すべてが愛とも言えるからこそ、自分が好きな愛を見つけ、それを大切に育めばいい

先日、私はこんなことを書いた。

現代社会を形容する表現はいろいろとあるが、 「ストレス社会」 というのもそのひとつだ。 この社会はストレス要因に満ちており...

そしてそのさらに前には、こんなことを書いた。

私たちは誰もが、しあわせになりたいと思っている。負の霊でさえも、本当はそうだと思う。 誰かを傷つけたいと思っているひとなどいな...

私は、こんなことに想いを巡らせるのがわりと好きだ。というよりも、気づいたらこのような取り留めのないことを考えている。そしてそれはやはり、自分が少しでもいい生きかたをしたいからで、自分がここにいる意味を、自分で創り出したいからなのだろうと思っている。

 

私たちは、多少の程度の差こそあれ、基本的に愛されたいと思って存在していると言っていいと思う。もちろん、私もそうだ。ただそんな私たちに対して、

世界(神・宇宙……)は、もうあなたを愛しているんですよ

などという言葉がかけられることがある。そしてそんな言葉を、素直に聴けるときというのは、そのひとがとてもいい状態でいられているわかりやすい証だとも言えると思う。だがそうでないことも多くあるし、もっと言えばそんな言葉をそのまま受け入れられるときのほうが、ほとんどないのではないかとも思う。そしてそんなときには、たとえば

どこをどう見たら、今の私が愛されているなんて言えるの?もし愛されているなら、こんな状況になるのを放っておいたりはしないはずだよね!?

などというように反論したくなる。少なくとも、私はそうである。

だがそんなときの私でさえ、少し冷静になって考えれば、私には吸える空気(酸素)があり、飲める水があり、餓えをしのぐ食べものも、風雨を避ける空間もあることを知っている。だからそれを指して、世界が私を愛していることの証だと言うなら、そうとも言えるかもしれないと知っている。

にもかかわらず、やはり私からあのような反論が出てくるということの意味をもう少していねいに考えるなら、それは結局のところ、

私が(いちばんに)求めているような愛されかたで、愛されていないから

ということなのだと思う。そしてそれは言い換えれば、

今ここにあるものを、私の感覚では、愛だと思えない

ということなのだと、私は思うのである。

 

あるひとは、

愛とは、お互いを自由にするものだ。相手を縛り、取り決め、押し留めるものは、愛ではない

と言う。しかしまた別のひとは

愛とは、重石や錨のようなものだ。ひとりであればどこへ飛んでいってしまうかわからないお互いの存在を、お互いに縛り、それによってこそ支え護るものだ。だから、自分の自由さえも限定してもいいと思えるとき、私は相手を愛していると思える

と言う。そしてその両者の信念(感覚)が互いに強固なものであるなら、このふたりの愛は、どうしても相容れないかもしれない。

あるいはもっと単純に言って、愛とはお互いを護り癒やすものであるとも言えると思う。しかし、愛によって互いを傷つけ合ってしまったり、ひどい場合には憎しみ合ってしまうことさえあることも、私たちは知っている。愛があるから、傷ついてしまうのである。そして愛があるから、憎んでしまうのである。

愛しているなら、相手を傷つけるわけないし、それに逆に相手の行動で、傷つくわけもないよ!

という意見にも一理あるとは思う。しかし愛していなければ、相手のことをなんとも思っていなければ、傷つくこともないのだ。傷つくのは、揺り動かされてしまうからだ。そしてそれは、愛しているからだ。相手を傷つけてしまうのは、取り繕えず、脆い部分をさらけ出すしかなく、言葉や感情を冷静に吟味できないからだ。そしてそれももちろん、愛しているからだ。それに憎むというのは、とてつもないエネルギーを必要とする。にもかかわらずなぜそんなことをできるのかと言えば、愛しているからだ。だから、

愛の対義語は憎しみではなく、無関心だ

というのはとても正しいと、私は思っている。

 

そしてそうした意味において、私たちはその気になれば、すべての行為に愛を込めることができるとも言える。たとえば別のひとから見れば

「暴力」

としか思えないことであっても、そこに愛が籠っており、両者の間でその認識が共有されていれば、それはそれでいいとも思う。

もちろん、私は暴力を肯定する気はないし、すべての行為の背景に必ず愛があるとは思っていない。しかし、それでもあらゆる行為には、愛を込めて行える余地があるとは、言えるのではないかと思う。

だがそれでは、私にとって最も重大で切実なテーマのひとつである自殺について、

「愛を込めて自殺する」

ということはあり得るのだろうか?

私の感覚では、

自分を本当に愛しているなら、自殺はしない

と思うのだが、それすらも別の観点から言えば、反論があり得るだろう。ただそれでも、私は今までいちども、後悔していない自殺者に出会ったことはないのは確かだ。しかしそれでさえも、

自分や周りを愛していたからこそ自殺して、その結果後悔することもぜんぶ含めて、私の愛の顕れなんだよ

というひとが、この先現れる可能性はあるかもしれない。そしてそれは、そのひとにとっては、本当にそうなのかもしれない。

 

だとしたら、これはもはや手詰まりなのだろうか?すべてがなにがしかの意味で愛であり、自分ではそう思えないものであっても、誰かにとっては愛であり、かけがえなく愛おしいものだと言うなら、もはや私にはなにもできないばかりか、なにもするべきではないということなのだろうか?

私は、そうも思っていない。確かに、ずっと前から絶えず言われてきたとおり、世界のすべては愛なのかもしれない。本当に、そうなのかもしれない。しかしそうであっても、だからこそ、

数えきれない愛のかたちのなかから、私はなにを愛と見なし、育みたいと思うか?

という問いが、なにより重要になってくるのだと、私は思うのである。

あなたを力づけてきたものも愛だ。あなたを癒やしてきたものも愛だ。しかしあなたを苦しめてきたものも、傷つけ苦しめ絶望させてきたものも、愛だったのかもしれない。少なくともどこかには、愛が含まれていたのかもしれない。そしてそのことに、いつかは心から、納得できる日が来るのかもしれない。

だがだからこそ、あなたはあなたが思う愛を、今のあなたがいちばん納得し、喜べる愛を、探していったらいい。そしてそれを見つけたら、大切にして、育んでいったらいい。もしすべてが愛だと言うなら、それはすべての愛が不完全だということだから。だからこそ、愛ですらも、成長の余地がある。だからそれを誰よりも大切にできるあなたが、それをこれからもずっと、心を込めて、育んでいけばいい。私は、そう思っている。

 

ここで終わりにしてもいいのだが、ここまで言ったのだから、私自身の考えについても、少しは書いてみようと思う。今の私にとって、愛とは、愛し合うとはなんだろうか?もしそう訊かれたら、

私にとって愛し合うというのは、相手を自分の一部とし、自分を相手の一部とすること、つまりお互いを、お互いの一部とすることだ

と、私は答える。そしてもうひとつ付け加えるなら、

相手のすべてから、眼を背けないことだ

と、伝えることだろう。ちなみにこれは、私に馴染み深い霊存在のひとりが

どんな相手との関係であれ、その関係性は4つの段階を経て深化していくんだと思う。特に恋愛関係においてわかりやすいものだけれど、第1期は、お互いのいいところだけが見える時期。そして第2期は、今まで気づかなかった、あるいは気づいても気に留めずにいられた、相手の気に食わないところが見え始める時期。そうすると第3期では、相手にも自分にとって好ましいところも、気に入らないと思えるところもあると思うようになる。そしてそのすべてを踏まえたうえで、それでも相手を大切に想い、分かちがたく一緒にいたいと思えたら、それが第4期への到達だ。でも今のひとたちのほとんどは、第2期の入口から中期までの間に、愛想を尽かして別れてしまう。そしてその前の段階で、ひどい冷戦状態に陥っている。もちろんそこには負の霊団の妨害も影響しているとはいえ、この現実は、とても切ないものだ

と言ってきたときから、ますます強まった想いである。

だから私にとっての愛とは、とても重く深いものである。だが、もっと軽やかで自由なものを愛だと、最も好ましい愛のかたちだと見なすひとがいることも、私はよくわかっている。そして私には思いもよらないような愛のかたちでさえ、誰かと誰かの間では、調和的に成立しているのだろうとも思う。

だから、これは端的に言えば、

「好みの問題」

なのだ。そして誰もが愛されたいと思っていて、愛したいと思っていて、愛し合いたいと思っているのだから、これはすべての存在の、核心を成すものだと言ってもいいと思う。そして誰ひとり同じ存在はないのだから、それはどこかしら、それぞれに異なっているのだろうし、それが自然なことなのだろうと思う。

だがだからこそ、私が愛だと思うものを、あなたにも愛だと思ってもらえるなら、それは本当に奇跡的なしあわせだと思う。それにあなたが私に愛だと思ってくれているものを、私も愛だと思って受け取れるなら、そのとき私は、もっと私のことを誇りに思うことができると思う。だから愛というのは、私にとってもやはりどうしようもなく、かけがえのないものなのだ。

だがここまで再三確認してきたように、愛というのはあまりにも多様で、深すぎる。だから誰かが

あなたを愛しています

と伝えてきたところで、それが本当にはなにを意味しているのかは、なかなかよくわからないと思う。

だから私も、生きれば生きるほど、この言葉の扱いには、慎重を期すようになった。この言葉ほど、意味が多様にあり得るものはないと言えるくらいだからだ。だから私は、あなたを愛しているという、あまりにも使い古された安易な表現に頼る代わりに、最近は

あなたを大切に想っています

とか、

あなたのしあわせを、心から願っています

などと言うようにしてみているのだが、それでもまだ充分ではないから、この機会になんとかさらに言葉を尽くして、この気持ちを伝えてみようと思う。

 

私は、あなたのことを、自分の一部であるかのように、大切に想っています。そしてだからこそ、私はあなたが私ではなくあなただということを、愛おしく想っています。だからそんな私は、あなたが他の誰でもなくあなたでい続けられることを、心から願っています。どうかあなたがここに来る前、そして最初にあなたの存在が生じたそのときに、誰よりも深く願ったその意志が、潰えることなくあなたのなかに灯り続けますように。あなたがあなたであるということを、誰よりもあなたが、誇りに思えますように。そしてあなたが存在していることを、この世に生まれて生きていることを、心から喜べる日が来ますように。そしてその想いが、ずっと在り続けますように。私は心から、そう思っています。

 

愛という言葉に、それでもまだ言い尽くせない万感の想いを託して、今日も私は私として、あなたに愛を、贈っています。どうか、あなたのお気に召しますように。

コメント

  1. だれか より:

    誰かが愛してくれても、自分にはもったいないように感じるし、逆に誰かを愛しても、汚してしまうような気がするから、人を好きになるのが怖い、どうしよう。とずっと考えています。

    きっと、誰かを愛することのできる人は、自分のことを受け入れて、愛してやれてる人なのではないかなあと思います。愛し合うことができる人は、(無意識でも)愛される勇気がある人ではないかと考えています。

    そのどちらも持っていないから、羨ましいなあとも感じるし、そう感じれるように育つことのできなかったことからの嫉妬心もあります。

    でも、いつかそれをも受け入れて、誰かをまた愛せるようになれば良いなと思っています。

    • Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ここにも書いてあるとおり、私自身がうまく愛を表現したり、愛し合ったりするのがあまりにも下手なので、明快なことは言えませんが、私の感覚を率直にお伝えするなら、別に自分を受け入れたり愛したりできていなくても、誰か(あるいはなにか)を愛することはできるのではないかと思っています。ただ、私自身もそうですが、自分をうまく愛せていないと、相手からの愛や行為をうまく受け取りにくいというのはあると思うので、あなたが

      誰かが愛してくれても、自分にはもったいないように感じる

      というのは、私も私なりにではありますが、理解できるものです。

      そのうえで、あなたは

      誰かを愛しても、汚してしまうような気がする

      とおっしゃいますが、たとえばそれは、相手に対して様々な感情や欲求のようなものを持ってしまうことに、後ろめたさや引け目のようなものを感じてしまうからでしょうか?

      もしそうだとしたら、自分が好きになった相手に、たとえば傍にいたいとか触れ合いたいといった想いや欲求を持つというのは、別に汚いものでもなんでもないと思います。

      もちろん、それは相手のあることなので、それが合意されないこともあるでしょうが、少なくとも自分のなかにそうした感情や欲求を持っていること自体は、まったく汚くも悪くも恥ずかしくもないというのが、私の立場です。

      ですからそんな私としては、こんなふうにあなたを見ているひともいるということをお伝えして、あなたにもう少しラクに、愛について向き合っていただけたらと、そう思っています。

  2. なすび より:

    こんばんは、Dilettanteさん

    私にとって愛し合うというのは、相手を自分の一部とし、自分を相手の一部とすること、つまりお互いを、お互いの一部とすることだ

    本当に、その通りだと思います。もっと多くの人が、このことに気付くことができたら、もっと世の中は住みやすくなり、実りある人生を送ることができるのではないだろうかと思います。

    人間は体の進化は既に完全に近づいているが、心の進化はまだまだこれからだと言われます。”愛”の形もその心の進化を反映するものなので、まだまだ未熟なのが現状です。

    (Dilettanteさんは、性別関係ない愛を語っておられると思いますが、私は”男女愛”に限定して述べますね。)

    でも、個人的には、確実に進化しているなと感じます。

    2016年にヒットした”君の名は。”、”君のすい臓を食べたい”はDilettanteさんのおっしゃる、”お互いを、お互いの一部とする”、これからの時代で広まっていくと思われる新しい愛の形を描いたもので、多くの人の心に響くものがあったからこそ、あれほどヒットしたのだと思います。

    以下、”君のすい臓を食べたい”について述べている記事を引用してみます。まさにDilettanteさんのおっしゃる、”お互いをお互いの一部にすること”ですね。

    君のすい臓を食べたい

    そのタイトルが意味するのは、何でしょうか。

    主人公の二人は、お互いがお互いを、かけがえのない相手だと思っていました。それは、魅力的な人だから付き合いたいというよりは、こういう人になりたいという気持ちだったのです。

    爪の垢でも煎じて飲みたいをはるかに超えた尊敬でいっぱいの思いを、君の膵臓をたべたいと表現したのです。

    しかも、二人が、お互い尊敬しあっているという、とても貴重で、ありえない関係です。

    でも、実際に、そういうことが、あるのです。その場合、相手の魂に、自分の魂に注ぎこまれて、自分の魂の半分が相手の魂になるのです。求める魂が自分の中に入ることで、自分の魅力が増していくのです。

    その感謝は、君の膵臓をたべたいでさえ、十分いい表せてはいません。

    むしろ、あなたに食べられて、あなたの栄養になりたい。そして、あなたと一体になりたいという方がぴったりきます。

    食べられるなら、頭からガリガリ食べられたい。カマキリのメスが、後尾を終えたオスを食べるように。

    それほどの気持ちです。

    修行を終え、魂の伴侶(ツインレイ)との出会いに導かれたとき、お互いが成長できる関係が、いかに素晴らしい繋がりであるか、気づきます。

    出会わさせてもらえたことに、心から感謝することが出来るのです。

    これって、知ってる人には常識みたいです。

    でも、知らなかった。

    こんな素敵なことは、教科書に載せて、ぜひみんなに知ってもらいたい。

    みんな信用しないんです。だって、教科書に載ってないし、先生は、教えてくれなかったもの。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですか、『君の名は。』は観たこともありましたが、『君の膵臓をたべたい』は、名前だけは耳にしたことがあったものの、よく知りませんでした。こないだ映画にもなったんですね。

      私にとっても、そういう愛の在りかたは、実にかけがえがなく、愛おしいなぁと思います。

      そしてだからこそ、自分たち自身で体現してみたいなぁと思います。

      もちろん、簡単ではないんですけどね。

      ですが、本当は、永遠の時間があるんですから、私も私として、ずっと愛と向き合い、追求しながら、深めていきたいと、そう思っています。