自分の感性を離すな。しあわせを感じることよりも、大切なこともある

「しあわせなひと」

という言葉から、あなたはどんなひとを連想するだろうか?これを読んでいるようなあなたは一般とは多少違う感性を保っているのではないかと思うが、おそらく今の日本の価値観では

「肉体的・経済的に不安がなく、たくさんのひとに尊敬され、仲間に囲まれている」

というような状態を、しあわせと捉えるひとも多いのではないかと思う。

しかしこう予測したうえで、もしこんな状態にあるのにもかかわらず、本人としては

自分がしあわせだとは思っていない

というひとがいたら、そのひとはおかしいのだろうか?あるいはどんな定義でもいいが、

「あなたにとってのしあわせの要素をすべて持っているはずなのに、それでもしあわせを感じられていないひと」

がいるとしたら、そのひとは傲慢なのだと、あなたは思うだろうか?

たとえば病気に罹っているひとや、定住する場所がないひとたちについて考えるとき、

あなたの価値観で、一方的に彼らが不幸だと決めつけないでください!

というようなことを言うひともいる。さらには、

どんな生きかたも、状況も、本当にはそのひとが自分の意志で選んだ結果なのだから、それをかわいそうだと思うこと自体が、傲慢なのです!

というようなことを言うひともいる。

私はこのような考えに、一理あることは認める。ただそれを言うのであれば、これをまったく逆から見て、

あなたの価値観で、一方的に彼らがしあわせだと決めつけないでください!

ということもできるはずだし、もっと言えば、

どんな生きかたも、状況も、本当にはそのひとが自分の意志で選んだ結果なのだから、それをかわいそうだと思うことは間違っているという考えこそが、なにより冷たい態度だというふうには思えませんか?

というふうに訊き返すこともできると思う。つまり私としては、

ほとんど同じような状況にあってもそれをしあわせだと感じるひともいればしあわせではないと感じるひともいる。だからそのひとが自分のことをしあわせだと感じているかどうかは、本人に訊いてみないとわからない

というふうに思っているのである。だから私は、あなたのことも誰のことも、しあわせだともしあわせでないとも決めつけない。それでも私に言えることがあるとすれば、それは

私から見て、あなたはしあわせそうに見える\見えない

という「印象」を伝えるくらいだが、それがあなたの自覚と一致する自信はほとんどないから、基本的にそんなことを言うつもりもない。

 

ただそれを踏まえたうえで、私は今の社会について、

ほとんど誰にとっても、しあわせを感じにくい世界だ

という印象を一貫して保っている。そして私はそのような感覚のなかにいるから、あなたがもししあわせを感じられていないとしても、私はまったく驚かない。

だがその一方で、私は

今の世界はこんなにもしあわせを感じられていないひとが多いのに、一方で「しあわせを感じていなければいけない」という、一種の「圧力」に晒されているひとがあまりにも多い

という印象を保っているのだ。そして私はこのことを、大きな問題というか、率直に言えば

「とても怖いこと」

だと思っているのである。

この感覚をあなたにどこまで伝えることができるかはわからない。ただ私にとってのこれは、単なる「違和感」以上のものである。

たとえば最近、私は

「卒婚」

という言葉を耳にするようになった。これはもともとは、

婚姻状態にある夫婦が互いに干渉することなく個々の人生を歩んでいくという生活形態のこと

を指す言葉だったのだが、それが近年では拡大解釈されていき、

「離婚を前向きに捉え、言い換えた言葉」

としても用いられるようになっている。これは結局のところ、

「円満離婚」

などに置き換えても同じことである。

そしてこれが、たとえば恋人同士が別れるときや、仕事を替えるとき、あるいは病気になったときや、死の淵に立たされたときなど、あらゆる場面に幅を利かせるようになっているように、私には見えているのである。

なぜこのような動きが生まれてきたのかには、いくつかの複合的な要因があると思う。たとえば、SNSの普及によって、

「自分の生活を演出して、着飾る」

ような傾向が強まっていることも無関係ではないと思う。私はこれを

「全世界総芸能人化」

と捉えてみているのだが、これはかつての

「スター」

が私たちに近づいているということでもあると同時に、私たちひとりひとりが、みんなスターになってしまっているということだとも思っている。そしてこれがどれだけつらいことなのかは、言うまでもないと思う。

そしてもうひとつ大きな要因は、

「他のひとの苦しみが見えやすくなった」

というのも挙げられると思う。たとえば自分がなにかつらさや苦しみを吐き出したときに

そんなこと言ったってね、つらいのはあなただけじゃないから!

などと言われた経験は、おそらくあなたにもあるのではないかと思う。あるいはもっとまろやかに

まぁ、苦しいのはみんな同じだからね……

などというような表現であっても、本質的にはそれほど違わないと思う。

確かに誰でも、愚痴や不平不満ばかりを聴いていたいとは思わないだろう。それには、相当の根気と精神力を要するからでもある。ただだからと言って、身近なひとにさえ苦しみを聴いてもらえなければ、よりつらくなるのは自然なことだと思う。そしてそうであっても、私たちはきっと、

「他者の苦しみを受け入れるゆとりを削られている」

のだと思う。それにこれは苦しみだけではなく、喜びに関しても同じだ。だから、愚痴を話すのと同じくらい、成功したことや、しあわせなことを話すのも気を遣わなければならない。つらいことを話せば

つらいのはあなただけじゃないから!

と言われ、しあわせなことを話せば

そんな自慢話、聴きたくないから!自分ばっかりいい思いして、見下してるんでしょう!

などと言われるという八方塞がりのような状況は、今ではわりとよく見られるものだと思う。

 

たとえばこうした要因によって、私たちは

「しあわせだと感じられていないにもかかわらず、(ほどほどに・周りと同じ程度には)しあわせであると装わなければいけなくなっている。自分でも気づかないうちに、そうした圧力に晒されている」

のだと、私には感じられるのだ。そしてこれが、私にとってもはや恐怖に近いほどの、強烈な違和感になっているのである。私たちは、これほどにまでしあわせを感じられなくなったからこそ、

「しあわせであると感じる(ように自分自身さえも思い込ませる)ことを、これまでになく競わされている」

ように感じられる。だから私は以前に比べ、

これもいい経験だったと今は思っています!

人生には必要なことしか起きないって言いますもんね!

などという言葉を、明らかによく耳にするようになっていると思う。もちろん、このひとたちが本当にそう思えているのなら、それは素晴らしいことだ。だが問題は、少なくとも私には、彼らが本当にそう思っているようには、あまり見えないということなのだ。

そしてこれが私になおさら複雑な想いを抱かせるのは、このような考えかたはもともとは

「スピリチュアルな・霊的な分野から、言われ続けてきたこと」

だからだ。だからその意味で、これは

「霊的な智慧が、世間に少しずつ浸透しつつある」

とも言えるかもしれない。もしそうなら、私はこれを喜ぶべきなのかもしれない。だがどうしても、私にはそう思えないのだ。私にはこれが、

「苦しみを苦しみとして受け止めること、失敗を失敗として受け止めることの、断固とした拒絶」

だと思えてしまうからなのである。

 

だが本当は、私が間違っているのかもしれない。あなたは本当にしあわせを感じられているのかもしれない。だとしたら、それは素晴らしい。だがもし本当には、

「しあわせだと思わなければいけない」

と思い込んでいるから、それが自らの義務だと思っているからそんなふうに振る舞っているのなら、そんな無理はしなくていい。私たちには

「自分がしあわせだと感じているのなら、誰がなんと言おうと、自分はしあわせだと言う自由」

がある。だがもう一方で、それと同じくらい

「自分がしあわせではないと思っているのなら、誰がなんと言おうと、自分はしあわせではない(こんなものが欲しくていきているのではない)と言う自由」

があるのだから。

 

私はあなたにもしあわせになってほしいといつも思っている。世界のすべてのひとがしあわせでいてほしいと心から思っている。そしてそのために私にできることなら、最大限の力を尽くしたいと思っている。

しかしそれでも、私には少なくとも何人か、

「私(だけ)の力では、少なくとも今生の間には、根本的にはどうしても、しあわせになってもらえないと思っているひと」

を具体的に思い浮かべることができる。そのひとたちの最大の共通点は、

「本人にとってかけがえのない、どうしても埋め合わせることのできない存在を、自殺で亡くしている」

ということだ。私は、たとえそのひとたちがずっと健康で、大金や名声、それに多くの友達を得たとしても、それで彼らがしあわせだとか、しあわせを感じるべきだとは思えない。もし実際にそんな態度でいたら、彼らは周りから

私が望むすべてを持っているのに、それでもしあわせだと認めないなんて、傲慢ですよ!

などと言われてしまうかもしれない。だが、そうではないのだ。なぜなら彼らは、もしその大切なひとと今すぐにまた会えるなら、それ以外のすべてのもの、健康や大金、それに名声や友達のすべてを失ってもいいと思っているからだ。もちろん彼らだって、それになんの価値もないとまでは思っていない。だが彼らにとっては、それよりも圧倒的に貴重なもの、決して他では埋められないかけがえのないものがあったのに、それが失われているのだ。だから彼らはしあわせではない。彼らが自分をしあわせではないと思うなら、誰がなんと言おうと、しあわせではないと言う自由がある。そしてその感覚を、私は絶対的に尊重する。だから私は、私が彼らに行うすべてのことが、本質的に

「気休め」

であることを自覚している。それでも、ないよりはあったほうがいいと思う。しかしそれくらいで私が彼らのしあわせに貢献できたとは、私は露ほども思っていない。私が彼らに望んでいることは

「今のままでしあわせを感じられるようになること」

ではない。私が望むのはただひとつ

「たとえどんなに苦しくても、この人生を終えて再びその相手に会えるときまで、なんとか自殺しないで生き抜いてもらうこと」

それだけなのである。

 

私たちには、たとえ他の誰が不幸だとみなす状況でも、しあわせを感じる自由がある。だからこそその一方で、たとえ他の誰がしあわせだと思う状況でも、それをしあわせだと見なさない自由がある。それが本当の意味で、

「しあわせのかたちはひとそれぞれ」

ということだと思う。

もちろん、しあわせでないよりはしあわせなほうがずっといい。私もそれにまったく異存はない。ただ私は、しあわせになることよりも、ずっと大切なものがあるとも思う。それは、

「自分の感性を離さないこと」

だ。誰がなんと言おうと、あなたがしあわせでないと思うなら、それをしあわせだと言わなくてもいい。それこそが、

「いずれあなたが本当にしあわせになるために、必要なこと」

だからだ。

大切なひとに自殺されたというのはその究極の例のひとつだが、別にそんな状況になくても、あなたがしあわせでないと思うなら、私はその感覚を尊重する。そしてそのうえでこそ、私はなんとかあなたにしあわせになってもらえる方法を、あなたと一緒に考えたいと思う。

本当にそう思うのなら、

こんな世界なんて大嫌いだ!

こんなの私が望んだしあわせじゃない!

私はこんなものを、しあわせだとは思わない!

と言う自由が、あなたにもある。

ただもうひとつ、このこと以上に大切なことは

たとえ自分が不幸だと認めても、自分が失敗したと、苦しくてしかたがないと認めたとしても、それですべてがどうしようもなくなるというわけではない

ということだ。むしろ苦しみを苦しみとして、失敗を失敗として、絶望を絶望として受け止めたからこそ、始まるものもある。そして私たちを最も成長させてくれるのは、より自分らしく変えてくれるのは、きっと間違いなく、痛みや苦しみそのものなのである。

ただ、痛みや苦しみを経験したとき、どうしたらいいかわからないのかもしれない。だからあなたは、自分が苦しいことを、認められないのかもしれない。だがだからこそ、あなたは独りではない。私も、ここにいるのだ。

朝起きた瞬間に耐え難い絶望に襲われて叫び出したくなったことはあるだろうか?それなのにそんなことをしたら、隣の部屋に伝わるんじゃないかとか、誰かにおかしいと思われるのではないかと思って、叫ぶこともできなかったことはあるだろうか?

私の経験から言うと、そんなときは洗面器に適温の湯を張って、そこに顔をつけて叫ぶといい。すべてが泡になって消える。けれどこれも慣れてしまうと、その準備をすること自体がどうしようもなく滑稽に思えてきて、そうしようという気さえ起きなくなるかもしれない。だがそんな状態でも生きていくことはできる。ただ

そんな状態の人間が生きていて、いったいなんの意味がある?そんなひとに、いったいなにができる?

という疑問も当然浮かんでくると思う。だがその答えを出すのは、私よりあなたのほうが向いている。あなたがもし今までもここに書かれてきたたくさんのこんな文章から少しでもなにかを感じてくれるなら、それこそがこの疑問に対する、なによりの答えなのだから。

コメント

  1. なすび より:

    こんばんは。なすびです。

    結局は、自分の人生は自分で切り開くしかないということなのかなと思いました。

    これは、本当に厳しい試練ですね。

    “洗面器にお湯を張って叫ぶ”、なるほど、そうすれば周りの人に声は聞こえないですね。本当に叫びたくなったときは試してみようと思います。

    私も、自分の感性を大事に生きていこうと思いました。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、ただ自分の人生だからといって、自分だけで生きていかないといけないわけではないので、自分の行きたい方向ややりたいことの軸を定めるのは自分自身の手でやるとして、その実現は志を共有できるひと(霊存在も)と協力してやっていくという気持ちでいればいいのではないかと思います。

      つまりは、誰も本当には孤独ではないということを知るということですね。

      あるいはもっと言えば

      「孤独なのは自分だけではないと理解できれば、本当には孤独でなくなる」

      ということだとも言えると思います。

      だからこそ私も少なくとも昔よりは、少しは孤独感を薄められている自覚があります。

      それと、

      「洗面器にお湯を張って叫ぶ」

      というのは、

      「シャワーを浴びながら、その音に紛れて泣く」

      というようなものの変形だと思っていただいてもいいと思います。

      要するに、自分の感情を表現するハードルをできるだけ下げることができれば、方法はなんでもいいわけです。

      そして私も、あなたがあなたの感性を、これからもあなたらしく育んでいけることを、心から願っています。

  2. あるは より:

    初めましてあるはといいます

    統合失調症のもので、一度だけですが

    不思議な経験(幻聴、幻覚ですが僕の受け取り方としては貴重な経験だったと思っています)をしています

    また、入院中知り合った同じ病気の親友とも呼べる子を去年、自殺で亡くしています

    彼のことは忘れることはないと思っています

    思い続けることでしょう

    色々ありましたし、今もまだ万全とは言えません

    ただ

    長くやっていき、それで飯を食べたいこともあります

    今は生きること、宮崎駿さんは生きねばとか

    生きろと言いますが

    僕はただ生きること ただ生きることを放棄しないという事が重要だと思っています

    霊媒師には怖くてなりたくはありませんが(苦笑

    考え方が似ているなと思い全て読まさせていただきました

    これからも頑張ってください

    応援しています

  3. あるは より:

    濁した書き方になってしまいましたが

    主人さんが理解したいというのが根源的な欲求(願い)ならば僕は楽しませたいです

    さらに言えば絵は切り離し難い

    記事も受動的な願い(欲求)で言えば楽しませてもらいました

    ありがとうございます

    表が楽しませたいなら裏は楽しみたいですね

    • Dilettante より:

      あるはさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですか、あなたがいろいろな経験をして、今もなお様々なことがあるだろうなか、ここを見つけ、さらに私に共感してくださったこと、とても嬉しく、ありがたく思っています。

      それに私の文章を楽しんでいただけたこともよかったです。

      周りを楽しませつつ楽しむことができたらいちばんいいですよね。

      なんだか、師のことを思い出します。

      これからもここにいることを楽しんでいただけたら嬉しいです。

      どうぞよろしくお願いします。

  4. 鍵盤マーチ より:

    Dilettanteさんこんばんは。

    自殺防止は、Dilettanteさんがブログで最も伝えたいテーマの一つかと思っております。

    私は、相変わらず早く死ねないものかと考えています。

    ですが、Dilettanteさんがこれだけ切実に(物理的にも精神的にも)訴えられている上に、当然ながら、母からは「何を馬鹿なことを言っているの」と言われるため

    心身共にポジティブな状態で、如何にして早く死ねるか(つまり自殺以外で)という風に最近考えるようになりました。

    スピリチュアルの世界では、死期も決まった上で生まれてくる、なんて仰る方もいますね。

    寿命とは、必ずしも年を取らねば達成できないものなのでしょうか。

    どちらかといえば、やりたいことが多くて、生まれ変われたらなあと思ってしまいます。

    取り留めもなく申し訳ありません。

    疑問系が多いですが、けしてDilettanteさんに問いただしているわけではございませんので、読み流してくださいね。

    今更ながら、今年も更新を楽しみにしております。

    • Dilettante より:

      鍵盤マーチさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、あなたにもおわかりのとおりで、私は自殺に関してはできる限りを尽くして引き留めたいと思っていますが、かと言ってこれはあなたが

      早く死ねないものか

      と感じることを否定したりおかしいと指摘したりするものではないということはお伝えしておきたいと思います。

      それにこれもおっしゃるとおりで、生まれる前にその人生の長さ(死期)については大まかに決めて生まれてくるのですが、それは別に長いほうがいいとか、短く設定するのはおかしいというようなことでもありません。

      ですから、もし生まれる前のあなたが今のあなたと同じ気持ちだったとしたら、あなたの今生の終わりが来るのは、それほど遠くないことなのかもしれません。

      ですがもちろん、今のあなたがそんな気持ちでいるだけで、生まれる前のあなたは、もっと長生きするつもりで人生を組んだのかもしれません。そしてもしそうだとすると、そこにはもちろんそう思うに値するなにかがあるということになります。

      もちろん実際にどうなのかは、私にはわかりませんし、今のあなたもそうでしょう。ですが私としては、あなたの人生が少しでもあなたらしいものになればいいなぁと心から思っています。そしてあなたにやりたいことがたくさんあると言うなら、そのうちの少しでもいいですから、今生のうちにできたらいいなぁと、そう思っています。もちろん、今生でできなかったことは、来世以降でやればいいのですから、あせることではないんですけどね。

      いつも読んでくださっているようでありがたいです。今後とも、どうぞよろしくお願いします。