私たちの肉体はどうやって生まれるのか?これはよく知られている。しかし私たちが今こうしてここに存在しているのは肉体があるからだけではない。それでは私たちの魂は、いったいどうやって生まれたのだろうか?
最初に言っておくと、この仕組みはやはり深遠なものであり、私もわからないところが多い。ただこのような問題に対して、よく
私たち(の魂)は、愛によって生み出されたんですよ
というような表現・説明がなされることがあるとは言えると思う。そしてこのような捉えかたには、私も基本的には賛同する。
ただそのうえで、私はもう1点、とても重要な要素があると思っている。それは、
私たちの魂は、それぞれの「強い願い」がひとつの核になって生まれている
ということなのである。
私たちの魂は愛によって生み出されているという説には賛同する。ただそれはいわゆる「自己愛」ではないと思う。なぜなら私たちが生まれる前には、自分で愛すべき「自己」そのものがまだ存在しないのだから。だからその愛は、世界(神・縁ある存在)=他者から贈られたものであると言っていいと思う。
ただもうひとつ、その愛と同じくらい、あるいはそれ以上に私たちの魂の核心にある「願い」は、まず第一に
「自分自身が願ったもの」
なのである。
もちろん、肉体界においてもそうであるように、私たちは多かれ少なかれ、他者に対して願いを託しながら生きてもいる。まして、親が子に対してはなおさらであるとも思う。だからそこから見ても、魂には周りの存在からの願いが影響しているのは確かだと思う。だがそれ以上に、そこには「自分自身の願い」がなによりも強く影響を及ぼしている。
つまり私たちは、なにかやりたいこと・表現したいこと・味わいたいことがあって、その願いが結晶した結果、新しい魂として生まれたというのが、現時点で私が魂の起源について考えるときの、最も腑に落ちる捉えかたなのである。
とはいえ、これだと少し話が大きすぎるしとっつきにくいとも思うので、これを「魂の起源」ではなく、
「人生の始まり」
として捉えなおしても、まったく同じように言うことができる。
今までも何度も書いてきたように、私たちは今のこの世界に
強制的に、あるいはなんの必然性もなく、誰かに生まれさせられた
のではなくて、
自発的に、自分で決めた環境に、自分で強く望んで生まれてきた
のである。だからそこにはもちろん、
「なにかやりたいこと・表現したいこと・味わいたいこと」があった
ということだ。それをひとまとめにして、
「願い」
だと捉えればいい。そしてそれを実現するために、このようなかたちでここに生まれてきた。だからこそ私は以前にも

と書いたのである。あなたの人生に生きる価値があるということは、まさにあなたが生まれてきたことそのものによって、本当は最初から保証されているということだ。
そしてこの話の縮尺を大きくしてみると、魂そのものについても、同じことが言えるということなのである。そしてそれは基本的には魂が生まれたときからずっと変わらないものである。それだけの強い願いだからこそ、それがそれぞれの魂の核を為すほどの力を持つ。だから私たちは、今までもこれからも、永遠の存在として、生き続けていくのである。
とはいえ、抽象的に話してもわかりにくいだろうから、ここでひとつ、私自身の魂の根源にある願いを例にとってみようと思う。といってもこれは今までにも何度かぼんやりと書いてきたことなのだが、私は
すべてを深く深く理解したい
というものを根源に持っている魂である。もちろんこれは私が生まれつき憶えていたことではないのだが、あるとき守護霊からそう伝えられたときからずっと、私自身が深く納得していることなのである。つまりそれは
たとえば今生についても、根底にそのような願いがあったとして考えてみると、なぜこのような人生になっているのかが腑に落ちる
というふうに、私自身が強く思えたということなのである。
ただ、私がこのように伝えてみたとしても、あなたももしかしたら
「魂の願い」なんていうわりには、意外にたいしたことないんだな
という印象を持つかもしれない。
そうなのだ。私たちの魂の根源にある願いは、実のところそれほど複雑ではない。それに、言ってしまえば誰だって、できることならすべてを理解したいだろうと思う。それに本当には、私たちの願っていることなど、そんなに違いはないはずなのだ。
だから実際、私と同じような魂の願いを持って生まれた存在など、少し探せばいくらでもいると思う。だからそれが
「個性」
になると言われても、今ひとつピンと来ないかもしれない。しかしだからこそ、たとえば私の願いでいうのなら、
そもそも「理解する」とはどういうことなのか?
なにを以って、「理解できた」と言えるのか?
理解するためには、なにが必要なのか?
というようなことを
「どう捉え、どう解釈するか?」
という無限の幅・多様性にこそ、「個性」が紡がれていくということなのである。そしてそれはさらに言えば、
もしすべてを誰よりも深く深く理解できたというときが来たら、そのとき私は、その理解でなにを為すのか?
ということを、問われているということなのである。
だからこの観点に立ってみると
なぜこの世界には、負の霊が存在するのか?
という問いにも、また想いを馳せてみることができると思う。
私は、今までの体験を踏まえてもなおさら、
最初から「負の霊になるべくして生まれた霊」など存在しない
と確信している。だがそれにもかかわらず、実際には負の霊となり、他者のしあわせを妬み、阻み、壊そうと活動している存在がいることも、はっきりと認識している。だとしたら、彼らはどうして、そんなふうになってしまったのか?それは、
魂の願いを、「歪んだかたちで解釈してしまった」から
だというのが、今の私の答えなのである。
魂の願いそのものに善悪はない。言い換えれば、
あらゆる魂の願いは、その気になれば、善くも悪くも文字どおり無限に解釈できる
ということだ。
だからたとえば、私と同じような魂の願いを持っていながら、
なにかを理解したければ、その相手を破壊することだ
という解釈をした存在がいたとしたら、そのひとは負の霊になりやすくなっていくかもしれない。だからすべては、
「解釈の問題」
なのである。そしてその
「解釈」
を、
「信念」
と言い換えてもいいと思う。それにその「信念」こそが、
「個性」
をかたちづくっていくものなのだろうとも思うのである。
だから負の霊とまでは言わなくても、ほとんど同じような魂の願いを持っているにもかかわらず両者が対立している現場を、私は何度も見てきた。
それに先ほども言ったとおり、本当は、私たちの根源にある願いに、大きな差などないのだと思う。愛されたいのも、理解されたいのも、褒められたいのも、大切にされたいのも、みんな同じだと思う。ただそのうえで、
そのなかでも特にどれに強い関心を持つか?
どの入口から、初めの一歩を踏み出したいか?
ということなのだろうと思うのだ。そしてそれが、私の場合は、
「理解する」
というものだったということなのである。
ただそんな私は、今までいろいろな霊存在に関わり、話を聴き、対話してきた経験から、もうひとつ強く思うようになったことがある。それは、
能動的な魂の願いの背景には、それと同じくらい受動的な願いが隠れていて、逆に受動的な魂の願いの背景にも、それと同じくらい能動的な魂の願いが隠れている
ということである。
これはつまり、
「理解したい」と思っている魂は、本当はそれと同じくらい強く「理解されたい」と思っているということで、「愛されたい」と思っている魂は、本当はそれと同じくらい強く、「愛したい」と思っている
ということだ。
だから要するになんのことはない、
本当は誰よりも理解されたいと思ったから、思わずにいられなかったから、『すべてを深く深く理解したい』なんて思ったのが私なんだ。だから私は本当は、『すべて(みんな)から深く深く理解されたい』と、そう思っているんだ
ということなのであって、こう自覚してみると我ながら、一切の反論の余地がないのである。
理解されたいのなら、
「相手がなにを理解できていないのか」
を、理解できるようにならなければいけない。だから、誰よりもまず自分が、相手を理解しなければならないのだ。
愛されたいとそれほど強く思うのは、本当は
自分自身が、本気で愛せるひとを見つけたい
ということの裏返しではないのか?だとしたらやはり、能動的な願いも受動的な願いも根はひとつなのだ。だがだからこそ
「それぞれが、それぞれの観点から、それぞれの願いとともに、永遠に進み続ける」
というのが、この世界なのだと思う。そしてだからこそ、世界はこれからもますます、多様になっていくのだ。だから間違いなく、すべては永遠なのである。
私がどれだけ理解したいと思っていようが、
「すべてを理解し尽くす」
などということは本当には、永遠にあり得ない。だから私はこれからも、永遠に存在し続けるということでもある。しかしもし、私の理解がもっともっと進んだら、私はその理解により
自分自身も含めたすべての多様さとそれぞれの長所を活かして、すべてをもっともっと調和させたい
と思っている。その「解釈」に基づいて、私はずっと動いている。そしてそれは言い換えれば
ある「個人」(個性)とそのひとを取り巻く環境の間の軋轢・摩擦・不協和は、なぜ起きてしまうのか?それに対して、どうすればいいのだろうか?
ということを考え続けるということでもある。そしてそのことを踏まえたうえで、改めて私の今生を振り返ってみると、私がこの時代のこの国にいながら霊媒師としての経験を積むことになったことも、私がずっと弱いからだで育ってきたことも、その他すべてのことが、
「この問いに対する答えの糸口を探すために、最適な環境」だった
ということを、認めずにはいられないのである。
とはいえ、それは本当に大変なことだ。いくら理解したいとは言え、そしてそれを単なる
「傍観者的学者」(観測者)
としてではなく、
「生身の実践者・フィールドワーカー」
として深く深く理解したいからこうして生まれてきたとはいえ、その経緯を反論の余地もなく納得させられている私だとはいえ、それでも苦しくなったり文句のひとつも言いたくなるのだから、私はまったくどうしようもない未熟者である。
だがだからこそ、私はあなたとも支え合いながら生きていけたらと思っている。そしてあなたが私のことをどう思っていようが、ともかく私は私として、あなたを理解したいと思っている。そしてなにより、あなたがあなたらしく魂の願いを追究し、それをあなたの納得のいくかたちであなたらしく叶えられるときが来ることを、心から願っている。新年の始まりに願いごとをするひとたちを見ながら、私も改めて、こんなことを思っているのである。
この文章を書いているとき、ふとこんなものを見つけました。もしかしたらこのような私の考えかたは、これとも通じるところがあるのではないかと思いましたので、ここに併せて載せておきます。
一つの「有」もなく一つの「非有」もなかった、
空気で満たされた空間も、それを覆う天もなかった。
何物が動いていたか、そして何処に。動いていたのは誰であったか。
底なしの奈落を満たしていたのは水であったか。
死もなく、また永遠の生というものもなかった。
昼と夜との分ちも未だなかった。
ある一つの名のない「物」が深い溜息をしていた、
その外にはこの宇宙の渾沌の中に何物もなかった。
そこには暗闇があった、そして暗闇に包まれて、
形なき水が、広い世界があった、
真空の中に介在する虚無の世界があった。
それでもその中の奥底には生命の微光の耀いはあった。
動いていた最初のものは欲求であった、
それが生命の霊の最初の象徴であった、
霊魂の奥底を探り求めた賢人等、
彼らは「非有」と「有」との相関していることを知った。
とは言え、時の始めの物語を知る人があろうか。
この世界がいかにして創造されたかを誰が知っていよう。
その当時には一人の神もなかったのに。
何人も見なかったことを果して誰が語り伝えようか。
原始の夜の時代における世界の始まりはいかなるものであったか。
そもそもこれは創造されたものか、創造されたのではなかったのか。
誰か知っているものがあるか、ありとすれば、それは万有を見守る
「彼」であるか、
天の高きに坐す――否恐らく「彼」ですら知らないであろう。
スワンテ・アウグスト・アーレニウス Svante August Arrhenius 寺田寅彦訳 宇宙の始まり

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