに「色」はあるのだろうか?「個性」はあるのだろうか?

私はかつて、

「中庸」という言葉や概念を耳にすることがある。これは古代中国の孔子が『論語』のなかで、 中庸の徳たる 其れ到れるかな。民鮮きこ...

という文章をまとめたことがある。つまり私はこのような問いに対して

バランス(中庸・客観……)というのは、偏り(個性・主観)が様々にぶつかり合い、混ざり合い、融け合った「結果として浮かび上がってくるもの」であって、個人がそこを目指してどうこうするものではないし、できるものではない

という想いを、一貫して持っている。だからその意味で、私はバランス主義者のひとたちも、どこか間違っていると思っているのだ。

 

もちろん私も、できるなら

「いちばんいい方法」

を採りたい。

「それぞれのいいとこ取り」

をしたい。

「いい感じ・うまい具合」

に、やっていきたい。それは心の底から思っていることだ。

だがその方法を、私はまだ知らない。そしておそらく、まだ誰も知らないのだ。だから、世界はこんなことになっているのだから。

私は本当は、完璧主義者だと自覚している。そして私は、理想主義者でもある。だから、そうできるのなら、「理想」を一刻も早く実現したい。「正解」を選び、すべてを解決したい。

しかし少なくとも現状においてまだそれができていないのであれば、私は

それならせめて、私は私らしい間違いかたを選ぶ

ということを、私自身の指針にしているし、これからもそうしようと思っているのだ。

私もあなたも、どこか間違っている。どの道を選んでも、完璧な道ではない。しかしだからこそ、

自分のしたことが間違いだと理解したときに、どの間違いかたであれば、少しでもそれを自分で許しやすいか?

ということを、いつも意識していたいと思う。

私にとっては、自分をいちばんに愛そうとした結果、自分以外を愛せなくなって間違うよりは、相手にめいっぱいの愛を注ぎ続けようとした結果、自分自身を愛するのがいつまでも下手で間違うほうが、はるかに自分らしい間違いかただと思う。そもそも、誰も愛そうとしなかった結果失敗するくらいなら、愛することを諦めないでそれでも失敗したほうが、私にとってはずっといい。だから私は、たとえ本当はどちらも同じくらい間違っているのだとしても、あるいはむしろ私のほうがもっと間違っているのだとしても、やはりこの道を、選び続けると思う。

 

自分を犠牲にしてまで誰かに尽くすのは間違っています

と、よく言われる。そうかもしれない。だがそれでも、誰かを犠牲にしてまで自分のことだけを優先するよりは、ずっと私の性に合っている。

そうやって自分のことを後回しにし続けて抑え続けているひとは、最後には病気に罹るんです

というひともいる。そうかもしれない。だがそれでも、健康で長生きはしたけど空虚な人生だったと思うことになるよりは、私にとってはずっといい。それにおそらく、そういうふうに生きているひとが罹りやすい病気のひとつががんだろうとは、私自身が予測している。だから私は、自分がもしがんになったとしたらどのような方針でその後を生きるか、今のうちからよく考えてみている。そして間違いなく言えることは、

がんを発症したというそれだけの理由で、私が私の生きかたを後悔することはない。むしろがんになりたくないからという理由で自分の気持ちに嘘をついたときのほうが、ずっと後悔することになる

ということである。だから私は、そのくらいの可能性は重々承知したうえでも、今のこの生きかたを、こうして選んでいるのだ。

 

しかし

そんなふうにずっと自分を変えようとしなかったら、いつまで経っても同じ間違いを繰り返すことになるのではないですか?

と思うひともいるかもしれない。だが私は別に意固地になっているわけでも、なりたいわけでもない。それに私自身の経験値は、たとえ

「目に見える成果」

につながっていなくても確かに積み上がっているのだから、その意味で

「過去とまったく同じ失敗」

を、繰り返すことはない。それに私も、私でありながら、試行錯誤と思索を重ね、日々変化してもいる。だから今はその日来たメールの返信をその日のうちに終わらせようと躍起になることはなくなった。たとえばこんなことでも、私は確かに変わっている。だから、同じにはならないのだ。

だがそれも、今度は別の部分で、間違っているのかもしれない。だからどこまで行っても、私は間違いからは、逃れられないのかもしれない。だがそれでも、だからこそ、私はせめて私らしく間違おうと思う。それが

「私が私であるということの、責任を取る」

ということだと、私は思っている。私は間違いからも逃げられないかもしれないが、私自身からも逃げない。それにその先にしか、私が私自身を心の底から好きになれる可能性もないと、私は確信しているのだ。

 

だから、私は、どちらもどれも間違いなのだとしたら、だからこそせめて私らしい間違いかたを選ぼうと思う。だから私はあなたにも、あなたらしく間違ってほしい。その間違いかたは、もしかしたら私の間違いかたと似ているかもしれない。あるいは、まったく違う間違いかたかもしれない。だが本当に恐ろしいのは、間違うことそのものではない。

「自分らしくない間違いかたをすること」

だ。

それに「あなたらしい間違いかた」のなかには、これ以上ないあなたが表れている。だから、それでいいのだ。もしその結果なにか問題が起きたら、私にできることなら、私が修正するから安心していい。だがその直しかたにも私らしさが表れてしまうから、それが腑に落ちなかったら、また間違ってもいいから、あなたらしく間違ってみてほしい。それでどうにもならなくなったら、そのときは他の誰かが、直してくれるのだと思うから。

だから私も、そうしようと思う。せめて私らしく、間違おうと思う。それでどうしようもない部分は、あなたに、あるいは未来のあなたに、直してもらおうと思う。あなたなら、きっとできるから。そしてもし「正解」に近づける道があるとしたら、そういう積み重ねを、延々と続けていくことなのだと、私は思っている。

 

あなたがいてくれるから、私は間違うことができるのです。本当に、ありがとうございます。これからも私はたくさんの間違いを積み重ねてしまうかもしれませんが、それでも少しずつ少しずつでも成長していきたいと思っていますので、どうかこれからも、見守っていてください。そしてそんなふうにずっとお互いのことを見守り合っていられたらとてもしあわせなのではないかと、私は思っています。だからそんな私は、こんな考えに沿って、これからも、生きていきたいと思っています。その間違いは、どうかあなたが、糧にしてください。

コメント

  1. なすび より:

    こんばんは、なすびです。

    そうですね、私も自分らしく間違いたいです。

    人間である以上、どうしても視野に限りがあるし、感情もある。不完全なところがある。だから、すべてを完璧に間違いなくやることはできないのだと思います。

    もし、そうできるのだとしたら、私たちは地上に生まれていないと思います。

    高級霊ですら、”私も欠点を持っていて、間違いも犯せば、失敗もします。まだまだ改善しなければならない点がたくさんあります”と言っているのだから、私たちが過ちを犯すのは当たり前なのだと思います。

    “当たり前”だからと言って、諦めたくはないですが。。何が正しいのか、より多くの知識を得ようと努力することは必要だと思うし、自らのエネルギーを正しく使う努力をする必要だと思います。

    人間は視野が限られている以上、どうしても過ちを犯します。そうだとすると、私たちは何を基準に自らの行動を決めれば良いのだろう?と思ってしまいますが、私は、”動機”が一番大切だと思っています。

    日常生活のどんなときでも、”なぜ、そのような行動を起こすのか?”をなるべく言い訳を捨てて、正直に自分の心に問うことを忘れないようにしたいです。

    その動機が、魂の奥深くに刻み込まれ、その人自身を作っていくのだそうです。

    動機さえ正しければ、最終的には正しい決着を生むのだそうです。

    自分の真の動機を見極めるのは、とても難しいなと思います。私たちは多くのエゴを抱えており、それが真の動機を隠してしまいます。

    だから、自分の深層心理を把握するために、古来から多くの方法が編み出されてきたのだと思います。瞑想だったり、座禅だったり、呼吸法だったりがそれです。

    私の場合はヨガでした。気付かないうちに深いところに色んな感情を抱えていたということに気付けました。私の場合は、”怒り”でした。周囲の人への。両親だったり、友人だったり。。

    自分でも気付いていなかっただけに、驚きました。”ああ、自分はこんなにも怒っていたんだな〜憎んでいたんだな〜”とびっくりしました。

    ヨガを4年間続けた今、以前よりは、手放すことができ、心おだやかに過ごせるようになりました。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      人間である以上、どうしても視野に限りがあるし、感情もある。不完全なところがある。だから、すべてを完璧に間違いなくやることはできないのだと思います。

      もし、そうできるのだとしたら、私たちは地上に生まれていないと思います。

      高級霊ですら、”私も欠点を持っていて、間違いも犯せば、失敗もします。まだまだ改善しなければならない点がたくさんあります”と言っているのだから、私たちが過ちを犯すのは当たり前なのだと思います。

      そうですね、守護霊さんたちも、

      どうすれば、よりよい守護霊になれるのか?

      というような、情報交換というか学習会のようなことをしているのですから、まさにそのとおりだなぁと思います。

      それに、これは単純に

      「守護霊さんの過ち」

      と言えるようなものではありませんが、自殺を選んでしまったひとの守護霊さんは、やはりとても切なそうなので、私としてもどうにかしてなくそうと、想いを深めるところです。

      “当たり前”だからと言って、諦めたくはないですが。。何が正しいのか、より多くの知識を得ようと努力することは必要だと思うし、自らのエネルギーを正しく使う努力をする必要だと思います。

      人間は視野が限られている以上、どうしても過ちを犯します。そうだとすると、私たちは何を基準に自らの行動を決めれば良いのだろう?と思ってしまいますが、私は、”動機”が一番大切だと思っています。

      日常生活のどんなときでも、”なぜ、そのような行動を起こすのか?”をなるべく言い訳を捨てて、正直に自分の心に問うことを忘れないようにしたいです。

      その動機が、魂の奥深くに刻み込まれ、その人自身を作っていくのだそうです。

      動機さえ正しければ、最終的には正しい決着を生むのだそうです。

      私も

      たとえうまく表現できなくても、せめて「意図」(動機)は、自分に誇れるものを選ぼう

      と思っているので、あなたのその考えには、深く共感します。そして動機が結果につながるのであれば、それは私にとって、とても大きな希望です。ですから私もそれを、信じていたいと思います。

      自分の真の動機を見極めるのは、とても難しいなと思います。私たちは多くのエゴを抱えており、それが真の動機を隠してしまいます。

      だから、自分の深層心理を把握するために、古来から多くの方法が編み出されてきたのだと思います。瞑想だったり、座禅だったり、呼吸法だったりがそれです。

      私の場合はヨガでした。気付かないうちに深いところに色んな感情を抱えていたということに気付けました。私の場合は、”怒り”でした。周囲の人への。両親だったり、友人だったり。。

      自分でも気付いていなかっただけに、驚きました。”ああ、自分はこんなにも怒っていたんだな〜憎んでいたんだな〜”とびっくりしました。

      ヨガを4年間続けた今、以前よりは、手放すことができ、心おだやかに過ごせるようになりました。

      そうですね、いろんな方法があると思いますが、そうやってあなたがご自分に合うものを見つけられたなら、本当によかったです。

      あなたがこれからもずっとあなたらしくいられることを、私も心から願っています。

  2. あこ より:

    初めまして、あこと申します

    最近、自分に癌が見つかり気持ちが落ち着いてない状態です

    悲しいといえば悲しいのですが

    心が定まっていないせいか、まだ実感できてない気がします

    癌治療で色々な選択がある中

    このまま手術をしてもそれからの生活を考えると落ち込んでしまいます

    死んだ方が楽なのか…とも考えていた矢先にここのサイトをみつけました

    これじゃぁダメなんだ…と思った反面、逃げ場のない気持ちが込み上げて気持ちが定まらないまま、どうしたらいいのか迷っています

    治療をしていくことで今の問題は解決するのだろうけど障がい者になります

    治療をして障がい者として生きると言うことがいいことなのか…それがあなたの宿命とか運命とか学びとかいわれても意味がわからない

    治療を拒否することが自殺になるのか…

    どこからが自分を生かすのか殺すのか…

    すいません、なんか愚痴っぽくなっちゃいましたね…

    生かすも殺すも自分次第とは思っています

    なかなか病気を受け入れる事が出来ない自分にも嫌気がさしてます(笑

    • Dilettante より:

      あこさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      あなたご自身もお気づきのとおり、まずはゆっくりとご自分と向き合っていただければと、私も思います。

      そのうえで、治療を拒否することは自殺とは違います。ただ、どこからが自分を活かすことと殺すことなのかは、やはり考えるに値することだと思います。

      そしてそれも結局は、自分の気持ちと納得感次第なのだろうとも思います。

      あとは、あなたにとって

      「障碍者になる」

      ということがどういうことなのかということと、そのことに躊躇を覚える理由はなんなのかということ、それに実際に障碍者と言われながら生きているひとたちに、あなたがどんな感情を抱いてきたのかということなども、この機会にじっくりと考えてみたらいいと思います。

      いずれにせよ、こうしたことはすぐにできることではありませんので、最初に申し上げたとおり、そしてあなたもお気づきのとおり、まずはゆっくりじっくりと時間をかけて、向き合っていただければと思います。

      そしてなにより、あなたの心とからだを、いたわってあげてください。

      どうぞよろしくお願いします。