感謝することは大切だとしても、「当たり前」の基準をどこに置くべきかは、よくよく考えてみてもいい

以前私は、

「感謝する」という行為ほど、ひとびとに賞賛されているものはない。感謝するということは、 それまで当たり前だと思っていたことの価値に気付...

という文章をまとめたことがあるが、私は今でも、感謝するということについてよく考えを巡らせる。

先の文章のなかで私は、

感謝するという行為の背景には、「他者との比較」もっと言えば、「恐怖心」や「優越感」のようなものが潜んでいるとは言えないだろうか?

ということに気づき、そこに向き合うところから、考えを展開させていった。

それを踏まえたうえで、今回はまた別の側面から、感謝について考えてみたいと思う。それはつまり、こんな出発点だ。

感謝すること、ありがたいと思うことは、原義から言えば

「あることが難しい(珍しい)ことが起きた」

という感覚から来ている。そしてそもそもその感覚の出処は、自分自身の体験の積み重ねにある。だからありがたいと思う気持ちの背景には、

私にとって珍しい、私がそうそう味わうことのできないことが起きた

という感慨があると言うことができると思う。そしてこれは言い換えれば

本来の私にふさわしいこと以上の、私が当然受け取っていいはず以上のいいことが、ここに起きているんだ

ということだとも言えると思う。

それではここを出発点として、いくつか具体例で考えてみよう。

たとえば今では世界有数の先進国のひとつに数えられるアメリカだが、ほんの数十年ほど前までは、今よりはるかに苛烈な黒人差別があった。その当時には、

「白人専用の学校」

も、

「白人用と黒人用に分けられている公共のプールやトイレ」

も、あちこちに存在していた。

そんななかで、もしそうできる力があったとして、私が率先して

「人種統合学校」

を創設したとしたら、私はもしかしたら、感謝されたかもしれない。それは、その環境における一般常識から言えば、当たり前のことではないからである。そしてもっと言えば、今でも世界には、教育を受けられないひとたちはたくさんいる。だからそのことを理解したら、私たちは自分が教育を受けられることに感謝することになる。

あるいは、もっと単純に言えばこういう話だ。

世界には、生まれてすぐに餓死するひとたちや、雨露をしのぐ空間のないひとたちはたくさんいる。だからもしそうできる力があったとして、私が彼らに食事や部屋を提供して回ったら、私はもしかしたら、とても感謝されるかもしれない。そして一方で、

「食べものがあることも家があることも当たり前ではない」

ことを学んだ私たちは、それまでよりももっと、自分の境遇に感謝できるようになるかもしれない。

だとしたら、これは一見素晴らしいことのように思える。そして実際、これは確かに素晴らしいことだとも思う。だがそうだからこそ、ここで話を終えてしまっては、私たちは、私は、大切なものを見落としてしまうのではないだろうか?つまり私は、これまでのすべてを踏まえたうえで、改めてこう問いかけたいのである。

みんなが自分の望む教育を受けられることも、必要な食事や水に困らないことも、不快でない空間に身を置けることも、本来は「当たり前のこと」ではないのか?

 

確かに、餓えて死んでいくひとたちがいるなかで、自分に食べものがあることはありがたい。しかし本来は、誰もが食事や水を与えられるべきではないのか?そして実際に、誰もが食べものに困らなくなったら、それは素晴らしいことだ。私も心からそう思う。そしてそれは

「それが決して当たり前ではなかったとき」

を知っているからでもある。しかしそんなことは、本当は、当たり前のことではないのか?

こんなふうにしてもらえるだけでも、ありがたいと思いなさい

というようなことを言われたことは、私にも何度もある。これは言い換えれば

これは本来あなたにふさわしい以上のものだ

ということを言われているということだとも言える。

ただもちろんこれは一方では、

「感謝することの大切さ、自分の身の回りにあるしあわせに気づかせる教育」

だとも言える。ちいさなことに感謝できることは、誰が見ても美徳だとされるのだから、なおさらこうした教育は正しく思える。

しかしもしこうした言葉とともに与えられたものが、

「1日1枚だけのパン」

のようなものだったら?私はそれでも、

「世界には、これすら食べられないひともいる」

ことを根拠に、これを感謝して受け取るべきなのだろうか?そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。確かに、世界には1日にパン1枚も食べられないひとはいる。だがそれは、本来は

「信じられないほどの異常事態」

なのだ。それを基準にすれば、

「1日パン1枚でも与えられている私」

は、まだ恵まれているのかもしれないが、かといってこれが当たり前では決してないはずだ。つまりもし私がそんな状況に追い込まれたら、やはり私はそれを、

「異常事態」

だと認識しなければならないのだと、私は思うのである。

 

感謝することは素晴らしい。ちいさなことにも感謝できることは素晴らしい。これに反論するのはとても困難である。それに、

「感謝を忘れて傲慢になる」

ことの危険性を鑑みれば、なおさらこれに異論を挟む余地などないように思える。

しかしだからこそ、ここにはとても巧妙な罠があるのかもしれないと、私は思うのだ。それは言ってみれば

「感謝する」という教育すら、ある方向に行き過ぎてしまうと、それは実のところ「奴隷根性を植えつける、奴隷教育」になってしまうのではないか?

という危惧なのである。

 

失ってはじめてありがたみがわかった

という言葉のとおり、私たちが最もその価値に気づけるのは、それを失ったとき、あるいは失いかけたときである。

だから、私たちが生きていることに最も感謝できるのは、死にそうな目に遭ったときだと思う。同じように、満足に食べられないときを経験したときにこそ、私たちは食べものを食べられることにいちばん感謝できるのだと思う。

しかしそもそも、たとえば戦争状態がそうであるように、日に何度も死を感じたり、ほとんどいつも餓えていたりするようなことは、あまりにも異常な状態なのではないか?だから、その

「あまりにも異常な状態」

に慣れきってしまったから、それにさえも感謝しなければならないような状態に置かれてはいるとしても、そんなことは、本当には、

「感謝するようなことではない」

と言ってもいいとは思わないだろうか?

言い換えればこういうことだ。私たちは、食べるために生まれてきたのか?水を飲むために生まれてきたのか?確かに、そこにも喜びやしあわせはある。だが、それをいちばんの目的として生まれてきたわけではないはずだ。

では私たちは、愛し合うために生まれてきたのか?そうかもしれない。しかしそれならば、

「愛し合うことができたら、人生の目的はすべて達成された」

と言うべきなのだろうか?

私には、そうは思えない。確かに、愛し合うことは難しい。そしてだからこそ、愛し合えることは素晴らしい。だがそれが、

「私たちの、最終的な到達点(ゴール)」

なのだろうか?

いや、そうではないはずだ。私たちは、本当は、

「愛し合うことができたうえで、だからこそ得られる計り知れない力を活かして、どこまでも素晴らしい世界を創っていく」

ために存在しているはずなのだ。だから本当は、愛し合えることなんて当たり前なはずだ。食べられることも、もちろん空気や水が汚れていないことなど、当然の当然に満たされているべき条件なのだ。私たちの目的は、私たちにできるはずのことは、そんなことのはるかに上に、あるはずなのである。

 

だからこそ、今のこの世界は、あまりにもひどいのだ。当たり前のことが当たり前でないと思えてしまうほど、そんなことで感謝しなさいと言われなければいけないほど、そこまで感覚を狂わされるほど、おかしくなっているのだ。だから私も、未だに師の言葉が、当たり前には受け取れないのである。

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

だがだからこそ、私ももう本当に、こんな状態から脱したいと思っている。そしておそらくは、脱することができるはずだとも思っている。私は100年後のひとたちには、いつも当たり前に愛し合っていてほしい。それが自然なことなのだ。そうでなかったことが、異常だったのだ。だから、そんなところで止まらなくていい。いくらでも愛し合って、どこまでも愛を深め合って、無限に学び続ければいい。そうできることになど、感謝しなくてもいい。だって私もそんな世界に住んでいたいから、そんな世界にしようと思うのだ。こんなことは、当たり前のことなのだから。

コメント

  1. 鍵盤マーチ より:

    本来、当たり前のことではないか…。

    これについては、私も肯くものがあります。

    ただ、「誰にも愛されなくて(も)良い」と思う方がほっとしてしまう今の私がいます。

    そんな私が、久々にDilettanteさんのブログを拝読し、この記事に出逢えたのは、何かのメッセージなのか気になりました。

    相変わらず頓珍漢なコメントですみません。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、あなたが心からほっとできるのであれば、そのように考えることも別に悪いことではないと思います。

      誰もが愛だけを目的に生きるべきだとまでは思っていませんからね。

      ただ、あなたのそんな気持ちも理解できる一方で、やはり私としては

      それでも、愛し合いたい

      と思ってしまうところです。それが欲張りなのかなんなのかは、見解の分かれるところなのだと思いますし、そういうものだとも思います。

      ただ私は、たとえ誰かから見れば欲張りだろうがなんだろうが、その可能性を追求することはやめる気がありませんし、そうであるならどんなに時間がかかっても、必ずそれを成し遂げてみたいと、そう思っています。

      つまり私というのは、相変わらずずっと、そんな存在だというわけです。

  2. なすび より:

    そうですね。食べ物があるだとか、体が健康だとか、愛しあえるのが当たり前の世界だったら、良いのに!と私も思います。

    まだまだ課題や問題は山積みなのが現状だと思います。

    だからこそ、”自分のできる範囲でその問題の解決のために力を注ぐ”というのが、私たちが生まれてきた目的の一つであるのでしょう。

    世の中を見回していると、暗いニュース、不公平、力の支配が横行していて、”あぁひどいなぁ。。”と暗い気持ちになることもあります。でも、その一方で、夢に向かって頑張っている人、多少自分の利益のためだったとしても、世の中を少しでも良くしようと頑張っている人、誠実に仕事に取り組んでいらっしゃる人もいます。

    私自身の内面だけを見ても、やる気に満ち溢れている時、将来に希望を持てる時、何にもやる気が出ない時、将来を悲観する時があり、やはり世の中は比較対照により成り立っているのだと思います。

    年配の方でも、”苦労があったからこそ、今些細なことに感謝できるのかもしれないなぁ”とおっしゃる方が多いように思います。

    “人生は、晴れの日も、雨の日もあり、その両方を経験することによって、性格が深みを増していくんだよ”というシルバーバーチの言葉は本当だと思います。

    逆に、悲しいことに、”その苦労のせいで今の自分は不幸になったのだ”と考える方もいらっしゃいます。そこに学歴や生まれ持った才能はあまり関係がないと感じます。

    最近、何となく感じていたレベルから、確信に変わったことです。

    それは、大きな能力を授かっている人よりも、壁にぶつかった時に、立ち直る強さを持っている人の方が幸せなのではないかということです。

    そして、人と比べず、自分のペースで生きること。生き急がないこと。私は自分でも知らないうちに生き急いでいました。

    そのように素直に感じられるようになったのも、生き急いで心のバランスを崩した経験があったからこそかなぁと。

    というわけで、長くなり、とりとめもないですが、全てが当たり前でないのは学びのためなのかなと思います。

    そのようなことは、Dilettanteさんは分かっていらっしゃるでしょうけれど。

    もちろん、より多くのものが当たり前となり、より高い次元の幸せを追求できるような世界を私も望む一人です。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ええ、人生はあらゆる意味で自分の想像を超えてくるものだと思いますが、結局のところ

      なにが起こったとしても、そこからなにかは学び取ろう

      という姿勢があれば、なんとか生き続けられるのかなと思ったりもします。もちろん過去には痛みも哀しみも多々あるわけなので、それをそのまますべて飲み込むことは難しいとしても、そこからなんとか糧を見出そうとすれば、成長の糸口が掴めるのかもしれないということです。

      端的に言えば

      転んでもただでは起きない

      ということなのですが、これはあなたの言う

      壁にぶつかった時に、立ち直る強さ

      というのと相通じるものがあるのではないかと思います。

      そして、

      全てが当たり前でないのは学びのため

      とおっしゃるのもまったくそのとおりだと思うのですが、だからこそもう一方では、

      こんな学びは、もう充分やり尽くしたんじゃない?

      と思ってしまうところも、私にはあります。

      それともそれは私の早合点で、まだまだこのような状況から学ばなければいけないことが残っているのでしょうか……。

      しかしいずれにしても、

      こんなふうに環境を破壊し続けていたら、もう長くは保たない

      ということだけは、私のなかでは疑いようもないほどわかりましたので、ともかくそういった点からも、あせりすぎないようにしながらもひとつひとつ、私にできることを続けていきたいと、そう思っています。

  3. なすび より:

    Dilettanteさん

    返信ありがとうございます。

    そうですね。”こんな学びはもう充分やり尽くしたんじゃない?”と思ってしまうこと、私にもあります。

    もっと言うと、明日もし目が覚めなかったとしても、それはそれでいいかなぁと思ってしまったり、早くこの世で学ぶべきことをやり終えて、向こうに行きたいなぁと思ってしまうことがあります。

    “これだけ苦しんだのにまだ、苦しまないといけないのか”、”こんなに頑張っているのに、なぜこんなに報われないのだろう”と考えてしまうこともあります。

    だからこそ、Dilettanteさんの思いは痛いくらいに分かります。。。

    でも、これは自信を持って言えることですが、苦しんで成長した分だけ、苦しいことは減っていくように感じます。

    だから、苦しいからこそ、(そしてその苦しみを早くやり過ごしたいからこそ)、とことん向き合っていきたいのです。

    そして、次のような内容を読むと、やはりまだまだ学ぶことはたくさんあるということを思い知らされます。

    (問)自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。

    「私が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

    霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことの出来ない場にさらされたとしても、青天白日の気持で誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

    人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

    さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。」

    前を向けない時もあるでしょうけれど、共に”頑張ったね”と言えるような日々を生きることができたら嬉しいです。

    • Dilettante より:

      もっと言うと、明日もし目が覚めなかったとしても、それはそれでいいかなぁと思ってしまったり、早くこの世で学ぶべきことをやり終えて、向こうに行きたいなぁと思ってしまうことがあります。

      “これだけ苦しんだのにまだ、苦しまないといけないのか”、”こんなに頑張っているのに、なぜこんなに報われないのだろう”と考えてしまうこともあります。

      そうですよね、そんなふうに思ってしまうときもありますよね。ただそんなあなたが

      でも、これは自信を持って言えることですが、苦しんで成長した分だけ、苦しいことは減っていくように感じます。

      だから、苦しいからこそ、(そしてその苦しみを早くやり過ごしたいからこそ)、とことん向き合っていきたいのです。

      と言っているのは、そういう信念を保って生きようと思ってくださっているというのは、私自身とてもありがたく、また心強く感じています。

      それから、あなたが引用してくださった問答も参考に、改めて私自身を振り返ってみましたが、やはり結果はどうあるにせよ、ともかく私が拠って立つ信念そのものは、私も誇りを持っていると言えると思います。

      そしてだからこそ、私も私なりにではあるのですが、これからもできる限りのことはやってみようと思います。

      それにあなたのことも、これからもずっと、心から応援しています。