「欲しいものはもらえないのに、欲しくもないものばかりが与えられる」という事態を、どう解釈するか?

いい子にしていたら、サンタさんがプレゼントをくれるんだよ

私の家は、おそらく現代日本の一般的な宗教観のもとにあったと言えると思う。それで私も物心ついたときからしばらくの間、クリスマスには

「サンタさんからのプレゼント」

をもらっていた。

私はときどきサンタさんに宛てた感謝とあいさつの手紙を書いたりしていたが、毎回

サンタさんは、よく私の欲しいものをわかるなぁ。すごいなぁ!

と驚いたものだった。それで私は、

来年もサンタさんからプレゼントをもらえるようにしよう!

と思って、自分を律しようとしていたのだから、ともかくサンタさんは私の発育にいい影響をもたらしてくれたと、今でも私はそう感じている。

 

そして私も歳を重ね、いつしかサンタさんからのプレゼントをもらえるような歳ではなくなってしまったが、それでも私は、別に悪いことをしようとか、悪いひとになろうなどと思ったりはしなかった。もちろん、これからもそうだ。そしてそれは本当は、私に限ったことではなく、あなたもそうだし、誰でもそうだと思う。

しかし、そうであるにもかかわらず、世界は私たちに、そうそうプレゼントはくれない。いや、本当はくれているのだと思うし、実際にくれてもいるとわかってはいる。

しかしそれは、

りんごを食べたかったのにみかんをもらった

京都行きの飛行機かと思ったら北京行きの飛行機だった

というように、私が願っていたはずのものとはだいぶ違うものであることも多い。だからこそ、私たちは、私は、それをプレゼントとは思えない。これがサンタさんであれば、失格だとも言いたくなるものだ。こどもの頃あれだけ素晴らしく適確にプレゼントをくれたサンタさんは、どこに行ってしまったのだろうか?

 

いや、それも本当は、そもそもの認識からしてズレている。私たちはこどもの頃でさえ、願いがそのまま叶う経験などほとんどない。たとえクリスマスのサンタさんのプレゼントは例外だったにせよ、それ以外の場面のほとんどで、願いがそのままに叶うことはない。だからこそ、クリスマスにはあれだけ驚いたのだ。つまりこのことについては、こどもにもなんの特権もないということだ。

私たちは、多かれ少なかれなんらかの願いを持って生きている。そしてその想いが世界を動かしていくはずなのにもかかわらず、それがそのまますんなり実現することはとても稀である。ただその一方で、存在し続ける以上必ず、なんらかの「変化」が与えられる。その変化を

「プレゼント」

であると見なせば、確かに私たちは全員が、日々一刻一刻、プレゼントを贈られ続けている。それを「サンタさん」と呼ぶか、「神様」と呼ぶか、あるいは「世界」か「運命」か、それは単に名前の問題であって、その対象にはひとりの漏れもない。

だからその意味では、私たちは、私は、毎日一瞬一瞬喜んでいるべきだとも言える。私は今までもずっとプレゼントをもらってきたし、これからももらい続ける。そこに条件はないから、これは絶対である。だからこれは確かに、

「とてつもなく恵まれたこと」

であるとは言える。しかしにもかかわらず、私はなぜ、それを素直に喜べないのか?

それは端的に言えば、

私が欲しかったものは、こんなものじゃない!

私はこんなものが欲しくて、努力してきたんじゃない!

という想いがあるからなのである。

りんごが食べたいときに、みかんをもらうこと。あるいは京都に行きたいときに、北京に連れて行かれること。それならまだしも、お腹が減ってしかたがないときに、毒入りのご飯を与えられるようなことさえある。これを、

「プレゼント」

だと言われて、喜ぶのはとても難しい。というより、ほとんどできるはずがないと思う。だがこうした

「欲しいものはもらえないのに、欲しくもないものばかりが与えられる」

という事態は、実のところ私たちの日常に満ちあふれていると思う。だからこそ、私たちはこれをなんとかして、解釈していかなければならない。そしてこれをどう解釈するかで、そのひとにとっての人生の意味が変わると言っても、決して過言ではないと思う。

 

だがもちろん、こうした問題の重要性は古くから認識されているもので、既に多くのひとたちが、考えを巡らせてきた。そのなかでも代表的なもののひとつが、

神はあなたよりも、あなたの欲しいものを知っているのです。だから神が与えたものが、あなたが本当に望んだものなのです

というようなものだと思う。そしてこれは別の言葉を遣えば

あなたの顕在意識がどうであれ、あなたの潜在意識が望んでいるものが、現実として引き寄せられるのです。だからそれをいいものだと思えないのは、あなたが自分の潜在意識を知らないからなのです

というようにも言い換えられるが、言っていることの本質は同じようなものだと思う。つまりこれは結局、

欲しくもないものしか与えられていないというのはあなたの思い込みで、本当はすべて、あなたが願ったとおりのプレゼントが与えられているんですよ

ということを伝えようとしているのだと、私には感じられる。しかしこれに対しては、

そんなこと言われたって、やっぱり私はこんなもの望んでなんかない!

という想い(反論)が、当然湧いてくるのではないかと思う。少なくとも、私はそうだ。だから私のように、この説を採れなかったひとには、また別の説が提示される。それは、

確かにあなたとしては、これよりあれを欲しいと思ったでしょう。それはわかっています。ですが神の広い眼から見れば、あなたには本当は、あれよりこれのほうが向いているのです。だから、よりよいものとして、これが与えられたということ。それをいいものと思えず、ましてより悪いものと思えてしまうのは、あなたの視野が狭く、狭量だからなのですよ

というようなものだ。これは、先ほどの反論に確かに対応している。私がこれを望んでいたわけではないということは認めたうえで、より高い視座から見れば、こちらのほうがいいという説だからだ。だからこの説を発展させると、

だから今あなたに与えられたものを、最善のものとして受け止め、そこにある恵みを見出せるように視野を広げて、成長していきなさい

ということにもなる。そしてもし、この説に完全に同意できるのであれば、それはそれでラクだと思う。与えられたものを喜び、与えられなかったものを追わず羨まず、ただ今あるものを活かす。この姿勢を貫けるなら、それは素晴らしいことだと思う。

しかし私自身は、どうしてもそうはなれない。というのも、この姿勢は確かに「謙虚」だとも言える半面、どこかに

自分なんかちいさな存在に過ぎないのだから、自分にいちばん合ったものなんかわからないんだ……

という諦めを育むのではないかと思えてしまうからだ。そして、もうひとつもっと端的に言うなら、

私のためを思って配慮してくれているのはわかるけど、そんなおせっかいは要らないよ!

というような気持ちが出てくるということも大きい。これはたとえば

「おもちゃを欲しがる3歳のこどもに、サンタさんが将来を見越して、大学受験の参考書を贈る」

ようなことだと思えるからだ。今その子が欲しがっているのは、どんなに優れた受験の参考書よりも、おもちゃなのだ。確かにいずれその子が大きくなれば、その参考書の価値を理解できるようになるかもしれないが、そのときは誰より本人が、自分でそれを望むようになる。それに本当の本当には、その子にとって大学に入ることが最大のしあわせではないかもしれない。だったらなおのこと、本人のことは、本人に決めさせるほうがいいと思う。だから私は、このような

あなたが思っているよりも、ずっと大きくて深いしあわせにつながるものが、プレゼントとして与えられたんです

という説にも、すんなりと同意することはできないのである。

また、これを少し換えたものと見なしてもいいと思うが、

あなたが喜べずにいるその現実は、他の誰かにとっては、とても羨ましいと思えるものなんですよ。そして一方で、あなたが味わいたいと願っていたその状況は、今別の誰かが、代わりに味わっているものです。だから私たちはそうやって、それぞれにお互いの願いを叶え合いながら、全体として経験を重ね、それを共有しているんですよ

というようなことが言われることもある。確かに、たとえば

「世界をより素晴らしくする」

というような大局的なことについて、

「誰がそれを成し遂げるか」

ということにこだわる意味があまりないというのはわかる。大切なことは、

「それがうまく成し遂げられるか」

であって、必ずしも私がそれをやるかどうかは問題ではない。だからこのように、

まず先に果たすべき役割があって、それをよりうまくできるひとに、それぞれの役が振り分けられていく

という、

「適材適所」

のような考えかたに、まったく意味がないとまでは思わない。

ただそれを踏まえたとしても、もっと個人的で切実なことなら、それは同じようには言えないと思う。

りんごが食べたいときに

りんごは他のひとがあなたの代わりに食べているから、あなたはみかんを食べなさい

と言われたり、京都に行きたいというのに

京都はもう他のひとが行って、おみやげ話ももらえるだろうから、あなたは北京に行きなさい

と言われて、納得しろと言われても困る。先に書いたように、ときには

「誰がやるかより、成し遂げられるかどうかが重要なもの」

というのもあるのは理解できる。しかし一方で、

「誰かにしてもらえばいいというのではなく、自分がやる(達成する)ことに意味がある」

と思うものもある。だからそのようなことに関してまで、この解釈で納得することは、少なくとも私にはできないことだ。

 

だから私は、こうしたすべてを踏まえたうえで、今の私自身の解釈にたどり着くのである。それは

このような「欲しいものはもらえないのに、欲しくもないものばかりが与えられる」という事態が怒るのは、自分の想いの深さを問われているからだ

という解釈なのである。

りんごが世界にひとつしかないとして、多くのひとたちがそれを求めて探す。すると途中でみかんがたくさん見つかり、そのみかんで充分満足したひとたちは、そこで帰っていく。しかしやはりりんごを求めて旅を続けるひとたちには、やがてぶどうやスイカ、それにメロンやさくらんぼなど、それぞれにいろいろなものが与えられる。そしてその度に旅を続けるひとは減るのだが、それでもどうしても満足できず、りんごを追い求めずにはいられなかったひと、そこまでの想いを持っていたひとに、たったひとつだけのりんごが与えられる。私がイメージしているのは、たとえばこういうことなのである。

ただもちろん、私はりんごを探す途中で他のもので満足したひとたちを悪いとか未熟だなどと思っているわけではない。そもそも誰にとってもりんごがいちばんいいものだということですらない。もしかしたらただ単に、

「みんながりんごを欲しがっていたから、自分もりんごがいちばんいいものだと思い込んでいた」

だけなのかもしれないのだ。だからここまでに見てきたような、

あなたが本当にいちばん欲しいものを、今のあなたが理解しているとは限らないのです

という意見には、確かに一理あるとも思うのである。また、数多くあるからといって、価値や質が低いものとも言い切れない。それに、たとえどんなに似ていても、本当にまったく同じものなど存在しないのだから、たくさんあったみかんを持って帰って満足したひとが、低俗だというわけでもない。自分が本当に満足できたなら、それがそのひとにとっていいものなら、それでいいのだ。いちばん大切なのは、その基準だと思う。

ただそのうえで、なかなか手に入らなかったりんごを、諦めずに手に入れることができたというのも、やはり素晴らしいことだと思う。道中の様々な苦労に加え、もしかしたら代替品になったようにも思えたいろいろなものに惑わされず、自分の本当の願いを吟味し、そこに向き合い貫き通した姿勢は、本当に素晴らしいと思う。そんなひとだからこそ、望むものを手に入れられたのだし、りんごのほうも、そんなひとに見つけられたことが、いちばんのしあわせなのだと、そう思うのである。

そして、ここで少し観点を換えてみると、もし自分がりんごを探している途中で、みかんやぶどう、それにスイカやメロンにさくらんぼなど、たくさんのものが見つかったが、自分としてはそれが欲しいわけではないというなら、そういったものは、それを自分よりもっと強く欲しがっているひとに、あげたらいいのだと思う。先ほども言ったとおり、別にすべてのひとにとって、りんごが最高だとは限らない。だからそれよりもみかんが、ぶどうが、スイカがメロンがさくらんぼが欲しいというひとも必ずいると思う。だからもしそういうひとと出会ったら、それはそのひとにあげたらいい。そうやって、みんなでいちばんいいように、すべてを調和させていけばいいのだ。それは理想論だと言われるかもしれないが、だからこそその理想こそ追求していくべきだし、そうすればいつかには、必ず実現できる。私は、そう信じているのである。

 

私たちが抱えている問題や苦しみ、それに葛藤や哀しみは、クリスマスになろうが年を越そうが、すぐには解決しないかもしれない。

「秘伝の万能薬」

も、

「奇跡の特効薬」

も、どこにもないのだと思う。だがそれでも、いつかには、すべてが解決するときが来る。それぞれに喜びやしあわせを味わい、それをわかち合えるときも来る。だから今日も、もらったプレゼントを開けてみよう。そして明日はどんなプレゼントが来るのか、楽しみに思ってみよう。物事というのは、ときに劇的に変化することもある。それは奇跡と呼ばれるものでもあるが、それもときには起きるものである。しかしそれも本当には、それまでの積み重ねの成果なのだ。無邪気にサンタさんを待てなくなってしまった私でも、こんな時期にはこんなことを噛みしめてみることくらい、してみてもいいだろうと思うのである。