「私の人生は、まだ終わっていない」。彼のその言葉が、私の「一生」の定義を鮮やかに塗り替えた

今までに私がいったい何人の霊と対話してきたか、それはもう数えきれない。そのなかで、私は

3月になりました。いかがお過ごしでしょうか? このサイトも開設から丸4年を過ぎたのですが、最近はちらほらと海外からのアクセスも見受けら...

にもまとめたように、そういった数多くの視点や話を総合しながら、私なりの「真実」を見出してきたと言えると思う。

そして今の私は、たとえば守護霊が誰にでもいること、しかし一方で誰でもが負の霊の影響も受けていること、それに生まれ変わり(旋廻転生)は確かにあり、自分の生まれる環境や人生の大枠は、生まれる前に自分自身の意志で望み、構想してきたものであることなどを、もうほとんど疑う余地がないほどに確信するに至っている。

しかしそれでも、ときにふとした出会いや対話から、それまでには見えていなかった視点が、鮮やかに開けてくることもある。これは、そんなことがつい先日起きた、その記録である。

 

彼は、とても落ち着いた雰囲気を保っていた。そして死んでからも多くのひとと関わることは望まず、基本的にひとり静かに過ごしているようだった。どこの景色を見ることもできるのに、どこに行くわけでもない。誰を見守ることもできるのに、誰かを特段気にするようでもない。それでいて彼は、その状態に不満を感じているわけでもなく、むしろそれなりに満足しているようだった。

私は、ふと出会った彼に関心と好感を抱き、少しして、このように尋ねてみた。

あなたの人生は、あなたにとってどんなものでしたか?

この質問は、私が彼に限らず、たくさんの霊にしてきた問いだった。しかし彼の答えは、今まで私が聴いてきたどの答えとも違い、そして私自身も、まったく想像していなかったものだった。

いえいえ、私の人生は、まだ終わっていませんよ

彼は私に、静かにこう言ったのである。

 

ひとつ確認しておくと、彼は無神論者ではなかった。つまり、彼は自分が死んだ(からだを喪った)ことを認めていないから、このように言ってきたというわけではない。その点が、表面的には似たようなことを主張してきたひとたちとの明確な違いだ。彼は、自分が死んでしまったことは理解している。そして、それを受け入れてもいる。だからこそ、彼の言葉も雰囲気も、とても落ち着いていた。しかしそのうえで、彼は自分の人生が終わったとは思っていない。これは、どういうふうに受け止めたらいいのだろうか?

そのとき、私のなかに突如浮かんできたひとつの考えがあった。

からだを喪ったからといって、そのひとの人生は終わらない。本当の意味で一生に区切りがつくのは、からだを喪ったときではないんだ

それは少なくとも私にとっては、とても画期的なものだったのである。

だが考えてみれば、これはそれほど新しい発想ではなかったはずだった。今まで見てきたひとたちも、死んだからといって、急に雰囲気が変わったり、趣味が変わったりすることはまずなかった。だからこそ私は、

肉体人と霊存在の差は、結局は、「肉体があるかないか」に尽きるんだ

と思っていた。しかしそれでも、私はどこかで、

「からだを喪うこと」

を、まだ過剰に大きなことだと思ってしまっていたのだ。そしてその理由は、結局のところ

「今の私が、からだを保っているから」

ということだったのだと思う。そして今はあまりにも「当たり前」になってしまっているその状況が、私のなかに、

「盲点」

を作り出してしまっていたということに、私はこのとき初めて、気がつくことができたのである。

彼は確かに、からだを喪った。だから、それまでいた世界から離れ、少し違う立ち位置から、霊として存在するようになった。だから彼は、その意味では、確かに変わった。トイレに行く必要もなくなったし、お金を得るためにあくせく働く必要もなくなった。

しかしだからといって、彼は本質的には、肉体を保って生きていた頃となにも変わらない生活を送っていた。ひとりで静かに暮らし、本を読むことを最大の趣味としていた。そして自分自身の心とも向き合いながら、そこにいたのである。だからその意味で、彼はなにも変わっていないとも言える。だからこそ彼は、

私の人生は、まだ終わっていませんよ

と、なんの衒いもなく、言い切ったのである。

そしてこれは、彼だけではなく、多くのひとにも同じように言えると思う。これは言ってみれば、

誰でも多少の程度の差こそあれ、生きていた頃の想いをそのまま引き継ぐ

ということである。

根っからのお酒好きは、霊になってもお酒を好む。踊りが好きなひとは、霊になっても踊っている。霊になってから気にかける相手は、生きていたときに大切に想っていたひとたちだ。

もちろん、霊になってから、

「肉体を保っていたときにできなかったこと、叶えられなかったことをする」

ということもある。ただそれも

「やりたかったのにできなかった」

という意味で、やはり肉体人のときの想いにそのまま影響されていると言える。

だからそう考えると、からだがなくなって霊になろうが、やはり彼は彼で、彼女は彼女なのである。だから彼が彼のままでいるなら、彼の人生はまだ終わっていない。たかがからだを喪ったくらいのことでは、本当には、さほどの変化はないのである。

 

だから私は、彼の言葉に深く納得した。しかしそれなら、いったい彼の人生は、私の人生は、いつ終わるのだろうか?もちろん魂としては誰もが永遠の存在ではあるが、

「今のこの人生にひと区切りつけられるとき」

というのは、いったいいつなのだろうか?

そう考えていった私に、ひとつの答えが見つかった。それは

肉体を離れ、その人生を振り返り、そこからまたときを過ごしたうえで、「また別の人生に歩み出したとき」、言い換えれば、「意識が次の人生に切り替わったとき」、それまでの直前世の人生に、本当の意味での区切りがつくんだ

ということである。そしてこの「発見」は別の表現で言うと、

今まで私は、「一生」というものを、「生まれてから死ぬまで」(=肉体に宿ってからその肉体を喪うまで)だと思っていた。でも本当はそうではなくて、「生まれ変わってきてからまた次に生まれ変わるまで」(=肉体に宿ってからまた次の肉体に宿るまで)が「一生」なんだ

ということなのである。

 

私はこれに気づいてから、しばらく余韻が冷めなかった。私にとっては、それだけの衝撃がある発見だった。今まで私が一生だと思っていたものは、実は

「半生」

に過ぎなかった。からだを喪っただけでは、まだ人生は終わらない。ひとつの肉体に宿り様々な経験をして、再びそこから離れ霊として戻ってきたときに、その体験を踏まえたうえで次にどんな人生を歩むのか、自分でそこまで決められたとき初めて、それまでの一生に区切り(けり)がつくということなのである。

 

そしてここから、私はもうひとつ、大きな発見にたどり着いた。それは私にとってずっと最大の問題のひとつとなっている

「自殺」

についてのものだった。

なぜ、自殺すると後悔するのだろうか?

私は今まで多くの自殺者の霊と対話してきた経験から、それを

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

という文章にまとめた。

しかし今回の発見を踏まえたとき、私のなかに新しく

自殺してしまうと、その次の人生をどんなものにしたらいいか決めるまでに、とても長い時間がかかるからだ

という視点が加わったのである。

まずそもそも、自殺したひとはそのあと霊となったとき

「自分の思い込み・思い違い」

に気づき、それを受け入れるまでに、とても長い時間がかかってしまうことがほとんどである。

しかし私自身も見てきたように、それでもいつかには、それを受け入れ、

自殺したのは間違いだった。もう2度と、こんなことはしない

と決意できるときが来る。これは本当に、素晴らしいことだ。

ただそのうえで、このような

「今回実際に、自殺してしまった」

という事実を踏まえ、そのあとの人生をどんなものにするかと考えてみると、これは実のところ、とても難しいことなのではないかと、私には思えるのである。

 

他人事として考えても埒が明かないから、仮に私が今自殺したとしよう。すると言うまでもなく、私は直後に後悔することになる。しかも私は、あなたよりも誰よりも、

「自殺すると必ず後悔する」

ということを知っていた。そしてそれをこんなふうに、あなたにも伝え続けていた。にもかかわらず自殺したとなれば、私は途方もない馬鹿である。世界中すべてのひとに嗤われても怒られても反論の余地がない。それどころか、

あんなふうに言っていたあのひとでさえ自殺したんなら、私も自殺してもしかたないよね

などと思われてさらに自殺者が増えたら、それは今考えられるなかで最悪の事態であると言える。だからもしそんなことになったら、私はいつどうやって立ち直ればいいのか、まったく見当がつかない。

しかしそれでも、いつか私が立ち直り、私は今度こそこの過ちを繰り返さないと強く決意して、次の人生に歩み出そうとしたとする。だがそのとき、私はどんな人生を選べばいいのだろうか?

 

ひとつはっきりしているのは、

「いのちの大切さを思い知らなければいけない」

ということである。

だがそのためには、どんな環境にどのようなからだで生まれ、どのような人生を送るつもりで、生まれ変わればいいのだろう?

もし周りのひとたちにも恵まれ、いつも愛に満ちているような環境に生まれ、物質的にもなに不自由なく暮らせるような人生を選んだら、私はいのちの大切さを、今度こそ心から思い知ることができるだろうか?いや、少なくとも今の私には、そうは思えない。

しかしだからと言って、肉体的にも精神的にも、あまりにも苦難が多い人生を選んでしまったら、もしかしたらまた同じように、自殺してしまうかもしれない。実際にその「前例」があるのならなおさらだ。

だからそう考えてみればみるほど、自分がもしそうなったらと思えばなおのこと、

「自殺の次の人生」

をどんなものにすればいいのか、私にはどうにも糸口がつかめないのだ。そしてそれはきっと、他のひとたちも同じだろうと、私には思えるのである。

 

だから、自殺したひとはなかなか次の人生に踏み出せない。そしてそれは今回の発見に照らして言えば、

「自殺した人生に、いつまでも区切りがつかない」

ということである。

だとしたらこれは、

「人生を早く終わらせたくて自殺したはずだったのに、むしろ誰よりも長い人生を歩むことになる」

という、とても哀しいことを味わうということではないのか?

だから私はやはり、なんとしても自殺だけはしないで生きようと思うし、私にできる限りを尽くして、せめて自殺だけはとめたいという想いを、ますます深めたのである。

 

しかしこの「一生」に関する捉えかたは、見かたを換えればとてもいいことだとも言える。私にこのことを気づかせてくれた彼がそうであるように、肉体を保っている間にやりたいことのすべてを成し遂げられなくても、ある程度は、霊になってからでもその

「続き」

を味わえるということなのだから。そしてさらに言ってしまえば、これはある意味では

たとえ肉体を喪うまでにしあわせな人生だと思えなかったとしても、その経験が活かされ、次によりよい人生を歩む糧にできたのであれば、翻って前のその人生も、いい人生だったということにできる

ということだとさえ言えるのだと、私は思うのだ。そしてだからこそ、本当にはどんな人生にも、究極的には自殺した人生にすらも、いつかには、希望が見出だせるのである。

 

私たちの人生の始まりは、私たち自身が選んで決めた。だがそれだけではなく、私たちは人生の終わりさえ、自分で決めていい。ひとつの肉体に宿り、前線であるこの世界で過ごし、いずれそこを離れたあと、改めてその経験を振り返る。そしてそれを踏まえ、次の人生に活かせるところを充分に見つけたと思えたとき、その人生はひとまず終わる。その時機は、私たちそれぞれが自分で決めるということなのだから。

だがそのうえで、やはり今私たちが肉体に宿っているこの瞬間がどうでもいいということはもちろんあり得ない。どんな体験も究極的には糧にできるにせよ、やはり同じ人生は2度とないのだから。そしてこの人生でどこまでできたかによって、霊になってからの生きかたにも、そしてその次の人生にどうつなげるのかにも、大きな影響が及ぶのだから。

だから私も、ともかく今はこの立ち位置から、まずはこの「半生」を、なんとか生ききりたいと思う。霊である彼がそう言ったように、いやそれ以上に、私の人生も、まだ終わっていないのだから。だから今日も明日もなんとかして、お互いにいい人生を創っていきたいと、私も心から、そう思っているのである。