理解と共感、そして愛はどうつながっていて、どう違っているのか?

他者とうまく関わっていきたいなら、相手に心を開いてほしいと思うなら、相手への共感を示すといいですよ

というようなことは、よく言われることだと思う。確かに、誰かに共感されることは、とても嬉しい。深い癒やしや充足感も与えてくれる。そしてそれは実のところ、

「相手に共感されたほうと、相手に共感できたほう」

の双方にもたらされるものだと思う。だからなおのこと、共感には確かに、大きな力が宿っている。

だが実際には、

「本当に共感する」

というのは、なかなか難しいことでもある。なぜなら、厳密な意味で完全に共感できるためには、

「同じ体験をし、同じ感性でそれを受け止める」

ということが必要だからだ。同じ体験をしても、感性が同じでなければ、受け止めかたが違ってくる。同じ感性を持っていても、同じ体験をしていなければ、その気持ちは本当にはわからない。だからお互いに本当に共感し合うというのは、そうそうないことである。

そもそも本当には、

「まったく同じ体験」

というのもなければ、

「まったく同じ感性」

というのもないのだから、そこまで突き詰めると

「完全な共感」

というのは存在しないとも言える。だがそれでも、

「同じような体験を、同じような感性で受け止める」

ということなら、あり得るかもしれない。しかしそれはやはりそうそうないことだ。というよりそれは、

「奇跡」

に近いくらい、尊いものなのかもしれない。

だからこそ、もしそんな共感を、たとえある程度でも感じ合えるひとがいたら、それがお互いへの愛へつながることは、なんの不思議もない。そしてその意味で、共感を示すことは、愛を示すことにも近しい。だから冒頭のような発言には、やはり一理あると私も思う。誰だって、愛を示されれば少なからず嬉しいものである。

 

だが、たとえ「共感」することはできないとしても、その相手を「理解」することができないというわけではない。前に

私たちの肉体はどうやって生まれるのか?これはよく知られている。しかし私たちが今こうしてここに存在しているのは肉体があるからだけではない。それ...

にも書いたとおり、そもそも

「理解する」というのはどういうことなのか?

というのは私にとって根源的な問いではあるのだが、ひとまず今の私の解釈における最も素朴な「理解」というのは、

あぁ、こういうひともいるんだ(こういうこともあるんだ)なぁ……

というふうに、目の前の存在を受け入れ、そこに理があることを想うということである。たとえその仕組みや理由がわからなくても、

「ともかくそれがそのように在って、私と同じ世界のなかに共存している」

ということに気づくこと。それが今の私の解釈における、最も素朴な「理解」の在りかたである。

しかしそこから、少しずつでも理解が深まっていったり、体験が積み重なっていくことによって、その「理解」がいつしか「共感」へと深化していくことは、充分にあり得ることである。そして先に確認したとおり、共感は愛を示唆している。だからそうやって、

「理解から共感となり、やがては愛となる」

という深化の過程としてこの三者を捉えることは、ひとつのわかりやすい解釈だと思う。

 

しかし私は、ここまでを踏まえたうえで、だがこの単純な図式だけでは括りきれない、別の観点・可能性もあるということを感じるのである。それは、

「共感することは到底できそうもないけれど、理解はできる」

とか、さらに言えば、

「共感も理解もできないけれど、愛することはできる」

ということができる可能性も充分にあるということなのである。

ただこれは裏を返せば、

「充分に理解はできるけど、どうしても共感はできない」

ということ、さらに言えば

「理解も共感もできるけど、愛することはできない」

ということもあり得るということでもある。

先にこちらから説明してみると、

「充分に理解はできるけど、どうしても共感はできない」

というのは、言い換えれば

こういう生きかた(選択肢)もあるとは思うし、実際にそれを選んでいるひとがいるのもおかしいとは思わない。だけど、自分自身としては、これを選びたくはない

というようなことだと言ってもいいと思う。そしてそれは私にも、誰にでもある感覚だと思う。

そしてもうひとつの、

「理解も共感もできるけど、愛することはできない」

というのは、言ってみれば

「同族嫌悪」

のようなものだとも言えると思う。そしてこれも、わりによく見られることだと思う。

だが私個人的には、私と同じようなひとが私以外にいたら、間違いなく頼りにするし支えたいと思うし好きになると思う。私は私自身のことは、それほど好きでないのに、である。だからこのあたりが

私は自分が嫌いなようで好きで、好きなようで嫌いだ

と自覚する所以なのだが、もしかしたらこのように

自分と同じようなひとがいたら、そのひとを好きになれるか?

と考えてみることは、自分の生きかたを考えてみるうえで、ひとつの大きな判断材料になるかもしれない。

 

とはいえ、先に確認したように、ここまでの2つは

「裏の話」

であって、私が今ここで本当に着目したいのはこの逆である。だがらここからは、もう少し具体的な例に沿って、私の書いたこの文章を読んでいるあなたとの関係性に想いを巡らせながら、考えてみよう。

以前実際にこんなことがあった。彼は私に

あなたはよく『闇の向こう側』に、「こんなことは、今のあなたには実感できないと思うが……」とか、「あなたには、今はまだ信じられないかもしれないが……」というようなことを書いていますが、少なくとも俺には、全部理解できました。っていうか、共感できないところがなかったくらいです。だからあなたの言ってることが嘘でもでたらめでもないっていうのは、今の時点でも、すぐわかるひとはいると思いますよ

と言ってきたのである。彼は、霊媒体質者だった。しかもとても敏感で、その対応に苦慮してもいた。しかしだからこそ、自分に負の霊が関与していることも、一方で守護霊が確かに励ましてくれていることも、そもそも世界にはありとあらゆるエネルギーが渦巻いていることも、多少の程度の差こそあれ、実感として理解していた。だから少なくとも、彼と私の間には、基本的になんの世界観のズレもなかった。だから私の葛藤など軽々と飛び越えて、彼は私にすんなりと共感してくれたのである。

 

しかしこんなことはかなり珍しいことであって、そもそも今の社会のほとんどのひとは、感受性を、特に霊的感受性はなおさら、狂わされ、鈍らされ、削り落とされている。そしてそのうえで、それをさらに黙殺され、否定されてもいる。だからあなたが私にまったく共感できないとしても、私はまったく驚かない。私が第一にここの読者として想定しているのは、まさにあなたのようなひとである。

あなたは、霊を見たこともないかもしれない。霊の声を聴いたこともなければ、自分の守護霊のエネルギーを実感したこともないかもしれない。そもそも、そんなものがいるとも確信できていないかもしれない。もちろん、負の霊がどれだけ自分に影響しているかなど、考えたこともないかもしれない。そしてもしかしたら、そんなことをぜんぶひっくるめて、

「ありもしない話」

だと、否定していたのかもしれない。そうであっても、私は特に驚きはしない。

だがもし、あなたが私の文章を読みながら、たとえ「共感」することはできなくても、

あぁ、こんなひともいるんだなぁ……。もしかしたら、こんなこともあるのかもしれないなぁ……

というくらいには理解するようになってくれたら、私はとても嬉しく思う。そしてそれは本当には、必ずあなたにも活かしてもらえることなのだ。だからこそ、私はこんなことを書き続けているのである。

 

だがそうやって理解してくれるだけでも、あるいは理解しようとしてくれるだけでも、そもそもとてもありがたいことなのだと、私は思っている。今の社会において一般的な感覚と価値観に基づいて育ってきたとしたら、私を理解しようと思うこと自体が、私のなかに理解すべきなにかがあると思うこと自体が、勇気を必要とすることだと思うからだ。

しかしもしかしたら、あなたは私のことを、共感どころか理解もまったくできず、そもそも理解しようとさえたいして思えていないのに、それでもこの文章を読み、あるいは他の文章も読みながら、私と関わってくれているのかもしれない。だとしたら、私はそれを本当にありがたいと思う。そしてたとえあなたにその認識がないとしても、私はそれを愛の一種だと感じる。だからこそ、私はそんなあなたがここにいてくれることを、本当に嬉しく思うのである。

 

「理解」と「共感」と「愛」は、確かにつながってもいる。しかし本当には、共感はできなくても理解することはできるし、究極的には、共感も理解もまったくできないのに、愛することもできる。自分とはまったく異質なものを、まったく共鳴するところのないものを、それでも、あるいはだからこそ、大切にしようと思うこと。そんな可能性が、力が、私たちにはあると思う。そしてその可能性を信じているから、私はこれからもずっとここにいる。そして私なりにではあっても、あなたがあなたらしくいられることを、今までもこれからも、心から願い続けている。