除霊ではなく浄霊。悪魔祓い師の後継者不足を、私がむしろ喜ぶ理由

「エクソシスト」

という言葉がある。これは1973年に同名の映画が公開されたことで日本でもよく知られたものだと思うが、これは日本語にすれば

「悪魔祓い師」

という意味の言葉である。そして私にとっても重要なことは、この役職は現在でも実在するということである。

そして近年、このエクソシストについて、このような文章がまとめられていた。

ローマのビンチェンツォ・タラボレッリ神父は、いつも悪魔払いで忙しい。しかし若い後継者探しに苦労しているという。

まず基本的に、このような報告は私にとっても非常に興味深いものである。そしてもちろん、このなかには私が共感できる部分もたくさんある。たとえば

信じない人たちは、いわゆる悪霊づきは単なる前近代的な迷信や神話に過ぎないと反論し、悪霊に取りつかれているとされる人たちは、心理学や精神医学で簡単に説明できる状態で苦しんでいるにすぎないと一蹴する。

しかしタラボレッリ神父は、反論する。

「信仰のない人は悪魔も信じていない。しかし神を信じる人は、悪魔は存在すると知っている。聖書にも書いてある。その上で今の世の中の状態を見てみれば十分だ。これほどひどかったことはない。あまたの暴力行為は人間のやることではない。たとえばISのように。本当にひどい」

という部分について、私は基本的にはほとんどそのまま同意する。そのうえで、私なりの見解を加えると、

あまたの暴力行為は人間のやることではない。

「あまたの暴力行為は人間だけの力(想い)で行われているものではない」

と言い換える。そしてもちろん、私は

悪魔は存在する

と言わず、その代わりに

「負の霊は存在する」

と言う。

私はこの『闇の向こう側』の最初期から今まで、何度となく 「負の霊」 という表現を遣ってきた。 だがこのことに関して...

ただそういった違いはあるにせよ、先ほども言ったように大筋においては、私は彼に同意し共感する。

しかしそれでも、私はここで危惧されている、

「エクソシストの後継者不足」

について、私は危機感を共有してはいない。というより、むしろ喜んでさえいる。その理由ははっきりとしていて、

「私は『浄霊・導霊』には賛同するし積極的に実践してもいるが、『除霊』には明確に反対し、いずれはなくなってほしいとさえ思っているから」

なのである。

 

ただいつも言っているように、こういったことについてはなおさら合意形成が不十分で、私が

「浄霊・導霊」

「除霊」

とを分けているとしても、その線引きが他のひとにも通じるとは限らない。だからまずはそこから確認すると、私はエクソシスト、少なくともここで紹介されているタラボレッリ神父の実践していることは、「除霊」という行為として見なす。そしてその特徴は端的に

私が悪魔に『イエス・キリストの名のもとに命じる、立ち去れ』と告げる

という部分に表れているとも言える。つまりこうした態度が、除霊の特徴である。そして言い換えると、これは

「力による排除」

だと言い換えてもいいと思う。そしてこのことが、私からするとどうしても看過できない、大きすぎる問題点なのである。

そもそも、このような手法を単純に見てみたとき、とても単純な問いを立てることができる。それは、

除霊された霊は、そのあとどこに行くのか?

という問いである。これは少し考えれば、あなたともすぐ共有できる疑問だと思う。

そしてこれに対する答えは、大きく分けて2つあると言える。それは

もともといた場所(それを魔界と呼ぶひともいるかもしれないが、名前は問題ではない)に帰るか、そうでなければ、帰るエネルギーさえ失って、極端に弱るかだ

というものだ。しかしいずれにせよ、これはなんら「解決」にはなっていない。なぜなら

「彼らは、いずれ必ず復活して、同じひとであれ別のひとであれ、誰かにはまた同じことを繰り返すから」

だ。

 

これは自分が排除される立場になったと考えれば、とても簡単な話である。もちろん私は肉体人としても霊存在としても、誰かを意図的に苦しめたり傷つけるようなことをする気はないが、もしなにかよほどの想いに駆られ、あるいは今よりさらにどうしようもなく歪んでしまって、そのような立場に立ったとしよう。というより、こんなに持って回った想定をするまでもなく、あるいは単なる誤解でもなんでもいいから、彼に祓われる立場に立ったとしよう。

そうすると、まず私としては

『イエス・キリストの名のもとに命じる、立ち去れ』

という言葉自体が癪に障る。

なぜ「自分より偉いひと」の力と権威を笠に着るんだ?

と思う。これがもし、

ローマ・カトリック教会において、何十年もの間、この世界に喜びを拡げようと思い生きてきた、ビンチェンツォ・タラボレッリが命じる。立ち去れ

と言うならまだわかる。しかしこれを

「自分の責任と選択のうえでの行動」

だと明示せず、

「自分の背後にいる、とても強く権威ある存在の代理」

として行おうとしていることに、私なら絶対に釈然としない。だからそんな釈然としない状況では、絶対に負けたくないと思う。そしてこれは、私でなくても同じだと思う。

しかしそれでも、相手の想いと力が勝り、私が負けたとしよう。そして私が、あるいは数万年やそれ以上復活できないほどに、圧倒的に弱められたとしよう。それで、私は考えを改めるだろうか?それまでの自分とはまったく違う生きかたをしてみようと思うだろうか?

私は少なくとも私自身としては、絶対にそんなことはないと断言できる。それどころか、私はたとえどれほどの時間がかかろうとも、私を力ずくで排除した相手、あるいはその仲間たちのところに、再び現れようとすると思う。そしてそのときの私は、確実に、前回よりも強くなっている。

なぜそう言い切れるかと言えば、それはとても単純で、

私自身が、なにひとつ納得していないから

だ。だから、たとえどれほど圧倒的な力で、何度同じ目に遭わされたとしても、私は変わることはない。そしておそらく、私はいつかには、私を幾度となく排除したその相手を、超えることになるだろう。なぜなら、頭ごなしに否定されればされるほど、その想いはむしろ深まるからだ。だから最後には、必ず私が勝つ。少なくとも私としてはそのような意気込みを持つのだから、ずっと諦めることはないと思う。私は私の気持ちを率直に見つめて、このように断言できるのだ。

 

だから、そんな私であればなおさら、こんな除霊には断固として反対するのである。これは実際には問題を解決するどころか、

「後の世代のひとたちに、より大きな問題を残す」

ことでしかないからだ。この端的な一例が、以前まとめた

ごく特殊な例外を別にすれば、私たちは誰も他者を積極的に傷つけたいなどとは思っていない。まして自分に近しいひとに対してはなおさらである。 ...

というものでもある。だから、除霊は問題の先送り以上の意味はないばかりか、問題をより大きくしているという意味において、無駄以上の害である。そのような観点から、私は一貫して、エクソシスト(除霊師・悪魔祓い師……)の役目をできるだけ早く終わらせたいと思っているので、彼らに後継者がいなくなるというのは、むしろ喜ばしいことなのである。

 

それにここで紹介されているタラボレッリ神父自身が、

怖いという人は多い。神父だって怖いのです。つらい人生です

と言っている。しかも彼の年齢を鑑みても、そんなつらいことはもうやめたらいいと思う。本当にそう思う。なぜならこれは、このやりかたは、誰のためにもならないからだ。だから私は、彼の根底にある想いや日々の尽力には心から敬意を払いながらも、だからこそ彼のこの活動については、断固として反対するのである。

 

とはいえ、これは別に私がこのような問題をそのまま放置していいと考えているわけではない。だからもしこのような相談が私のもとに来たとしたら、私は私なりのやりかたで対処する。

具体的に言うと、ここで事例として挙げられている彼女の場合には、

悪魔主義者の別の男性が、彼女を欲しがっていた。彼女に断られたこの男性は『覚えてろ』と言い、彼女を自分のものにするため週に2回、いわゆる呪いをかけたのです

ということが明らかになっているようなので、これをどうにかしようと考えるところから始める。もともとすべての根源は、「悪魔(と呼ばれる存在)」ではなく、彼にあるのだから。

だからこのような場合には、もし可能であれば、肉体人の彼を呼び出して、直接話し合うのがいちばんいい。しかしそれができない場合には、想いだけでも手向けることで、少しでもお互いの理解を深められる可能性を探る。そのうえで、彼女にも自分の主体性に基づいて、望まない存在の干渉を拒んでもらう。先ほども確認したように、それが悪魔と呼ばれていようがなんであろうが、ともかくこの問題の核心を為しているのは、

「彼女と彼の関係性」

である。その意味で、それ以外の存在はすべて

「外野」

である。ましてや、縁もゆかりもない霊存在など

「野次馬」

でしかない。だから、彼らに問題を引っかき回してほしくないと願うのは、相手を侮るわけでも蔑むわけでもない、ごく自然な想いである。

そしてもし、それを嫌がる理由があるのなら、それを聴き出すための話し合いを持つ。単純に言って、

「自分が不幸なのに(うまくいかなかったのに・しあわせな人生を送れなかった)のに、こいつらがうまく行くのは嫌だ」

というようなことなのであれば、自分が圧倒的にしあわせになってしまえばいいということを伝える。そしてそれができないと思うのであれば、もちろん私も手伝う。そう言ってもどうにも納得がいかず暴れ出すような場合には、それを収めて落ち着かせてから(暴れたいだけ暴れてそれを収めると、自然と落ち着く。これは単純なエネルギーの原理である)、再度話し合いを続けていく。

こうして外野の野次馬を収めていきながら、核心に想いを届けていくようにしていけば、いずれは少しずつ少しずつでも、問題はちいさくなっていくということだ。

とはいえ、これを実践するのが言うほど簡単ではないのもわかってもらえると思うが、それでも大まかな骨子はこのようになると言える。そしてこれが、「除霊」とは異なる

『浄霊・導霊』

の手法である。

そして、これを私なりにでも実践している私としては、これが大変でないとはとても言えない。それにある面では、明らかに除霊よりも時間と労力を要するとも思う。しかしそれでも私としては

本当に問題を解決していくには、このような態度で臨む以外にはない

という確信がある。だからこれからも、私にできる限り、私はこれを続けていきたいと思う。そしてそんな私としては、もちろん無理強いはできないのだが、除霊師ではなく「浄霊師」が増えてくれることを、切に願っている。それは結局のところ、霊との付き合いかたを学んでいってほしいということだ。それは簡単ではないし、だからこそ私もずっと続けていこうと思っているが、現在除霊に関わっているすべてのひとたちが浄霊をするようになる日が来たら、どれだけの問題が解決に向かうかは計り知れないほどだ。だから私はあなたとも、一緒にこんなことを、考え続けていきたいのである。

コメント

  1. より:

    いつも興味深く読ませて頂いています。

    ふたつ疑問が湧いたのですが、

    負の霊、という存在は元は人間だったのでしょうか?

    それとも人間の想念の集合体、とか

    身体を持った事のない霊、とかもいるのでしょうか?

    そしてそこまで

    ねじ曲がってしまった精神の霊を説得する事は可能なのでしょうか?

    生きている人間でさえ、重い精神障害や、心がねじ曲がっている人を

    落ち着かせ、説得する事など不可能に思われます。

    説得する側に、

    よほどの高い人格と深い愛情がなければ叶わないと思うのですが

    その辺りはどう思われますか。

    • Dilettante より:

      南さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、まず最初の質問に関しては、ご指摘の3種類ともそれぞれすべて存在します。

      かつては人間だった霊がいちばん多いですが、まだ若い魂であれば、肉体を持ったことのない霊というのもたくさんいますので、彼らが歪んでしまったとしたら、負の霊になることも充分あり得るでしょう。

      それから、

      「想念の集合体」

      というのを具体的に例示すると、たとえば龍や鳳凰、それに薬師如来や弁財天などもすべてその一種だと言っていいです。

      またこれは、現代で言えば漫画のキャラクターとかもすべてそうで、相当数のひとたちに共有されているイメージというのは、実際にそれ相応の力を保つものとして存在するようになっています。

      ただもちろんそこには

      「年季の差」

      があるので、時代を超えて残っているもののほうが、やはりより大きな力を保つようになるのは確かです。

      そして私たちが想像(創造)するものはいい存在だけではありませんので、そういったものも、やはり実際に存在するようになるということです。

      それで、

      そしてそこまで

      ねじ曲がってしまった精神の霊を説得する事は可能なのでしょうか?

      生きている人間でさえ、重い精神障害や、心がねじ曲がっている人を

      落ち着かせ、説得する事など不可能に思われます。

      説得する側に、

      よほどの高い人格と深い愛情がなければ叶わないと思うのですが

      その辺りはどう思われますか。

      ということに関しては、これは裏を返せば、

      「相応の人格と愛情があれば、相手を説得できる」

      ということだとも思います。

      そうだとしたら、そしてそれを実践してみたいと思うのであれば、それに必要なものを身につければいいということだというのが、私の考えです。

      そのうえで、

      「説得」

      というのが言葉だけでできない場合には、ここにも書かれているように闘い(エネルギーのぶつけ合い)になることもありますが、それでも最終的に、理解を深め合えればいいわけです。

      ですから肉体人に対しても、

      イライラしてどうしようもないなら、スポーツでもしてみたら?

      というようなことが言われることがありますが、私もこれには一理あると思いますし、スポーツができないのなら、サンドバッグを叩くとかでもいいですから、要するに

      「うまい具合に暴れさせてあげる」

      というのも、ひとつの手法ではないかと、私は思います。

      とはいえ、もちろん理論は実践によってこそ意味を成すわけですから、私も私なりに、私にできることを、そして私がやりたいと思うことを、続けていきたいと思います。

  2. より:

    返信、ありがとうございます。

    「想念の集合体」のお話し、大変興味深かったです。

    そして「うまい具合に暴れさせてあげる」についても

    なるほど、と思いました。

    ほおっておくと、歪んだ霊(人間も)は

    善良な人に危害を与えて喜ぶ性質を持っていると思うので

    その攻撃性をどう処理するか?という事なんですね。

    納得しました。ありがとうございます。

    • Dilettante より:

      そうですね、たとえ問題は明確だとしても、その解決策を見出し、そしてそれを実践するとなるとやはり難しいことではありますが、だからこそこれからも、一緒に考え続けていけたらと思っています。どうぞよろしくお願いします。